こころなんて、一生不安だ
「ねえゆーちゃん、バレンタイン来週だけど、どうしよっか」
「んー、今年はもらえるかなあ」
「ゆーちゃん、あげる側だよ」
「あ、そっか。引きこもってたから忘れてた」
自分が女子になってから、3回目のバレンタインデーが迫っている。しかも、今までは引きこもっていたので、実質これが初めてのちゃんとしたバレンタインになる。男女で意味合いが違うのを、すっかり忘れていた。
優有と静音は放課後、学校帰りのファミリーレストランで試験勉強をしている。期末考査が控えているので、様々な科目が大詰めだ。静音や嶺の手助けもあり、特に赤点の不安はない。今日は、目下来週に迫ったバレンタインの作戦会議が目的だった。
「それで、毎年ウチで手作りしてるんだけど、一緒にやろ? 美沙希ね、クリスマスのことまだ根に持ってるから」
「うへー、本当にごめんって。今回はちゃんと大丈夫だから、ね」
「でもよかったねーほんと。その後どう?」
「うん。年末年始は一緒にこっちで過ごしたよ。ちょっとまだ地元は怖くて」
「そっかあ。でも、順調そうでよかったよかった」
静音はそう言って微笑むと、ドリンクバーのカップを持って立ち上がった。
「飲み物取って来るね。何かのむ?」
「んー。コーヒー飲みたい」
「わーゆーちゃんオトナー」
そんな軽口を言い合いながら、優有はノートを閉じる。なんだかもう今日は、勉強をする気になれない。窓から外を見ると、冬の曇り空から、パラパラと雪がちらつき始めていた。天気予報では今期最強の冷え込みだという。暖房の効いた部屋の中から眺める雪は風情があって好きだ。ぼんやりと自分と静音、美沙希の3人で並んでチョコレートを作る光景を想像する。正直、やったことがないので想像もできない。
——静音に手取り足取り教えてもらおう。
そんなことを考えていると、ドリンクを取りにいった静音が戻ってきた。ドリンクをこぼさないよう、恐る恐る歩いているのが新鮮だ。
「おおお、おまたせ。お砂糖とミルク、適当にもってきたよ」静音はテーブルにトレーを置く。教科書やノートが邪魔にならないように避けておいて正解だった。
「わーありがとう。でもね、わたしはブラックでいくよ」
「えー、無理してない?」
「実はね、飲めるんだよ。ブラックが」
できるだけハードボイルドなトーンで言う。
「あーはいはいその方がロックだもんね」
ずいぶんじゃれ合いも板についてきた。二人でくつくつと笑いあう。
「いいですよねーJK。私にもあんな時があったなあ」
「きみもまだ大学生だろ。ちょっと昔じゃないか」
「もー店長、ブランド力が違いますよ、ブランド力が」
「そんなもんかな。さ、仕事仕事。今のうちにディナーの準備しないと」
「夜からのシフト誰でしたっけ——」
その週の日曜日、材料を携えた優有は、手慣れた様子で部屋番号をパネルに入力する。呼び出しのチャイム音に続き、スピーカーが声を発する。
『ハイ、菅原です』
知らない男性の声がする。が、静音の家には男性は一人しかいない。きっとお父さんだろう。
「あ、静音ちゃんの友人の、庄子といいます」
『ああ、今開けますね』
通話が終わると、すぐにオートロックのドアが開く。もうだいぶ慣れた。いちいちかっこいいとは思わない。少しだけ。
部屋の前に着き、改めて呼び鈴を押す。すると、今度は美沙希の声でスピーカーが喋り、ドアが開いた。
「ゆーちゃんいらっしゃい! 今日はお寝坊しなかったね!」
「ミサちゃんおはよう。あはは、今日はちゃんと作るから、お手柔らかに」
「ふーん、どうしようかなー」玄関でしばし笑い合う。
「いらっしゃい。いつも静音がお世話になってます」
「あっお邪魔します。いや、わたしの方こそしずちゃんにはお世話になってて」
実は、初めて静音の父と対面した。活発な静音姉妹に反して、色白でシュッとした印象の男性だ。声で感じた若さに対し、髪に白髪がかなり混ざっており、男手一つで姉妹を育てた苦労が偲ばれる。
「いつも静音から聞いてるよ。メタル好きなんだってね。私も大学時代にスレイヤーとか聴いてたよ」
「あはは、スレイヤーですか」
「ゆっくりしてってね」
いい人そうだ!
