3-6 本当の思惑

 午前十一時。ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴り響く。優吾と静乃には部屋にいてもらい、行隆一人で玄関に出た。


「あ、行隆くんおはよう。いや、もうこんにちはかな?」

「あー、ええと……おはこんにちは?」

「あはは、そうだね。おはこんにちは! それと、お邪魔します」


 ぺこりとお辞儀をしてから、詠子は薄桃色のパンプスを脱ぐ。白いブラウスに紺色の花柄スカート姿の詠子は、やはり制服姿の時よりも大人っぽく思えた。


「そういえば、行隆くんって妹がいるの?」

「ん、いないけどどうして?」

「静乃が履いてるようなちっちゃいスニーカーがあったから、いるのかなーって思って」


 部屋に向かいながら、詠子は何気なく呟く。行隆は「ああ、なるほど」と思いながら何の気なしに返事をした。


「あ、うん。二江さんの靴で合ってるよ。今日は二江さんと優吾も来てるんだ」

「……へっ?」

「え?」


 詠子の反応に、行隆は首を傾げる。でも、よくよく考えたら詠子以外に誰かを呼んでいるとは一言も教えてなかったのだ。電話をかけた時は変に緊張しすぎていて、「いきなりなんだけど家に来てくれないかな?」としか言ってなかったことを思い出す。


「ゆ、行隆くん……今日は遊ぶために私を誘ったんじゃなかったの? 私はてっきり、オーディションの疲れを癒そうと鈴葉さんのライブBD観賞会でもするのかと思ってた……」


 苦笑しながら、詠子は鞄からペンライトを取り出す。確かにライブBD観賞会も楽しそうではあるが、今日はそのために詠子を呼んだのではない。むしろ、重苦しい話をしなければいけないのだ。


「……何かあった?」


 気持ちが顔に出てしまったのだろうか。行隆の部屋に入る前に立ち止まり、詠子は行隆の顔を覗き込んでくる。微笑んでいる訳でも、照れている訳でもなく、至って真面目な表情だ。


「ごめん、夢咲さん。少しだけ……覚悟をしておいて欲しい」


 詠子は一瞬だけ目を見開き、小さく「わかった」と呟く。せっかくさっきまで楽しそうに笑っていたのに、一気に崩してしまった。行隆の心は震え出す。これから、起こってしまった事実を伝えなければならない。行隆としても胸が痛く、覚悟をしなければいけないな、と思った。



「本当に静乃と優吾くんがいる……」

「へいへーい。えーこよりも先にゆっきーの家にお邪魔しちゃいましたー。いえーい」

「ど、どうしたの静乃。いやいつも通りだけど、いつもより吹っ切れてるっていうか何というか……」


 部屋に入るなり静乃がダブルピースをしてきて、詠子と行隆は唖然としてしまう。確かに先程「いつも通りのテンションでいる」と宣言していたが、果たしてそのテンションが最後まで持つのだろうか。心配ではあった。


「夢咲。今日の二江は癒しの存在だ。今のうちに崇めておくが良い」

「そーなのー。癒すよ癒すよー」

「……何かよくわからないけど、ありがたや~?」


 優吾と静乃がどや顔をして、詠子が首を傾げながらも手を合わせている。本当にこれから真面目な話をするのだうか、と疑問に思ってしまう空気ができあがってしまった。詠子が言っていた通り、これがライブBD観賞会だったらどれだけ幸せなことだろう。でも、そろそろ本題に入らなければいけない。行隆は無理矢理空気を変えようと咳払いをして、詠子を見つめた。


「夢咲さん。今日は、ネットを見たりした? アニソンスターズ選手権のことを調べたりとか……さ」

「え? いや、今朝はまだ何も見てないけど……」

「だよね。見てたらもう知ってるはずだもんね」


 行隆の質問に、詠子は不思議そうに「ん?」と声を漏らす。行隆には、ネットが炎上しているという事実を声にする勇気がなかった。だから立ち上がり、パソコンの前へと移動した。


