3-5 頑張る理由

 数日後。休日の午前七時のことだった。

 枕元に置かれた携帯電話から、鈴葉のignorantが流れてくる。アラーム――という訳ではなく、着信音に設定している音楽だ。つまり、誰かから電話が来たのだ。


「んん……こんな時間に誰……?」


 もぞもぞと布団から手を伸ばし携帯電話を取ると、「並木優吾」という名前が目に入る。なんだ優吾か、なんて思いながら行隆は電話に出た。


「もしもし、優吾? こんな朝早くどうしたの?」

『おお、朝から呑気な声出してやがるな』

「そりゃあ今起きたんだから仕方ないでしょ。それでどうしたの?」


 何気なく訊ねると、優吾は何故か無言になった。一瞬、「優吾も寝起きで寝ぼけて電話をかけてきたのか?」と思ったものの、どうやら違うらしい。


『そ、それがだなぁ……』


 珍しく優吾が言いづらそうにしているのがわかってしまう。今度は行隆が黙って優吾の言葉を待った。すると、優吾の口からは思った以上に重苦しい声が出た。


『大変なことに……なってんだよ……』


 声だけなのに、優吾が動揺しているのがわかってしまう。それくらい優吾の声は震えていて、行隆にも動揺が伝わってしまった。眠気なんてすぐに覚め、冷静になって優吾に訊ねる。


「何があったの? ……オーディションのこと?」

『ああ。その様子だとまだ知らないみたいだな』

「どういうこと?」

『……夢咲のことで、ネットが炎上してんだよ』

「…………は?」


 言っている意味がわからず、行隆はただただ唖然として、頭が真っ白になってしまう。

 混乱してしまう行隆に対し、優吾はここまでの出来事を説明してくれた。

 昨日、アニソンスターズ選手権の公式ホームページに、最終選考に進出した十人の情報が載った。もちろん詠子の情報もあり、顔写真と簡単なプロフィールが載っている。それは行隆達も知っていたことで、詠子と「なんか緊張する」などと電話で話もした。

 問題は、深夜に起こったのだという。

 大型掲示板に「オーディションの関係者」を名乗る者がとある投稿をした。

 ――一人だけMyマイクで出場し、バレないように口パクをしていた。

 二次選考当日には見抜けなかったものの、後日映像を確認したところ違和感に気付いた。これは明らかな不正行為である、と……。

 信憑性を高めるために、関係者しか持っていない資料の写真とともにアップされたという。


「なんだよそれ。なんでわざわざネットに書き込むんだよ。不正行為だって思うなら、何で失格にならなかったんだよ」


 イライラしながらも、行隆はパソコンの電源を入れる。自分の目で確かめなければ信じられない。決して見たいものではないが、見るしかないと行隆は思った。


『落ち着け行隆。……色々言いたいことがあるのは俺も同じだ』

「うん、ごめん……それで、その書き込みが広まっちゃったの?」

『ああ。元々注目されてたオーディションだったからな。……勇気があるなら見てみるといい』

「今見ようとしてるところ……あぁ」


 アニソンスターズ選手権、で検索をかけるとすぐに出てきてしまった。顔も名前も知らない人達からの詠子に対するたくさんの声。「瀬名川鈴葉に会いたいだけなんじゃねーの?」、「プロフィール見たけど、にわかじゃねぇか……アニソンに何の思いれもなさそうだな(笑)」などの批判。そして、詠子がどんな行動に出るか、ネット中継される最終選考が楽しみだと言い出す者が続出していた。


「これ、現実なんだ。全部、夢咲さんに対する言葉なんだ……」


 思わず、乾いた笑いが漏れる。見たくもない言葉が並んでいるというのに、「ふざけんな」という気持ちですべてを見てしまう。


『こんな状況でも、夢咲は最終選考に出ると思うか?』

「……わからないよ。わからないけど、これはあまりにも……」


 辛い、辛すぎる。いったい誰かこんなことを、などという思考にすらならなかった。ただ、目の前の現実に絶望することしかできない。

 もしも何かあったら詠子を支えたい。なんて思っていたのに、いざ壁にぶち当たると頭が真っ白になってしまった。本当に情けない話だ。


『これから行隆の家に行って良いか? まずは夢咲なしで話し合いたいんだが』

「そう、だね。うん……二江さんも誘ってみるよ」

『ああ、じゃあまたあとでな』


 こうして、優吾との通話を終える。しかし、行隆はパソコンの前で呆然としたまま動けなかった。きっと、嫌なのだろう。この事実を認めたくないのだろう。だって、詠子はここまで頑張ってきたのだ。その結果がネットの炎上だなんて、どんな仕打ちだって話だ。


「どうして……」


 睨むようにしてパソコンの画面を見つめながら、行隆は呟く。


「ありえないよ、こんな結果……」


 どうにかならないか、とは思う。でも、心の中では結論は出ていた。ネットが炎上したのだ。詠子が見知らぬ人達に批判されているのだ。この絶望から、どうやって這い上がれというのだろう。行隆の心は、悲しみに震えている。もしかしたら、これ以上詠子に頑張らせたくないという気持ちが一番強いのかも知れない。絶望しながら、行隆は思っていた。