「はい。じゃあ、今日はこれ、トリュフをつくります」
「こういうのって難しいんじゃないの?」
「めっちゃ簡単だよ。というかほとんど毎年これ。だいたい友チョコ行きだしねー」
「なるほど、そんなもんか」
「大丈夫だよ。美沙希が手伝ってあげる」
3人揃ってキッチンに立つ。なんだかすごく女の子女の子していて、ちょっとドギマギしそうだ。それにしても、二人とも可愛いエプロンをしている。それに比べて、自分のは黒一色で、少しだけ気後れした。
「ん。ゆーちゃん、髪まとめてあげる」
「えっ、あ、うん」
「結構髪伸びたね。これならまとめられそう。はいできた」
「ありがとうー。でも、切ろうか迷ってるんだよね。あんまり長くても変じゃない?」
「美沙希は長い方が好きだけどなー」
「せっかくだしこのまま伸ばしたら? その方がロックなんじゃない? わかんないけど」
「確かに、ヘドバン映えしそう」
和やかに作業は進み、初めてのチョコ作りは無事終了した。静音姉妹と嶺、最近よく話すようになった武田
ちなみに、途中静音が秘蔵のラム酒を若干拝借したのが発覚し、なんだか寂しそうな顔をしたお父さんが記憶に残っている。大事なものだったのだろうか、なんだか申し訳なくなった。
そして、バレンタイン当日。しっかりと保冷バッグの中身を確認し、家を出る。なんだか誇らしいような清々しいような気分。優有は冷え切った朝の空気を肺に吸い込むと、マフラーを口元まで引っ張ってから歩き出した。真冬なので、帽子が黒いニット帽に変わっている。これもお気に入りのバッジをいくつか装着しているが、流石にワンポイントの装飾なので、普段のキャップよりアピール度は低めだ。
通学路を歩いていると、途中で静音と合流する。
「しずちゃんおはよー」軽く手を振りながら挨拶を交わす。
「おはよー、今日も寒いねー」
「雪が積もってないだけましだよ。ちょっとでも積もると大変らしいじゃん?」
「あはは、慣れてないからねー」
静音と、他愛もない話をして学校に向かう。なんて穏やか1日の始まりだろう。そう思っていたのだが、学校につくと、妙にそわそわした雰囲気があった。そうだ、男子のほとんどが浮き足立っている。冗談めかしてチョコの催促をする者、横目でばかばかしいと眺めながら、どこか期待して浮ついている者。それぞれ何かしらの期待があった。優有も
「しずちゃん。やっぱり、なんだかんだいってみんな期待してるんだね」
「そうなのよ。今だからわかるって感じ?」
「まあ、ねえ……」
二人は上履きに履き替えると、教室への階段を登る。朝から最上階に向けて階段を上がるのは、引きこもり状態から脱した入学当初こそ辛いものがあったが、今ではだいぶ余裕を持って登り切ることができる。わかりやすい進歩に成長を感じる。が、元がマイナスでようやく普通になっただけなのだろうか。とりあえず今日1日、女子としての一大イベントを乗り切ってみようと思う。
お昼休み、静音とその友人が教壇に上がり量販店の袋を広げる。中身はあのブラックサンダーだ。実は、あらかじめクラスの女子全員で少しずつ金額を出し合い、男子全員分のチョコを買っていたのだ。なかなかうまいことやるな、と思う。
「はーい男子注目ー。ここにチョコ置いておくので、各々取りにくるよーに!」
静音の友人が明るく声をかける。一人一個、早い者勝ちだ。男子の反応もそれぞれだが、まあ、誰もあぶれない状況に沸き立っている。もしも自分が男子のままだったら、一喜一憂から解放されて喜ぶんじゃないかなと、どこか他人目線で想像した。
「いやー、思ったよりなんか、みんな喜んでるね。よかったよかった。来年もやろっか」
「そうだね。わかりやすくていいと思う」
「なんかゆーちゃん達観してるー」
「いやあ、なんだか不思議な気分で。えへへ」
その後、昼食を食べ終わると、二人は持参した荷物を取り出し、まとめて嶺と俊琉を呼んだ。
「嶺ー、俊琉くんー、ちょっと来てー」
「なんだよ、なんか用か」嶺はいつも通りぶっきらぼうだが、若干声のトーンが上ずっている。わかりやすくていい。
「なになに、チョコくれるの? 本命?」
それに対し俊琉は程よい軽さだ。二人まとめて呼ばれているところで本命は渡さないだろう。わかっていての冗談が心地よい。
