Track.03
彼女の輝く空
優有たちは無事2年生へ進級した。しかしながらクラスのメンバーは特に変わらず、阿部先生の定年退職に伴い、新しい副担任の先生が決まった程度の変化。ただ、心中穏やかではない者もいる。嶺は2月以来、優有へ対する想いを燻らせ続けていた。いっそのことクラス替えでもあれば、少しは気が紛れたかも知れないが、それも叶わず、常に一つの教室で優有を見守ることになった。唯一の救いは、そんな嶺の気持ちを知る俊琉が全く他人の話に興味がないことだ。
そんな、抜けるような青空が広がった四月のある日、優有は街の楽器店を訪れている。昨年の秋より始めたエレキベースだが、いよいよ自分の楽器が欲しくなり、遂に楽器店へ足を運んでみたのだった。正直、どんな楽器があるのかもよく知らない。一度須藤先生からのレクチャーは受けたが、実物を見ることは大事だと思う。たとえ今日買う気がなくても、ものは試しだ。
「はー、楽器がいっぱい」
優有は当たり前の感想を唇からこぼす。ここはもっとも近場にある楽器店だ。購入やメンテナンス以外にも、様々な楽器ケースを持った人々が出入りしている。しかし、思っていたよりもオシャレで明るい雰囲気の店構えに安心した。実際には何度か訪れてみようと思ってはいたが、緊張してしまい踵を返したことがある。意外と来てみればなんともないな、と思い、店へ足を踏み入れた。
なお、事前の情報収集では、ぼーっと見ていると店員が話しかけてくるというので、人見知りの優有はヘッドホンで耳を塞いでいる。今流行りのバンドの曲が店内BGMとして流れているが、全部自前の音源で聴こえない。BGMと同様、周囲の会話も聴こえていないのだが。
「あの子の服やばくね。なんだっけ、ハードコアのバンドっしょ?」
「あーあれ、聴いたことねー」
楽器店である。いつもの調子で着用しているバンドマーチは目立ちまくっていた。
——あっ、これ、ネットで見たやつだ
優有はとある赤いベースの前で立ち止まる。以前ネットで見つけて気になっていたものが、実際に置いてあるとは思わなかった。木目の浮いた濃い赤色の、所謂ジャズベースタイプと呼ばれる5弦ベースだ。確かアクティブで非常にゴリゴリとした音が出るはず。肝心のお値段は、堂々の15万オーバーだ。
「あちゃー、やっぱ高いなー」
さすがに高校生には厳しい金額だ。須藤先生曰く、遊びでやるなら安い楽器でも全然問題ないとのことだが、やっぱりこの楽器が気になる。見た目が大事とも言うし。
「——すか?」
しゃがみこんで楽器を眺めていると、遠くで声が聞こえた。隣にいつの間にか店員が立っていた。慌ててヘッドホンを外す。
「こちらの楽器、気になります? あ、そのバンドお好きなんですか? 僕も好きなんですよー」
「あっいやっわたし、結構です!」
思ったよりもグイグイくる接客に驚き、咄嗟に優有は、くるりと反転してお店から出てしまった。
「はあ、わたしバカだ。嫌になる……」
お店の前にあるベンチに座り込み、自己嫌悪に陥る。自分の中では、随分と人見知りも改善してきたと思った矢先にこれである。お仕事で話しかけてきた人に対し、テンパってお店から出てしまうなんて。恥ずかしさに耳が熱くなる。
そんな時だった。
「あの、間違ってたらごめんなさい。あなた、もしかして真桜高校に通ってない?」
女性の声がした。俯いていた顔をあげると、そこには、比較的小柄な女性が立っている。といっても、ほとんど自分と変わらない。年はだいたい20代後半から30代前半だろうか。ウェーブした黒髪を肩まで垂らし、丸いオシャレなフレームの眼鏡の奥には、柔和そうな目が微笑んでいる。だが、一つ目を引くのはボタンダウンシャツの襟元から覗く首筋だ。三日月と星を図案化したタトゥーが入っている。
あ、本物のひとだ。