「夢咲さん。ちょっと、見てみてくれないかな?」

「何? 最終選考に残った人に、凄い経歴の人がいるとか?」


 的外れなことを言いながら、詠子は行隆の隣に立つ。そして――黙り込んでパソコンの画面を見つめ始めた。だんだんと口が小さく開かれていき、マウスに触れていない左手はだらりと力が抜けている。瞬きも多く、動揺しているのがすぐにわかってしまう。

 優吾も静乃も、そして行隆も、静まり返りながら詠子の様子を窺っていた。詠子は今、知ってしまった。ショックで倒れてしまったら思い切り支えなければ。そんな気持ちで行隆は隣の詠子を見つめ続ける。


「…………はぁっ」


 やがて、詠子は息を強く吸った。まるでこれから泣き出してしまいそうな、過呼吸のような息の吸い方だ。行隆は心配になって、詠子の背中に手を添える。しかし、詠子は食い入るようにパソコンの画面を見つめたままだ。

 眉には、強いしわを寄っている。徐々に肩も震え出して、行隆の心配はますます強まってしまう。「夢咲さ……」と、声をかけようとしたくらいだ。でも、できなかった。


「なんだよこれ」


 詠子の声がいつもより低く感じた。まるで怒りがこもったような声で、行隆は驚いて一歩下がってしまう。


「何が……」


 握りこぶしを作り、ぷるぷると震える詠子の瞳は鋭く、睨み付けるようにパソコンの画面を見つめている。そして、詠子の中の何かが爆発したようだ。


「何がにわかじゃ、あほんだらああぁぁっ!」


 詠子は叫んだ。

 行隆達などまったく気にせずに、ただ目の前の現実に耐えきれないように気持ちをぶつけ始める。瞳は赤く、潤んでいるように見えた。


「あたしのことを何も知らない赤の他人が、何偉そうに言ってるんだよ! あたしにとってはやっと見つけた、心から楽しいって思える趣味で、こうなりたいって思えた夢なんだよ! にわかの一言で片付けんな!」


 馬鹿、馬鹿、馬鹿、と。

 書き込みの一つ一つを指差し、罵倒する。

 こんなことをしても仕方がないことは、詠子自身もわかっているのだろう。声は震えているし、きっと目の前の画面も滲んでしまって上手く見えないのだろう。俯き、一滴二滴、雫を落とす。それからまた、画面と敵対した。


「むかつく。ほんっとうに腹が立つ。プロフィールと、たった一つの書き込みだけでなんでそこまで言われなきゃならないの」

「……そ、そうだそうだー」


 戸惑いを見せながらも、静乃が合いの手を入れる。すると、詠子は一瞬だけ静乃に笑みを見せた。八重歯が見える程に口を開いていて、まるで何かを企んでいるような悪い笑顔をしている。そして、パソコンを見つめる瞳はギラギラと輝いていた。


(ゆ、夢咲さん……?)


 行隆はただ、唖然とする。もちろん詠子がショックを受けることはわかっていたし、ショックが怒りになることも予想できた。だからこそ、何も口を挟むことができない。今はもう、とにかく思う存分思いを爆発させて欲しいと行隆は思った。


「確かにあたしはこの世界を知ったばっかりだよ。だから何? 知ったかぶってる訳でもないし、さして興味もないくせに「好き」って公言してる訳でもない! あたしのアニメへの、アニソンへの想いをなめんな!」

「いいぞいいぞー、もっと言ってやれー」


 本当に、傍から見たら何て変な光景だろうと思う。思わず優吾と目が合ったが、苦笑ではなく頷き合って再び詠子を見た。

 詠子のことを知りもしないで批判する赤の他人と、画面に叫んでも届かないのに真実を叫ぶ詠子。正直どっちもどっちだし、意味のない行為かも知れない。でも、行隆はもっともっと叫んで欲しいと思うのだ。感情的になって放たれた言葉は、詠子の心の奥底にある、本当の気持ちなのだろう。その言葉はパソコンの奥の人間には届かない。しかし、少なくとも行隆達の耳には届くのだ。決して「にわか」の一言では片付けられない詠子の強い想いは、ちゃんと行隆達に届いている。