「はーいこれ、ハッピーバレンタイン。ちゃんと手作りだからね、ありがたくいただくのだよ?」
「やったぜ! 眞鍋と友達でよかったわー」
「ん。サンキュ。これ、優有も作ったのか?」
「あー、うん。しずちゃんの家で、みんなで作ったんだ。はいこれ俊琉くんも」
「そっか。ありがと」
「うおっマジか、やったぜー今年の俺は一味違うみたいだぜ。モテ期到来かな?」
みんなで笑い合う。どうやら、ミッションクリアと言えそうだ。
「チョコを渡す側になった感想は?」
「いやあなんか照れるね。あと、男子の悲哀を感じました……」
「あっはは、ゆーちゃんが言うとなんか重みがある。まあでも、罪なイベントだよねー」
「女の子って大変だぁー」
「こらこらへこたれない」
今日は特に寄り道もせず、帰ってしまおう。部活動が終わるまで、学校のバレンタインは続くのだ。まだ諦めきれない男子に無駄な期待を持たせないよう、役割を全うした者は素早く去るべきである。優有と静音は、一仕事終えた気持ちで学校を後にした。
「どうした眞鍋ー! もうバテたかー?」
嶺は肩で息をする。冬の冷たい空気が喉を切り、血のような味がする。体の熱は寒さに程よく奪われ、コンディションは良好なはずだ。だがしかし、どこからか力が漏れ出しているような気がする。まるで小さい穴の空いたタイヤのチューブだ。走れば走るほどタイムと調子が悪化する。
「……すんません。あと、ちょっと流して終わりにします」
「なんだ、体調不良か? あんま無理せず異変があったら即報告。いいな」
「ハイ。ありがとうございます」
どうもおかしい。空気以外のものが足りていない。何か、得体の知れないもの。
テスト期間直前の部活だ。ここで体や体調を崩して、学生の本分である勉学を疎かにするようなことはできない。顧問の井上はもともとスパルタンな指導方針ではないが、こういう時は殊更に指導が軟化する。すこし勝気が足りないと言われることもあるが、学生第一のいい先生だ。
体が冷えないように、流れた汗を拭うと、素早くジャージを着込む。どうしようか、もう少し走ろうか。体を動かした方がいいような気もするが、なぜだか無気力な感じもある。
「眞鍋、なんかあったか……? 眉間に皺を寄せて。熱でもあるんじゃないか」
「先生。やっぱり、今日はここまでにしておきます」
「そうだな。ちゃんと熱測れよ。来週末からテスト期間だ、ここで寝込むとキツイぞ」
「……ありがとうございます。大事を取ります」
嶺はそう言うと、ぶっきらぼうに部活道具を片付け始めた。力の空気漏れは、どんどん大きくなっている気がする。のどの下に不快感。本当に風邪かも知れない。
やり場のない不快感を溜め込んだまま、嶺は帰路につくと、途中で別の部活動の集団に出くわした。その中に俊琉がいるため、男子バレー部だと気づく。俊琉は他の部員と別れの挨拶を交わしているが、少し離れたところを歩く嶺をみつけると、小走りで嶺に並んだ。
「よう眞鍋。お前も終わり? この時間に終わりとか珍しいな」
「ああ。なんか調子悪くてな、途中で切り上げてきた。バレー部も終わりか」
「今日体育館使えなくてさ、筋トレと基礎練だけで終わり。テストも近いのに風邪か? 御愁傷様」
なぜか、俊琉と話していると不快感が増した。いや、俊琉自体に原因があるわけではなさそうだ。ただ、この得体の知れない感覚は何なのだろう。もし、知っているのなら教えて欲しい。
「俊琉、この後ちょっと時間あるか。コンビニ行こうぜ」
「特になんもないけど。ホットレモン奢って、俺あれ好きなんだよ」
コンビニの前で、ホットスナックとドリンクをすする。一息つくと、はっきりと見えるくらい吐く息が白い。アウトドアブランドのパーカーを着込んだ俊琉は、隣でうまそうにペットボトルのホットレモンを飲んでいる。
「それさ、すぐ冷えね?」
「そうなんだよなー。でも、俺猫舌だからちょうどいいの」
「そんなもんか」
どう切り出していいかわからない。そもそもなぜ俊琉に話してしまおうと思ったのか。俊琉はこの高校からの新しい友人だ。もっと親しい人間は他にもいる。だが、なんとなく、今の距離感程度が最も話しやすそうにも感じる。根拠はない。
「眞鍋は今日どれくらいチョコもらえた? 俺は静音たちからだけだったわー」
「ん。優有のとか合わせると、5つくらいか」俊琉が目を見張る。
