Track.02

ハインドサイト

 直前に、軽い熱中症で倒れるアクシデントがあったものの、無事高校生活最初の夏休みが始まった。しかしながら、特に決まったイベントもない。友達らしい友達がほとんどいないのでしょうがないが、少しだけ虚しさがある。ただ、あの日以来、嶺とは今までより打ち解けたように感じる。色々と察してくれているような対応が増えた。そうして、祖父母の手伝いなどをしつつ過ごしていた時、静音と嶺から連絡があった。

「嶺の家で夏休みの課題やるから一緒に行こう」

 どうやら、静音と嶺は毎年夏休みの課題を序盤にまとめて始末してしまうらしい。ありがたいことに、自分も参加していいようだ。正直勉強を一人でやりきるストレスは相当なものだし、しかも嶺はなかなかに勉強ができる。まさに渡りに船の申し出だった。

 そして、今日がその初日。朝から太陽は絶好調の炎天下。あの日の二の舞はなんとしても避けたいので、家を出る前にスポーツドリンクを飲んできた。嶺の家までは徒歩で10分ほどだが、この貧弱な体は信用できない。苦い思い出を噛み締めながら歩みを進める。

 そうしていると、スマホのナビアプリが目的地へ到着したことを伝える。なるほど、静音と嶺は隣同士ということだったが、同じマンションの隣室同士なのか。そういえば、自分の地元ではマンションは少数派だったな、などと考えていると、背後から気だるげな声がかかった。

「あー優有ちゃんおはよー。今日もあっついねー」

「しずちゃん、おはよう。買い物?」

 最近、今までより一歩進んで静音を、「しずちゃん」と呼ぶように強要されている。少し恥ずかしいような、むず痒い感じもするが、悪い気はしない。

「ちょっとコンビニ行ってきたとこ。優有ちゃんは今日も完全防備だね」

 完全防備というのも、Tシャツの下に、スポーツ用の長袖インナーを着ているからだ。一応、肌が弱く日焼け防止のためと伝えてある。それに加え、アロハ柄のチューリップハットを被っているので、なかなか愉快な見た目になっている。ボトムスはお決まりの黒スキニーなので、まるで音楽フェス帰りだ。

「さ、早く中に入ろ。エアコン効かせて待ってるって」

「オートロックなんだ。わたし、オートロック初めて」

「優有ちゃんはずっと一軒家だっけ。憧れるなー」

 他愛もないことを喋りながら、マンションへ足を踏み入れた。コンクリート建築の特徴だろうか、ひやりとした空気が出迎える。そのままエントランスを突っ切り、エレベーターに乗り込むと、静音が4Fのボタンを投げやりに叩いた。

「しずちゃん、なんだか具合悪い?」

「あー……、うん、ちょうど来ちゃってるんだよね。私結構重くってさー。優有ちゃんはどうなんだっけ」

「わたしそんなに重くなくて……。近づくとキリキリしたりちょっとムカムカするけど、始まればあとはそんなに痛くないかな」

「マジかー、羨まし。ほんと夏は暑いしズキズキ痛いし怠さ倍増で最悪なんだよね。私の分肩代わりしてよぉ」

「ええーそんな無茶な」

 そうこうしている間にエレベーターから降り、廊下を嶺の家へ向かう。どうやら1フロアに対し、おおよそ4世帯ほどが入居しているらしい。

「一番奥が嶺の家。私のはその手前。ちょっと待ってて。今課題持ってくるから」

「はあい。待ってる」

 静音がそう告げると、予想よりも俊敏な動きで扉に吸い込まれて行った。なんだか動作の一つ一つがハキハキしていて、静音を表しているようだと思った。それに比べると、自分はなんというか鈍臭い。この前も、ネット動画でライブ映像を閲覧した際、テンションが高まりハードコアモッシュの真似事をしたら見事に筋を痛めそうになった。この界隈の音楽は見る方もハードだ。そう自嘲的なことを考えていると、静音が戻ってきた。

「おまたせ。それじゃ行こっか」

「うん。なんだか緊張する」

「全然緊張することないよー。あいつの家は私の第二の家だからね」

「おっ、惚気かな?」

「「んへへへ」」

 随分と砕けた掛け合いもできるようになってきた。それと同時に、いい加減自分のことを誤魔化しきれなくなりそうだとも感じる。あの時の嶺は、自分たちは大丈夫だと言っていたが、実際はどうなんだろう。

 静音がインターフォンを鳴らす。しばらくすると、女性の声とともに扉が開いた。

「はーい、シズちゃんいらっしゃい。あら、新しいお友達?」

「おはようございます、おばさん。この子は同じクラスの友達の優有ちゃん」

「は、初めまして、嶺くんと同じクラスの、庄子優有といいます。今日はお邪魔します」

「あらあら随分とご丁寧に。嶺の母です、よろしくね。嶺ー! シズちゃん達来たわよー。どうぞあがってちょうだい」

 嶺の母が家の奥に声をかけ、優有達を中へ招き入れる。綺麗に整えられた玄関には、品のいい色のドライフラワーが壁にかかっている。それに、他の人の家のにおいがした。なんだかこういうのも久しぶりだな、と思いながら脱いだ靴を揃える。そうしていると、嶺の母が、あの子もこれじゃ両手に花ね。何か間違いがあったら教えてちょうだい。と、静音と談笑している。そうして、いよいよ嶺の部屋へと案内された。