「んん~? なんだこれ。『どうせ瀬名川浩明ひろあきのことも知らないんだろうな』って、何決め付けてるの? オタクじゃない頃から普通に知ってるっての!」

「おー私でもわかるぞー」

「ねー。あたし馬鹿にされ過ぎだよねー、静乃―」

「ねー。やんなっちゃうねー」


 うふふ、うふふふ、と二人は笑い合う。瀬名川浩明とは鈴葉の父で、国民的なアニメの主題歌を多く歌うアニソン歌手だ。歌番組に出ることはないが、一般的な知名度はある方だろう。


「……あれ? そういえば鈴葉さんと名字が一緒……もしかして、鈴葉さんのお父さん?」


 と思ったら、鈴葉の父であることは知らなかったらしい。今気付いたように口元に手を当て、驚きを露わにしている。


「どうしよう……思わず知ったかぶっちゃった……」

「えーこ、どんまい!」

「ううう……仕方ないじゃんまだ知ったばっかりなんだから! これから知っていくこともたくさんあるの! ばーかばーか!」


 なんだかもうやけくそになっている気がする。行隆が思わず苦笑してしまうと、先程までの詠子の勢いが一気にしぼんでしまった。「はあ」とわかりやすくため息を吐くと、ようやく行隆と優吾を見つめる。


「え、えーと……あまりにもビックリしちゃって、ちょっと暴走しちゃいました……」


 あはは、と乾いた笑みを浮かべる詠子。

 行隆はすぐに首を横に振った。


「ううん、気にしないで夢咲さん。……それより、大丈夫?」


 きっと、心の整理もつかないまま叫んでいたのだろう。少し落ち着いてしまった今が、もしかしたら一番辛いのかも知れない。だから行隆は冷静になって訊ねた。


「…………」


 詠子の答えは、なかった。

 無言のまま俯いて、何も答えようとしない。頭の中がぐるぐるしているのだろうか。現実に耐えられないのだろうか。絶望しているのだろうか。辛いのだろうか。

 行隆はただ、不安だった。詠子の姿を見ていられなくて、ゆらゆらと視線が不安定に揺れてしまう。「僕はどうやって支えたら良い?」なんて自分自身に問いかけていると、ようやく詠子が行動を起こした。


「……夢咲さんっ?」

「えーこ!」

「おい夢咲!」


 三人して詠子の名前を呼ぶ。目の前で起こってしまった事実に胸を痛めながら、行隆はその場にしゃがみ込んだ。静乃と優吾も同じようにカーペットの上に座り込む。


「何やってるの夢咲さん! 早く頭を上げて!」


 詠子は――土下座をしていた。両腕をぷるぷると震わせながらも、顔を上げようとしない詠子に対し、行隆は「ああもう!」と叫ぶ。無理矢理でも詠子を起こそうとした。


「待って、行隆くん」

「駄目だよ夢咲さん。謝りたいことができたのはわかった。でも、それは違うでしょ? 僕達は一緒にここまで来たんだから、顔を上げて? 話ならちゃんと聞くから」


 詠子の両手を握りながら、行隆は早口で告げる。咄嗟に恥ずかしい行動をしてしまったと後悔するがもう遅い。

 だいたい、土下座なんて気分の悪いことはして欲しくないのだ。


「……ごめん行隆くん。静乃と、優吾くんも……」


 ゆっくりと顔を上げてから、詠子は小さくお辞儀をする。


「あのね、皆……。悪いのは、あたし自身なんだよ」


 そんなことないよ、と。

 行隆は咄嗟に言おうとした。今の詠子は精神的に深く傷付いてしまっている。だから詠子は自分が悪い、自分「だけ」が悪いのだと言い張っているのだ。行隆はそう思い、小さく息を呑む。どうにかして詠子を励ませないかと頭を巡らせた。

 でも、詠子は冷たい言葉を吐く。


「鈴葉さんに返すためとか、真実を知りたいとかそんなこと言って、本当はあたし……」


 鞄からマイクを取り出し、じっと見つめる。


「心の中では、このマイクを利用するつもりだったんだよ」


 ――そんなことないよ、なんて。


 言えるはずがなかった。むしろ、そんな軽々しい言葉を言おうとしてしまった自分が馬鹿だと思った。

 詠子は今、自棄になって言葉を発している訳ではない。今にも倒れそうな程ふらふらしていて、弱々しい声を零している。きっと、考えて考えて考えまくって、ようやく気付いてしまった真実なのだろう。だから行隆は、黙って詠子の言葉に耳を傾けた。