「はぁーさっすが高身長イケメンスポーツマンは違うわあ。これがヒエラルキーの違いですよ……。んで、なんかあったん? 顔が怖いんですけど。何人か殺してそう」
やっぱり、俊琉はこういう雰囲気に聡いところがある。年甲斐もなく会話の糸口を見つけられなかったことに恥じ入ると、本題に入った。
「いや、なんか今日さ、モヤモヤっての? ずっとあってさ。全然体が思うように動かねえの。いくら蹴っても力が伝わってない感じというか」
「なに、溜まってんの? シコって寝ろよ」
「ちげえよバカ、ちゃんと抜いてるわ。そうじゃなくて、なんかおかしいんだよ。喉の奥が詰まるっていうかなんというか」
残り少なくなっていた肉まんを口に放り込み、お茶で流し込むと続けた。
「それもなんか今日の午後から。優有のチョコが当たったかな。初めて作ったって言ってたし」
その間、俊琉はなぜか無感情に虚空を眺めていた。たまにこいつはこういう表情をする。だが、すぐ元の調子に戻り、面白い物を見つけた様な顔で返す。
「オニイサン、それもしかしてアレじゃない。優有のこと意識してんじゃない?」
「は? なんで俺が」
「最近いちいち優有の名前出してるよな。最初の頃は『静音たち』って言ってたのにさあ」
俺が、優有のことを意識してる?
「確かにわかるわかる。色白でちっちゃいし、ちょっと抜けてるって言うか、結構話しやすいよな。いいじゃんいいじゃん、お前いっつも一緒にいるし、ワンチャンあるっしょ」
「そんなんじゃねえよ!」
思わず怒鳴ってしまった。
「俺はあいつにそんなこと思ってねえ! あいつは、今までずっと! 大変だったんだよ! お前や俺なんかじゃ想像できねえくらい! だから、そんなこと、俺なんかが思っちゃいけねえんだよ」
いきなり捲し立ててしまった。たかが1年ほどの付き合いの俊琉に対し、思わず感情的になってしまった。やばいやつ扱いされるかも知れない。
しかし、俊琉は心底どうでも良さそうな顔をしていた。
「わかるわけねえじゃん。なんで俺が他人のこと考えなきゃいけねえんだよ、そういうのめっちゃ嫌いだわ」
「は?」まるで別人だ。そこにいるのは誰にでも人当たりのいい俊琉ではないように見える。感情が読めない。
「眞鍋お前さ、俺の考えてることわかる? 今。わかるわけねえだろ。わかんねえよな」
「は、いや。今そういうキャラいらねえから……」思わず言いよどんでしまうが、さらに俊琉は続ける。
「てめえの考え方とか心底どうでもいいよ。優有がどんな苦労をしてきてたって、それはあいつの苦労だろ。お前がどれだけ思い詰めようが1ミリグラムも優有や俺には伝わらねえよ。なんでお前、人のもん勝手に自分のものみたいに言ってんの? マジで気持ち悪」
俊琉は一定のトーンで続ける。そこに怒気は含まれていないように感じるが、静かな迫力があった。
「ほんと訳わかんねえよな、他人の気持ちを考えましょうとか。勝手にやっとけよ」
「いや、なんか、悪い……。すまなかった」思わず謝ってしまう。
「いや、いいよ。わかってる。俺昔からひとのことがいまいち分かんねえんだよ。悪ガキじゃあなかったけど、校庭のブランコから上級生突き落としてボコボコにされたりしてさ。だから勉強以上にひとのこと勉強したんだわ」
「俊琉、お前……」
「まあ今じゃ何となくこうだろうって空気? 察して生きてんの。だからね、別に俺のことどうとでも思っていいよ。友達やめたって問題ナッシン」
「あ、いや、俺こそ悪かった。怒鳴ったりして……。ちょっと、自分の感情がわからなくてさ……」頭の芯が外気より冷えるような感覚に陥る。
「いやあそんなもんっしょ。こころなんて一生不安さ。こころに名前が付いてりゃ俺ももっと生きやすいんだけどな」
俊琉は元の雰囲気に戻っている。人好きのする、無害そうな笑顔だ。この笑顔の下に、いったいどれだけの感情が含まれているんだろうか。
そうして、俊琉はホットレモンの礼を言い、夜道に消えていった。
残された嶺の胸には、ジクリとした傷が残る。
どうやら、自分は優有のことが好きになっている。そして、この想いは一筋縄ではいかないこと。
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