4-2 羨ましい

 そのまま詠子が数曲歌い、行隆も優吾も一曲ずつ歌う。

 いつもの流れだ。いつもの流れだからこそ、行隆は「うーん」と悩む。本人の性格上歌うのはあまり好きではないのかも知れない。でも、せっかく毎回付き合ってくれているのだからと、行隆は思い切って訊ねてみた。


「二江さんは歌わないの?」

「私はあまり歌ったことがないの」


 即答だった。無理に歌わせることもないだろうと、行隆は「そっかー」と話を終わらせようとする。

 しかし、ちょうど一曲歌い終わった詠子が静乃を見つめてニコニコと微笑んだ。


「あたし、静乃の歌聞いてみたいなー」

「むぅ、えーこ……今までそんなこと言ったことないのに~……」

「あたしばっかり歌っててそろそろ疲れちゃったなー」

「うー。……じゃあ、アニソンじゃなくても良い?」

「もちろん!」


 輝かしい笑顔で詠子が頷く。

 静乃は、しぶしぶといった様子でリモコンを操作し始めた。

 静乃の選んだ曲は、有名なJポップで行隆でも知っている曲だった。ミディアムバラード調で、ゆったりとした静乃にはぴったりな曲だろう。


「本当に歌とか歌わないから……どうなるかわからないよ」


 いつになく自信なさ気が言葉を零すと、イントロが流れ始める。静乃は慣れないようにマイクを両手で握りしめ、歌い始めた。


 何で私がこんなことを。

 まるでそう言いたいかのように、視線は下を向いてしまっているし、直立不動で震えてしまっている。

 でも、「悪いことをしてしまったな」、という気には――まったく、ならなかったのだ。いや、そんなことを思う暇がなかった、と言った方が正しいだろうか。

 目に見える光景と、耳に響く歌声が一致しない。


「…………」


 心の中で感想を浮かべる前に、行隆の視線が動いてしまった。静乃から、詠子へ。彼女が何を思うのか、自然と行隆は気になってしまった。

 詠子は、静乃を見つめたまま動いていない。口元はうっすらと開いていて、まさしく唖然としている状態だ。

 この驚きが良い意味なのか悪い意味なのか、考えたくもなかった。

 やがて行隆自身も俯いてしまい、聞こえてくるのは静乃の――透明感のある透き通った声のみ。耳に心地良い静乃の歌声は、普段歌を歌っていないとはまったく思えない程に、上手かった。いや、何も完璧という訳ではないのだ。力強さはないし、むしろ声量が足りないかな? と思う程だ。だから大丈夫。大丈夫。だいじょう……ぶ? いったい、何が大丈夫だというのだろう。静乃の歌が上手くてビックリした。ただそれだけの話ではないか。


「凄い……凄いね、静乃!」


 静乃が歌い終わると、詠子は静乃に近寄り頬を指でつんつんさせた。声は明らかに裏返っている。動揺しているのがまるわかりだ。


「えーこ、私はもう良いよー。歌って?」


 静乃にマイクを手渡されるも、なかなか受け取ろうとしない詠子。


「え、あ、いや、うー……ん……」


 詠子は静乃と目を合わせないまま、慌てたように視線をあっちこっちに揺らめかせる。


「あーうん、す、少し早いんだけど、あたしもう帰らなきゃいけないんだ」

「え?」

「急にごめんね、えっとえっと……」


 詠子は鞄を探り、財布を取り出した。


「夢咲さん? な、何か用事があったの?」

「……うん、まあそんなとこ。えと、じゃああたしはこれで!」


 詠子はテーブルの上に千円札だけ置いて去っていってしまった。

 ずっと俯いたままだったから表情はよくわからない。でも、詠子が嘘を吐いてこの場から逃げ出したというのはすぐにわかってしまった。

 詠子がいなくなったカラオケボックスの中で、短い沈黙が訪れる。でも、考え込んでいる場合ではないだろうとすぐにハッとした。


「僕、追いかけるよ!」


 静乃は困ったように眉をひそめていたが、優吾はすぐに頷いてくれた。


「あ、お金……」

「金なんてあとで良いから早く行け」

「だ、だよね! 行ってくる!」


 今更詠子に追いつくだろうかという不安はあった。でも、何もしないという訳にはいかない。行かなきゃ駄目だという使命感を抱きながら、行隆はひたすら走る。

 走って、走って、走った。ただひたすら走った。

 はたして追いつくだろうか。わからない。でも、わからないでは済まされない。なるべく早く、詠子を見つけなければ。とにかく必死になるしかないのだ。


「……っ! ゆ、夢咲さんっ!」


 遠くで、見慣れた人影が見えた。

 浅黄色の髪をなびかせながら、とぼとぼと歩く後姿。

 間違いなく、詠子だろう。でも、詠子は止まろうとも振り返ろうともしなかった。不安に心が痛むのを感じつつも、行隆は詠子の背中を追いかけ続ける。


「……夢咲、さん……」


 口から飛び出てくる声は、自分でも驚いてしまう程小さかった。追いかけなきゃ、と思ってここまで来たのに、いざとなったら上手く言葉が出てこない。

 詠子はもう――足を止めている。

 河川敷に立ち尽くしながら、茜色に染まる空を眺めていた。

 だから、声をかけなければいけないのだ。今一番苦しい気持ちなのは詠子なのだから。どんな言葉をかけるのが正解かなんてわからないけれど、とにかく口を開くしかない。


「ゆめさ……っ」


 しかし、声をかけようとした言葉が途切れた。決して直前になってヘタレた訳ではない。ポケットの中に入れていた携帯電話が震えたのだ。

 どこにいる? という優吾からのメール。優吾達が来てくれることに若干の安心感を覚えつつも、行隆は手短に返信をした。


「追ってこないで欲しかったな」

「え、あ……っ」


 詠子は、振り向いてこちらをじっと見つめている。その両目は赤く潤んでいて、今にも崩れてしまいそうだ。


「こんな情けない姿、誰にも見せたくなかったよ。静乃は何も悪くないのに……あたしは……」


 詠子は俯き、ああもう、と小さく吐き出す。


「羨ましい……っ!」


 オレンジがかった夕日を見つめて叫び、再び俯いて両目を拭う。


「あたしが最初からあんなに上手かったらって、どうしても思っちゃう。近道したいからってマイクを利用したあたしが、どうしようもなく馬鹿だって実感しちゃう」

「そんな、こと……夢咲さんは馬鹿じゃないよ」


 苦しそうに笑う詠子に、行隆は思わず上っ面の言葉を漏らしてしまう。そんな自分こそが馬鹿だと行隆は思った。詠子の気持ちは、痛い程わかるのだ。もし自分の前に最初から才能を持つ者が現れたら、そりゃあ頭を抱えるし嫉妬もするだろう。詠子の場合、その相手が友達であることも苦しい理由なのかも知れない。


「ごめんね行隆くん、こんな情けない姿見せちゃって」

「……謝ることなんて、何もないよ。僕が夢咲さんを追いかけたいって思ってここにいるだけなんだから」

「優しいね、行隆くん」

「でも、僕は……何も言えてないから……」

「良いの良いの、これ以上皆に気を遣わせたくないし」


 八重歯を見せて笑う詠子。でもやっぱり、どこか無理をしている力のない笑みに見えてしまう。このままじゃいけない。もやもやが続いたままでは嫌だ。行隆は必死に頭を巡らせた。

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