「あたしね、前に行隆くんには話したんだけど……少し前まで夢がなくて、趣味すらなかったの。今年の夏にアニメとアニソンと出会って、やっと見つけたって思った。すっごく遅れちゃったけど、これがあたしの目指す道なんだって」


 静乃と優吾も、黙って詠子の話を聞いていた。ただ、静乃は驚いたように目を大きく開いている。詠子に夢も趣味もなかったなんて、信じられないのかも知れない。


「だからあたし……少しでも早く、前に進みたいって気持ちがあったの。このマイクを使ってオーディションに応募したいっていち早く決意したのは、近道をしたいっていう思惑があったから……かも知れない」


 言って、詠子は力なく笑う。

 行隆は、どんな顔をしたら良いのかわからなかった。「大丈夫だよ」なんて簡単に言えないし、かと言って詠子に対して幻滅した訳でもない。正直な気持ちに気付いて、行隆達に話してくれていることはとても嬉しいのだ。でも、「ありがとう」とお礼を言うのも何か違う気がして、行隆は上手く笑い返すことさえできなかった。


「も、もちろん最初からこのマイクを利用してやるって意図があった訳じゃないんだよ? 本気でマイクの謎が気になったし、鈴葉さんの疑惑も知りたいって思った。でも、心のどこかでは違う気持ちもあったってことに、だんだん気付き始めちゃって……は、ははは……ホント、馬鹿だねあたし……」


 弱々しい笑みを浮かべる詠子の顔さえも、だんだんと見ていられなくなる。馬鹿なのは自分も同じだと、行隆は思った。何か言いたいのに頭の中がもやもやして何も出てこない。すると、何故か優吾と目が合った。「フフッ」と、得意気な笑みを浮かべている。


「ずっと自分の気持ちに気付かない方が馬鹿だと、俺は思うぞ」


 言いながら、優吾は偉そうに腕組みをしてふんぞり返る。突然の優吾の言動に驚いたのか、詠子はぽかーんと口を大きく開いた。


「自分の罪に気付いて、それを認めて、俺達に伝える……なかなかできないことだと思うぜ」

「……そんなの、当たり前だよ。あたしは、行隆くんと、優吾くんと、静乃に支えられてここまで来たんだから。気付いたことは正直に話すよ」


 でも、そんな問題じゃ……。と詠子は小さく漏らす。優吾は「やれやれ」とでも言いたいように腰に手を当てた。


「きっと、この結果はあたしへの罰なんだと思う」


 やがて呟かれた詠子の言葉に、気付けば行隆は首を横に振っていた。詠子と視線が合うと、行隆はようやく自分の気持ちを吐き出す。


「誰が悪いって問題じゃないよ」


 行隆の言葉に、再び詠子が口を開く。不思議そうにしている姿がなんだか愛らしく、行隆の表情はようやく柔らかくなった。


「夢咲さんと出会って、まだ数ヶ月しか経ってないけどさ。アニメとか、アニソンへの想いの高さはちゃんと伝わってるよ。……今回は駄目かも知れないけど、でも! 夢咲さんならきっと、アニソン歌手への道を一歩ずつ進んでいけると思うんだ」


