Track.01
地平線を見せてくれ
4月中頃、真桜高等学校へ向かう制服の群に埋もれるようにして、優有は一人、歩みを進める。「b」の文字が刻印された真新しいヘッドホンで耳を覆い、周囲と精神を遮断しながら。
硬いローファーに着慣れない制服。
すっかり体力の落ちてしまった体に対し、片道15分の登下校はいささか強めの負担となっていた。
とても辛い。逃げ出したい。
しかし、険悪になってしまった両親や、環境から逃げるように遠方の学校へ進学したからには簡単に放り出せない。何もかもが変わってしまった自分を、これまで以上に優しく受け入れてくれた祖父母のためにも、優有は真っ当な高校生活を送ることを目標としていた。
目標としていたのだが、1年とちょっとの間、引きこもり同然の生活を送っていた優有が新天地に馴染むことは叶わず、すっかり孤立してしまっていた。
「後天的性転換症……ですか」
「ええ。正式な名称は他にあるそうですが、一般的にそう呼ばれてるそうです」
「それが今年度入学予定の『
「それで、その優有って子の担任が俺ですか……?」
恰幅のいい男女の向かいに座る須藤が呻く。
「いやあ、クッソめんどくさいですよこれ。最近ただでさえ、やれジェンダーだーアイデンティティーだーって騒がれてるのに、どうして俺がこんな特大の地雷踏まなきゃいけないんですか」
「須藤先生、口が過ぎます!」
「まあまあ教頭先生、須藤先生の反応もわかりますから、ね」
教頭先生と呼ばれた中年女性はさらに何か言いたげだったが、続く小言は飲み込んだようだった。
「須藤先生。君は本校でも若手だ。その上就職経験もある。私はそんな君の経験と親しみやすさを買ってお願いしているんだよ。何卒頼む」
「あー、これって、実質俺に選択肢は無いってことですよね。しかも副担任に阿部先生って、今年で定年退職のご予定の……。俺はスケープゴートかぁ」
校長が苦しそうに笑いながら言葉を引き継ぐ。
「まあ、私は先生の歯に衣着せぬ感じも嫌いじゃないですがね。何はともあれ、一年間頼みましたよ」
「承知しましたぁ……」
俺は中学一年の冬、原因不明の高熱で緊急入院した。らしい。というのも、自宅で倒れた後、次に目が覚めたのが全て終わった3ヶ月後だったからだ。俺は自分の体に何が起きたのかも分からず、目覚めたら「女子」になっていた。どうやら非常に珍しい、性別が切り替わってしまう病気だったそうだ。
そこからは大変だった。遺伝子検査によって両親との血縁関係と、俺の体が完全に「女性」になっていることが証明された。
自分の体とこころがうまく馴染まないように感じた俺は、精神が不安定な状態が続く。そんな状態で学校には行けず、両親とともに疲弊していくだけの日々。当たり前だ。自慢の一人息子が12歳で一人娘に変わってしまったのだ。ただただ自分たちの運命を呪い合うだけだった。
両親と会話すらなくなった頃、父方の祖父母から申し出があった。こっちの学校に通わないかと。そこから俺は必死に遅れた分の勉強に取り組んだ。幸い母が塾講師の経験者で、自宅学習はスムーズに進んだ。コミュニケーションは最小限だったが、親子であると感じた最後の日々。
そして、晴れて4月から「女子高生」となり、この新天地での生活をスタートさせたのがつい先日。
現実は早くも暗雲が立ち込めているのだが。
それでもなんとか気持ちを奮い立たせ、通学を続けていられるのも、全ては音楽の力があってこそだった。
カーテンを締め切った部屋、打ちひしがれたこころに力をもたらしたのは、ひたすらに暴力的な音楽だ。動画アプリの気まぐれか、全く知らないミュージックビデオが再生された。最初は洋画かゲームだと思ったが、それはすぐに違うと思い知らされる。激しい伴奏を続けるギター、ドラムは自分の知っているようなビートではなく、連打を続けるような音。
そして、なんて悲痛で切実な叫びなんだろうと思った。
「大丈夫、希望はある! あきらめないで!」などとうそぶく歌よりよっぽど心に響く歌だった。
「目を閉じて罰に祈れ。破滅の日をもたらしてくれ」
そこからはひたすら同じような楽曲を聴きあさり、あっという間に虜になっていった。
いわゆる中二病や自己憐憫もあったのかもしれないが、俺にはこういった音楽が必要なんだと悟った。
そして両親の元を離れる時、俺は新しいヘッドホンをねだった。面と向かって物をねだるのは初めてだったが、二人は少し安心したような表情で、目当ての物を買い与えてくれた。それが半ば手切れの品のようになっても。
初めてのワガママでもらったヘッドホンからは、今日も爆音で音楽が流れている。登下校で、一人の昼休みで。大丈夫、これがあればなんとかやれる。
「あーはいはい席戻れーホームルーム始めるぞー、日直ー、号令ー」
担任の須藤先生が投げやりな声をクラスへ投げかける。入学式で見せた少し頼りなさげな若い先生のイメージはなく、ワイシャツの上にジャージのだらしない姿がそこにいた。たぶんこれが本来のコンディションなんだろう。アゴ髭まで生やしているけど、規則とかは大丈夫なんだろうか。
「はーいおつかれさん。他に連絡あるか? ん、特になし、と」
ふと先生と目があった。
「庄子、お前それスーサイのキャップか」
「はっはい!そうです!」
しまった! 口を開くのが久しぶりすぎて思ったより大きな声が出てしまった……。
「随分激しいヤツ聴くんだな。まあ、あんまり派手すぎる格好するなよ。それじゃホームルームおしまい。バイバイ」
そそくさと教室を後にする先生に続いて、クスクスと笑い声が上がった。
死ぬほど恥ずかしい。多分耳まで真っ赤だと思う。女子になってからすぐ顔が赤くなるようになった。
だが、通学バッグに付けていたスーサイのキャップについて聞かれた!
「先生、こういうの聴くのかな……」
髪の毛で顔を隠すように俯いて、唇だけで呟く。
「庄子さんてー、サイサイ聴くの?」
そこに、名も知らないクラスメイトの女子が話しかけてきた。
「えっ、サイサイ? いやっ、わたしっ、邦楽はあんまり聴かなくて! こ、これはSUICIDE SCIENCEっていうアメリカのデスコアバンドのマーチで……」
「あー、ごめーんちょっとわからないや。……ごめんね?」
「あっうん、ごめんなさい……」
やってしまった! 否定から入った上に聞かれてもないことずらずら並べて、これじゃアニメの話で饒舌になるオタクと何も変わらない! 最悪だ!
その後お昼休みまで、俺は8割増しの死んだ目で授業を受け続けた。
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