 一時間後に優吾、その三十分後に静乃が家を訪れる。静乃はもちろん初めて家に来るため、近所の公園で集合してから家に案内した。


「お邪魔します~。あ、ゆうちゃんおはよー」

「おう。……相変わらず慣れないな」

「何が?」

「その呼び方に決まってんだろ」


 と、最初はいつものノリだった二人。しかし、行隆がお茶を部屋に持ってきて「さて話そう」という空気になった途端、一気に笑顔がなくなる。


「……二江はもう、事情知ってんのか」

「うん、ゆっきーから聞いて、調べたよ。さすがの私も未だに信じられなかったり~……へへ」


 力なく笑う静乃に、「そうだよな」と呟く優吾。行隆はただ無言で、二人の様子を見つめていた。


「おい。行隆も何か言えよ」

「いや、だって……」

「だってじゃないだろ。お前、この世の終わりみたいな顔してんぞ。……まぁ、実際そうなんだけどな」


 優吾の吐き捨てた言葉に、行隆の表情はますます沈んでしまったことだろう。優吾から視線を逸らすと、眉をひそめる静乃と目が合ってしまった。


「……これ以上頑張るメリットって、何だろう」


 ぽつり、と静乃が呟く。

 俯いたままの状態で、静乃は言葉を続けた。


「えーこは瀬名川鈴葉さんのことが好き。それは理解してるし、好きな人の疑惑を解きたいっていう気持ちもわかる。でも……自分が傷付いてまでしなくちゃならないことなの?」


 静乃の疑問が、行隆の胸に突き刺さる。

 確かに、このまま進めばマイクのことも鈴葉の疑惑もすべてわかるかも知れない。でも、詠子は今嫌な意味で注目を浴びてしまっている。もし行隆が詠子の立場になったら辛すぎて逃げ出したくなるだろう。最終選考なんて出られる訳がない。


「諦めるしか、ないと思う」


 そうだ。そうなのだ。これでもう終わりなのだ。ここまで頑張ってきたけれど、とても悔しいし認めたくないけれど。どう考えたって諦めるしかないという結論にたどり着いてしまう。

 二次選考時の戸羽子の反応を考えると、噂を流したのは戸羽子かも知れない。でも、今はもうそんなことどうでも良かった。詠子の悪い噂がネット上に広まってしまったのだ。しかも誤解でもなんでもなく、ほとんど事実そのもの。誤解を解くならともかく、事実を認めた上で最終選考に出るなんてできるのだろうか。そんなの、ただ恥をかくだけだし、何の意味もない。


「そうだよな。これで諦めなかったら鋼の心すぎるだろ。……少なくとも俺は良い経験ができたし満足してる。今はそうやって、ポジティブに考えるしかないんじゃないか?」

「ポジティブに……考えられるかな、えーこ……」


 この現実に詠子が耐えられるのか、静乃は心配しているのだろう。ずっと俯きっぱなしの静乃の肩に、優吾が手を置いた。


「お前は……夢咲の友達だろ。最終的に答えを決めるのは夢咲だからな。夢咲がショックを受けたら傍にいてやれ。書き込みに怒りをぶつけ出したら一緒に怒ってやれ。混乱して、できもしないことを言い出したら止めてやれ。そればっかりは俺達も手伝うから」

「ゆうちゃん……」


 静乃は顔を上げ、真横に立つ優吾を見つめる。

 優吾もたまには良いことを言うものだ。というよりも、行隆よりもちゃんとしたアドバイスができている気がする。


(この前の相談、僕よりも優吾の方が良かったんじゃないの……)


 なんとなく嫉妬しつつも、今はそれどころではないと首をぶんぶん振る行隆。すると、いつの間にか静乃の表情が柔らかくなっていることに気付いた。


「ゆうちゃんもゆっきーもありがとう。えーこのこと考えてくれて。私はえーこの友達なんだから、せめていつも通りのテンションでいるよ。えいえいおー!」


 両手をバンザイする静乃に、何故か「よしっ」と満足気に頷く優吾。でも、静乃がいつものテンションでいてくれたら詠子も嬉しいだろう。きっと、少しは落ち着いて考えられるはずだ。――と思ったのだが、やはりどうだろう。何てったってネットが炎上しているのだ。行隆でさえだいぶショックを受けているのだから、当の本人はどんな気持ちになってしまうのだろう。考えるだけで恐ろしいが、いつまでも黙っている訳にはいかない。


「そろそろ、夢咲さんを呼ぼうか」


 優吾が静かに頷き、静乃が「らじゃー」と敬礼する。

 緊張するが、仕方がない。行隆が勇気を出して電話をすると、詠子はまだいつも通りだった。今から家に来られないかと言うとさすがに驚いていたが、予定もないからすぐに来られるという。どこかで待ち合わせをしようと思ったが、詠子は住所さえわかれば大丈夫と言った。詠子曰く、「直接家に訪問した方が何かドキドキする!」らしい。わくわくしているのが伝わってしまい、行隆の心は痛くなる一方だった。

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