「あっ、はいっそうです」咄嗟に口走ってしまう。こういうのは、馬鹿正直に言わない方がいいのでは、そう思いついた時には手遅れだった。
「よかった。世界史の須藤先生ってご存知? 眼鏡の、やる気ない感じの先生」
「あ、担任の先生です」
「あら! どんぴしゃ。やっぱりあなただったのね。いつも旦那がお世話になってます」
「え、旦那……? 奥さん? 須藤先生の!?」
驚きに目を見開く。
「そうなんですよ、私。これでもあの人の妻やってます」
なんでも、楽器店の中で、熱心にベースを見ていること、女子高生なのに厳つめのバンドマーチを着用していること、自分と背格好が近いことから声をかけてみたらしい。名前こそ知らなかったらしいが、須藤先生から情報がダダ漏れである。
「でも、どうしてわたしに声をかけたんですか? 彩芽さん」
名前は彩芽というらしい。優有の隣に腰掛けた彩芽へ問いかける。
「なんだか慌ててお店から出ていったでしょ。面白そうだったから、つい」
また耳が熱くなる。完全に一部始終が見られていた。穴があったら入りたい。
「うーわー見てたんですか? 恥ずかしい……」
「でもここの店員さん、ちょっと馴れ馴れしくてねぇ」
「そうなんですか……?」
「実は、私もドラムやってたんだけど、ここ昔から評判良くないのよ」
そんな事情があったとは。危うく楽器店デビューが嫌な思い出になるところだった。
「あの、今日は何か楽器を探しにきたんですか?」
「ああそうだった。こっちにきてたのは単純に時間つぶしなんだけど、優有ちゃん、旦那のライブ観ない?」
彩芽さんの旦那さんのライブということは、須藤先生のライブである。
「えっ、たかぴー先生ライブやるんですか? 観たいです!」
「たかぴー先生とか、ウケる」
彩芽さんはクスクスと笑う。
「ちょうどこれからスタートなんだけど、いいよ。私がチケット代出してあげる」
「いやっ大丈夫です! 払います。おいくらですか?」
「いいのいいの。私が無理やり連れてったってことにしないと、あの人後で文句言うから」
なんだか、簡単に想像できる。少し情けないような気分になった。
「あ、でも、わたし、ライブって行ったことがなくて」
「あら、そうなの、意外。まあ大丈夫でしょう。昼からの健全なイベントだし、みんな身内みたいなライブなのよ」
「はえー」
そんなこんなで、初めてのライブ鑑賞が決まった。どうやら、あと30分後の、15時に始まり、遅くても夜の18時頃には終わるライブらしい。さらに先生はトップバッターなので、終わり次第好きなところで会場を出てもいいと言う。こういうとき、経験者に引率してもらえると非常に心強い。話を聞くと、彩芽さんも大学時代バンドマンで、結構本格的に活動をしていたらしい。首筋のタトゥーはその時に入れたそうだ。
「ほらここが会場。めっちゃ近いでしょ」
楽器店から少し歩くと、小さな雑居ビルのような建物についた。重そうな扉の向こうから、ベースの音が漏れ出ている。
「こんなところにライブハウスがあったんですね」
「フフ、厳密にはライブハウスじゃないんだけどね。優有ちゃん、リハーサルスタジオってわかる?」
「練習、するところですよね」
「基本的にはそうなんだけど、今日はここの一番大きい部屋でライブをやるの」
「そんなこと、あるんですか?」
「まあ手作り感満載だよねえ」
そう言いながら彩芽さんは扉を開いた。薄暗い廊下が伸び、両脇に鉄の扉がいくつか並んでいる。少しタバコの匂いがする。そのまま廊下を進むと、受付のカウンターがあり、眠そうな顔をしたのっぽの青年が手持ち無沙汰に立っている。その青年は、彩芽を見つけると急に人懐っこい笑顔になった。
「彩芽さん! ご無沙汰してます」
「やー久しぶりー竹中くん。私の分の取り置きと、当日一枚お願いできる?」
「お久しぶりですー。取り置きと、当日一枚ですね。ドリンク含めて二千円ずつ頂戴します」「じゃあ、五千円で」さっと優有の分も含めて紙幣を差し出す。
