こころを袖につけて 2

 泣き崩れた優有が落ち着くまで時間を置こうと、須藤と嶺は保健室を後にした。

「眞鍋、コーヒーおごるからちょっと付き合え」

 投げやりな言葉とは裏腹に、見たこともない真剣な表情をしている。

「すみません、自分、ブラックは飲めないです」

「おまえそのガタイで飲めねえのぉ? マジ?」

 嶺の返しに雰囲気が和らぐ。彼らはそのまま校舎を後にし、食堂前の自販機で缶コーヒーを2缶買い、校舎裏の用具倉庫まで足を運んだ。


「普通の生徒はこっちまで来ないっしょ。ここね、職員用の喫煙所なの。といっても、もうほとんど使われてないみたいだけどな」

「敷地内にあっていいんですか?」

「まあ別に誰が使ってもいいけどさ、バレるような奴はなにかしらバレるようなことしてんのよ。眞鍋も吸うか? 冗談だけど」

「いえ、結構っす」

 須藤はスラックスのヒップポケットから、皺だらけの紙巻きたばこを取り出し、なかなか点かないライターに苦戦しながら一服を始めた。


 3回目の煙を全て肺から吐き出すと、須藤が口を開く

「ごくごくたまーに吸ってんの。最近は随分と吸ってなかったんだけどさ」

「あの、先生。優有って大丈夫なんですか」

 雨ざらしのパイプ椅子に座った須藤が、もう一脚のパイプ椅子を嶺にすすめる。大きな穴から座面のスポンジがはみ出ていた。

「コーヒーでも飲みながら聞いてくれる?」そういうと須藤は缶のプルタブを開け、コーヒーで唇を湿らせて語り出した。

「庄子の話は聞いてるよな。あいつ中学の時にぶっ倒れて、そこからほとんど学校に行けてなかったんだ。しかもぶっ倒れてから3ヶ月間昏睡状態で、生死をさまようような状態だったそうだ。そこからリハビリしつつ自宅療養。自分に全くそんな意識はなかったが、3ヶ月も昏睡してれば、周りからは腫れ物扱いに心無い言動、久方ぶりの通学ではいじめがあったそうだ。さらに病気がきっかけで、体の方は快方しても、今度はこころの病に苦しんで……。お前も見たろ。自殺未遂や自傷行為の跡が身体中に残ってるそうだ。」

 ひとくちコーヒーをすする。

「なんとかギリギリのところで持ち直して、両親や祖父母のサポートもあってこっちでの進学を選んだそうだ。本人はできるだけ気丈に振る舞おうとか、新しい環境で再スタートを切ろうと頑張っているんだが、自分で自分にしでかした過去にいつも追われてる。お前たちがあいつと仲よさそうにしてるのを見て、最初は俺も安心したんだ。でも結局、あいつは追い込まれ続けてた……。

 眞鍋、悪かった。今回の原因と責任は俺にある。どうか気に病まず、これからもあいつをサポートしてくれないか。結構面白い、いいやつなんだよ」

 今にも泣き出しそうなくたびれた顔で、嶺のことを見つめる。

「先生……、あの、優有がたまに自分のことを『おれ』って言うのは、何か病気と関係あるんですか?」

「あー、それに関しては本人の口からの方がいい。あいつに任せてやって」

「……、わかりました。了解です。多分俺がいなくても、静音が黙ってないと思いますし、俺も見捨てるつもりありませんから」

「本当に? 助かるよー」

 いつもの間延びした口調に戻った須藤は、軋むパイプ椅子の背もたれにもたれかかり、タバコのフィルターを口につけた。が、タバコは全て灰になっていた。

「あらら、勿体無い……。

 ついでっちゃついでなんだけどさ、もうちょい話しさせて。俺の奥さん鬱病なの。結構波があって、ひどい時は布団から一歩も動けないくせに、衝動的に自殺しようとすんの。めちゃくちゃ本気で止めるんだけど、本人は死ぬしかないって思ってるから超必死。一度止めようとして俺が骨折したもん。大学から付き合っててさ、最初の会社が酷くて鬱しちゃって。なんとか仕事は辞めれたんだけど、パニック障害も併発してて……」


「なんでこんなに生き辛いんだろうな。みんな」


 答えはなく、鳴き始めたひぐらしの声だけが空間を埋めていった。


「さてと、ぼちぼち戻ろうか眞鍋くん」膝を叩いて須藤は言う。

「そうですね。コーヒー、ごちそうさまです」

「あーちくしょークソ暑ぃー。さっさと戻ろうぜ」

 須藤は文句を言いながら使用した椅子や吸い殻を片付け、1つ伸びをして歩き出した。



「おーうデスコア少女、にっこり笑ってるかー?」

 保健室の前で、泣き声が聞こえないことを確認すると、須藤がいつも通りの適当なスタンスで戻りを告げる。ベッドの上では、落ち着きを取り戻した優有が疲れた表情で笑う。

「先生、ナンバガっぽく言ってもだめです」

「お前どうせ2、3曲しか知らねーだろー」

 力なく笑う優有の目元は厚ぼったく腫れ、小さな鼻も擦れて赤くなっていた。

「大丈夫か、優有。帰る時言ってくれ。家まで送ってく。どうせ近所だし」

「うん。ありがとう、嶺。シャツごめんな、汚しちゃって。本当にごめん」

「いいよ、気にしてない。お互い様だ」

「そっかー。わたし、嶺のことは背負えないなぁ」

 気丈に振る舞うその仕草に、不安定な喋り方に、嶺の胸はちくりと痛んだ。



 いよいよ夜の帳が街を包もうとする頃、二人は昇降口を出た。吹奏楽部がコンクールに向け、合奏の追い込みをかけている音がふりそそぐ。言葉少なく二人は歩く。


 しばらくいくと、意を決したように優有が話し始める。

「嶺、わたし気持ち悪くてごめんね。見たでしょ、左腕とか」

「別に、なんとも思ってない。俺だって小さい頃、鉄棒から落ちて何針か縫った跡があるし」

「静音も、嶺も優しいよね。だから見られるのが怖かったんだ。ようやくできた友達だから、嫌われたり拒絶されたくないって。でも、毎日学校で会うたび、汚い自分がこんなに良くしてもらっていいんだろうかー、とか、勝手に怯えてた。でもわたしばかだから、喋ったりご飯一緒に食べたりするのが嬉しくて、もしかしたらまともになれるんじゃないかって。ごめんね、もう、やめていいよ」

 薄暮も過ぎ、青っぽい空気のせいで顔がよく見えないが、優有はつらつらと語り始めた。

「だから、なんとも思ってないよ。俺だって、静音だって、そんな簡単に友達やめねえよ。それに、まだ俺ら知らないことばっかだろ、お互いに。うわべだけの関係が苦しいならもっと遊ぼうぜ。俺は苦手だけど、カラオケでもいくか?」

 切れ長の目を見開いた優有と目があう。一瞬、お互いに歩みを止めた。

「ふふっ。おれ、カラオケ行ったことないんだ」恥ずかしそうに笑う。

「嶺、あのな。おれ、昔は男だったんだ。信じるかは任せるよ。じゃあね、また今度。ばいばい」

 嶺は小走りの背中を、唖然として目で追った。この街にはすでに、どうしようもなく夏が訪れていた。

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