「おう。おはよ。準備できてるぜ」

「ういーす。ちゃっちゃとやっつけようぜー」静音がぼやく。

「お邪魔しまーす……」

 そうして、課題をやっつける会がスタートした。


「うーん、どうしたもんか」

「大丈夫優有ちゃん! 私も嶺がいなかったら壊滅的だから安心して!」

「ううぅ……。なんかごめんなさい……」

「しかしなあ、意外だよな。この前の定期試験も結構ヤバかったんだっけ」

「赤点は、なかったけど、結構ヤバかったです……」

 そう、優有は割とポンコツだった。中学時代のハンデもあるが、特に理数科目がギリギリだった。高校一年生の1回目の定期試験でこれである。夏休みの間になんとかしなければ、という空気が生まれた。

「とりあえず、課題をしっかりやって、基礎を固めよう。わからないところがあったら全然聞いてくれ。そのほうがこっちも教えやすい」

「ポンコツすぎて死にたい……」

 実際のところ、定期的にこうして課題をこなしている分、キャラの割に静音の成績は平均を大きく超えている。そんな中での勉強会は、当初の意に反してプレッシャーと罪悪感を感じるものだった。

「まあ、気楽にいこうぜ。まだ時間はあるし。というか、そろそろ休憩でもするか」

 そういうと嶺はペンを置いた。時計の針は11時半頃を指している。昼食にはまだ早い気もするが、前倒しで休憩してもいい頃合いだろう。

「あー、ごめん。私ちょっと限界だわ。家で休む」静音が小さく挙手し、力なく告げる。

「なんだ静音、帰んのか。飯どうする?」

「いやーもう無理。寝る。ごめんねー、優有ちゃん頑張ってねー」

「あ、うん、お大事に……」

 言うだけ言うと、青い顔をした静音は初めて見る弱々しさで部屋を後にした。満身創痍の様相だ。どうやら今回のは相当重いらしい。

「なんなんだあいつ……。なんかあったのか?」

「んー、朝会った時から具合悪いって言ってたよ。でも、家が隣だといいね。何かあったらすぐ帰れる」

 嶺は、ふーん、と生返事をし、一旦ノートと筆記具、教材を片付け始めた。

「飯、食ってくだろ。部屋に持って来るから、テーブル開けて」

「あっうん。わかった。ご馳走になります……」

 どうやら昼食まで振舞ってくれるらしい。至れり尽くせりだが、後日何かお土産を持ってきた方がいいかもしれない。あんまりご厚意に甘えているのも気持ちが落ち着かない。おばあちゃんに何か聞いてみよう。


 黙々と片付けをしていると、なんとも言えない空気が流れ始めた。この前のこともあり、若干気まずさのようなものがある。実際、メッセージアプリ以外での会話はあの日ぶりだ。しかし、何を話せばいいだろうか。

「あのさ、この前のって、マジなのか?」

 来た。嶺がスマホを操作しながらそれとない感じで伺う。

「この前のって、どのこと?」

 慎重を期し、質問で返すと、嶺はこちらを見て、とある画面を開いたスマホを手渡した。

 画面には、「後天的突発性性転換症状について」と書かれた資料が開かれていた。

「こっ、これって、その……」

「お前、中学の時の病気って、これだったのか?」

 図星だった。確かに、過去の症例や文献はインターネットを探せばいくらでも見つかる。なんて事のない、ごく当たり前の結果だった。

「そ……、それ。それで合ってる。おれは中学一年まで男だった」

「だから男同士の約束、ね。まあ、そういうことでいいよ。今のは単純にはっきり聞きたかっただけ。任せとけ。お前が望まないなら、誰かに言いふらしたりは絶対しない」

 それを聞いて、ふっと心が軽くなるような感じがした。息がつっかかるような感覚が消え、ずっと楽になる。

「そっかぁ。ありがとう。そんなこと言ってくれたの嶺が初めてだよ」

「なんだ、その、大変だったな」

「あー、なんかすっごい安心した。あのさ、足崩してもいい?」

「ん? 足? 勝手にしろよ」

「ぐわー、人前でこんな座り方するのめっちゃ久しぶり」

 思わずこれまで以上に吹っ切れた喋り方になってしまう。だが、それも安心の裏返しだった。今まで横座りだったものを、一気にあぐらに変え、両腕を後ろに回し背の筋を伸ばす。それを眺める嶺は呆気にとられている。

「お、おお……。いきなり男っぽいな。それが素?」

「結構これが素。今じゃ自分の部屋でしかしないけど」

「おまえ、実際中身はどっちなんだ? 今だってちゃんと化粧もしてるし……。悪ぃ、答えにくかったら別にいい」

「それが……、いまいち自分でもよくわからないんだよね。女として生きるのに開き直った時から、最低限のことはできるようにならなきゃって勉強してる。身だしなみとか、立ち振る舞い、メイクだっておばあちゃんに教えてもらってるから。あっ、ちなみにメイクはやってみると意外と楽しいよ。塗装みたいで」

「塗装って……。意外と明るく捉えてんのな」

「そうだね……。まだ、自分が本当に『どっち』なのかはわからないけど、やらなきゃいけないことはやらなきゃね。今から取り返しのつくことは、全部取り返したいって思ってる。今のところは結構ボロボロだけど」

 そうやって笑うと、嶺は複雑な顔をしながら、何かを言いたそうにしている。

 言いたそうにしていたが、短く揃えた頭髪を左手でひと掻きすると、スポーツマンらしい爽やかな笑みで言った。

「まあ、なんかあったらいつでも頼れよ。これも男同士の約束だな」

「ありがとう……、嶺」

 拳と拳を合わせる。すこし気取った約束のやりかただった。



「そういや静音、あいつなんだったんだ」

「いやぁ、それは、女の子のアレだ。察して」

「あっ」

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