「では、こちらチケットとドリンクチケット、お釣り千円ですね。彩芽さんはビールっすか?」
「ごめんねえ、私まだ服薬してるからアルコール飲めないのよ。ノンアルで勘弁して」
「あっスンマセン! こちらノンアルビールですね」
「ありがとー。はい優有ちゃん、こっちがチケットで、途中退室とかで半券見るから取っておいて。このちっちゃいのがドリンクチケット。これでこののっぽのお兄さんから飲み物貰ってね。アルコールは、まあ、見つからないように」彩芽さんが悪戯っぽく微笑む。なんだか知らない世界でワクワクしてきた。
「ベアトゥースのパーカーかっこいいね。楽しんでね」
「あっはい。ありがとうございます」
それとない声がけに、少し上気する。いつもはいい顔されないファッションも、ここなら溶け込んでいて、なんだか認められたような気分になった。
「それじゃ、この扉の向こうが会場ね。危ないと思ったらすぐに端っこにいけば大丈夫だから」
「物騒なライブなんですね?」
「オールドスクールハードコアよりはマシかな」
「わかりました!」
扉を開けると、長方形の部屋だった。部屋の中央壁際にドラムセットが鎮座し、それを囲むようにアンプやスピーカー、セッティングされた楽器が雑に置かれている。また、部屋の照明は落とされ、所々に置かれたLEDのイルミネーションだけがぼんやりと光っている。そして、それを取り囲む人々。なんだこれ、ステージがない。そして、結構な人数が入っている。室温が暑く感じる。飲酒している人も多いのか、空気に若干アルコール臭が混ざる。
初めての光景尽くしだ。呆然としていると、彩芽が優有の手を引き、部屋の奥のスペースへ移動する。入り口付近より、若干スペースが空いている。
「これ、なんかすごいですね」どこからか流れているBGMと、雑踏に負けないように彩芽へ話しかける。
「タイミングばっちり。ちょうどこれからみたいね」
その時、もう一度部屋の扉が開き、男性三人組が姿を現した。部屋の人々がその姿を認めると好き勝手に囃し立てる。
「イェーイ!」「早くやれー!」「ビールちょうだい!」
部屋の中央へ向かう三人組は、それぞれの毛色がちぐはぐ過ぎて面白い。先頭は我らの須藤先生だ。オーバーサイズのシャツに短いハーフパンツ、丈の長いソックスにランニングシューズを履いている。これは、かっこいいのか? 続くのはまさかのパンツ一丁だ。スティックを持っているのでドラム担当だろう。そして最後にギター担当と思われる地味な男性。ボーダー柄のポロシャツのボタンを全て閉じ、細身のチノパンにタックインしている。地味だと思ったが、色々やばそうな雰囲気が漂っている。
わくわくしながら眺めていると、どうやら準備が整ったらしく、BGMの音量が一度上がり、フェードアウトする。いよいよ始まるらしい。
すると、ドラムが早くもなく遅くもない三拍子のリズムを叩き始める。数小節が過ぎると、ベースが4弦の開放弦を鳴らす。にわかに強まる緊張感と、音圧に頰がピリピリする。
一瞬全ての音が止まり、瞬間、耳を貫く金属的なノイズが爆発する。ギターの爆音だ。ドラムが8分音符6つのカウントを入れると一斉に音楽が加速する。
それと同時にベースを弾く須藤先生がマイクに食らいついた。どうやらギターの人もボーカルを取るらしく、泣き叫ぶように掛け合う。
歌詞は聞き取れなかった。怒涛の序盤が過ぎると、ギターはスケールいっぱいに移動するアルペジオを奏で、ベースとドラムがリズムを支える。しばらくリフが展開されると、4分音符のブレイクが3回。すると、観客の一人が次の展開に合わせ前に飛び出し、そのまま会場全てがモッシュピットの様相だ。気がついたら彩芽さんは誰かの背によじ登り、そのままリフトアップされどこかに流されていった。
すごい! 訳がわからない!
がちゃがちゃした演奏に合わせて、ステージも客席もなくもみくちゃになっていく。優有にも何度か人が突っ込んできたが、また笑顔で混乱の中へ戻っていく。今まで画面越しにしか見たことのない光景が広がっていた。
バンドが何回かブレイクを作ると、再びギターがアルペジオを奏でるが、今回は同じ3音を繰り返し、ベースとドラムは沈黙している。観客の中から歓声と腕が上がる。そこからはシンガロング大会が始まった。ベースを捨てた須藤先生がマイクを握り、観客に突っ込む。もみくちゃ、再び。
圧倒されていると、どうやら一曲が終わったらしい。一際大きな歓声が上がり、観客の輪からよれよれの須藤先生が吐き出された。誰かにお尻を叩かれている。
『あ、ありがとうございます。今日は、僕たちの、だいぶ久しぶりのライブですが——』
終始そんな感じだった。静と動、絶叫とメロディーを繰り返す。何度か聞き取れた歌詞はひたすら後ろ向きで、行き場のない怒りや空しさ、悲しみと赦しを歌っていた。須藤先生は右手をどこかに引っ掛けたのか、指先から出血までしている。あっという間の時間だった。そして、最後は全員笑顔で一礼すると、須藤先生の出番は終了した。
優有はたまらずスタジオを飛び出す。空気が薄過ぎる。途中から一緒になってもみくちゃにされたため、服も髪の毛もボサボサになっていたが、無性に笑えてくる。
「うわぁ、すごい、すごかった」
出てくる際にのっぽのお兄さんから貰ったミネラルウォーターを流し込む。口の中がしみる。痛みに驚いて舌で確かめてみると、若干血の味がする。モッシュで切ったらしいが、今の今まで気がつかなかった。
「いやあ、暴れたー。流石にもうしんどいわあ」
ヘロヘロになった彩芽さんが現れる。序盤で別れてから、結局最後まで離れ離れだったが、お互いに晴れやかな表情をしている。
「いや、ごめんね優有ちゃん。なんか思ったより激しかった。どこか怪我してない?」
「あはは、お疲れ様です、彩芽さん。口の中を切ったみたいですけど、それ以外は特に」
「あららら、ごめんなさいね。ちょっと休憩しましょ」
「んへへ、耳すごいですね。ずっとキーンってなってます」
「あー、そうよね、耳栓渡せばよかった。失敗した」
「全然大丈夫です! めちゃくちゃ楽しかったです!」
「そう? よかった」
スタジオを出たところで彩芽としばし雑談した。学校のこと、友達のこと、好きな音楽のこと。そして、優有はどうしても気になっていた、彩芽自身のことを訊いてみる。
「彩芽さんは、どうして先生と結婚されたんですか……?」
「あら、随分と突っ込んでくるんだ。まあお年頃だもんね。貴宏さんは、私の大学の先輩でね。当時は同じサークルメンバーってだけで、特に関わりはなかったの。卒業して、結局普通に就職したんだけど、ちょっとまずいところに入っちゃって……」
「あっ、その……。先生から少し伺ってました……。すみません……」
「あら、聞いてたんだ。大丈夫、気にしないで。それで、一番ボロボロだったときの取引先の担当がちょうど貴宏さんだったのよ。それでかな、気がついたら結婚してた」
「そんな感じなんですね……。あの、お体とか、大丈夫なんですか?」
「おかげさまで結構よくなってきました。少しずつ在宅の仕事もしてて、なんとかなりそうかなって。あの人、いつも家で曲を作ってるんだけど、実はここ一年で感じが変わってきたの。今作る曲の方が前よりももっと好き。やっぱり人間って、長く何かしてると、途中で妥協しちゃうのよ」
彩芽はウェーブした髪を搔き上げる。首筋のタトゥーがよく見えた。
「話を聞いてみると、なんだか新入生にめんどくさいのが入ってきたーって文句言ってて。もっと高校生らしいの聴いたらどうなんだーとかうるさいのよ、家ではね。だから、今日は優有ちゃんにあえてよかった。ありがとね、あなたのおかげよ」
まだ冷たさの残る四月の風は、若干の若葉の匂いが混じっている。
「いてて、うわっ! 痣になってる……」
その日、脱衣所で体をチェックすると、いたるところに痣が出来上がっていた。思っていたより激しくぶつかり合っていたようだ。触れるとじんわりと痛む。
「ん。痛いけど、嫌じゃない」
鏡に映る自分の姿は、相変わらず傷跡だらけ。そこに痣が増え、なおさら居た堪れない見た目になっている。
でも、この痣はきらいじゃない。初めて自分のからだが誇らしくなった。全体的に丸く、柔らかな輪郭のからだをそっと撫でる。
「まだ耳キーンってなってる」
笑いながら顔をしかめた。
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