 言いながら、行隆は恥ずかしくなって頬を掻く。まっすぐ見つめ返してくる詠子の瞳を見ていられなくなって、虚空を見つめながらも行隆は言葉を続けた。


「ぼ、僕はさ、その……さっきの告白で夢咲さんのことを嫌いになったりしないから。むしろ、興味を惹かれたっていうか……とにかく!」


 頑張って視線を詠子へと戻す。

 すると詠子が微笑みながらこちらを見つめているものだから、思わず吹き出しそうになってしまった。でも、なんとか堪える。


「これからも夢咲さんを応援していきたいって思ってる! ……んだけど、だ、駄目かな?」


 格好良く決めた! と思ったら、弱々しく訊ねてしまう。隣で優吾がニヤニヤと笑い、さっきまで戸惑っていた静乃も微笑みを浮かべていた。


「……本当に?」


 瞬き多めに見つめられてから、詠子に訊ね返される。すぐに頷くと、詠子の表情は太陽のように眩しくなる。


「なんだよ、もう。皆して……優しすぎるよ。本当にもう」


 呟きながらも、笑顔が増していく。心から喜んでくれているのがわかるようで、行隆の心も温かくなっていった。


「……静乃はどう? 正直な気持ち、聞かせて欲しいな」

「わ、私……?」


 突然話を振られて驚いたのか、困った顔で詠子を見つめ返す静乃。詠子は静乃に笑いかけながら、大きく頷いてみせた。


「私は……黙ってえーこを見てただけなの。だから、何を言ったら良いのかわからない……」

「あはは、この正直者め」

「でも、もしも辛い気持ちになっちゃったら……いつでも私の胸に飛び込んで欲しいの。ほら、どーん!」


 言いながら、静乃は両手を広げながら詠子に迫り、やがて抱き付く。


「って、ちょっとちょっと。逆にあたしの胸に飛び込まれたんだけど?」

「…………」

「し、静乃? ちょっと苦しいよ……?」


 最初は呆れていた詠子の表情が、だんだんと不安に満ちていく。無言で詠子にしがみ付いている静乃は、いったいどんな気持ちでいるのだろう。行隆の頭の中には「えーこの力になりたい」という静乃の声が浮かんでいた。


「まったくもう、静乃ったら……。あたしなら大丈夫だから」

「……でも」


 静乃はそっと詠子の身体から離れ、パソコンの画面を指差す。行隆達がどれだけ話し合おうと、一度起こってしまった事実は変わらない。今こうしている間にも、詠子の噂を知り、批判的な思いを抱いた人がたくさんいるのだろう。そう考えるだけで、心の痛みが治まらない。


「確かに今は、色んな気持ちが渦巻いてるよ。辛い気持ちだってある。あたし何やってんだろうって、そんなことばっかり考えちゃう」

「うー、えーこ~……」


 静乃が再び詠子を抱き締める。


「あーもう、わかったわかった。今日の静乃は甘えん坊なんだから。まぁ、元々スキンシップが多い子ではあるけど」


 詠子は、静乃の頭を撫でながら苦笑を浮かべる。そんな二人の姿がまるで仲の良い姉妹のように見えて、行隆は一瞬微笑ましい気持ちに包まれる。でも、本当にたった一瞬の出来事だった。詠子は静乃から離れ、ギロリとパソコンを睨み付ける。


「でもあたし、これに関しては怒りしかないんだよね」

「え……? つ、辛くはないの……?」

「辛い? そりゃあ最初はショックだったよ。でも、こんなに無茶苦茶言われてさ、むかつかない訳ないじゃん」


 唖然とする静乃に、詠子はきっぱりと言い放つ。さっきまでの弱々しい姿とは大違いの堂々とした姿。行隆は、なんだか嫌な予感がした。


「夢咲さん……も、もしかして……」

「ん、何? 行隆くん」


 詠子がこちらを見る。その瞳は、メラメラと燃え上がっているように見えて、嫌な意味で鼓動が高鳴っていく。


「最終選考に出ようと考えてる……訳じゃ、ないよね?」

「へ? ああ……」


 詠子は三人の顔をじっくりと見てから、苦笑を浮かべてみせた。思わず行隆は、優吾と静乃と顔を合わせてしまう。二人とも驚いているような、呆れているような表情をしていた。きっと行隆も同じような表情をしているのだろう。


「ごめん皆。あたし……今回のこと、まだ諦めたくないんだ」

「……おぉ」


 ビックリした。それはもう驚きすぎて、上手く言葉が出てこないくらいだ。だって、詠子にパソコンの画面を見せてから、あんなにも感情を掻き乱したのだ。怒りをぶつけてみたり、自分自身の思惑に気付いてしまったり、この短時間で色々な感情が駆け巡った。楽しいというより、辛く苦しい思いの方が強いだろう。

 なのに詠子は、諦めないことを選択した。あまりにも強いすぎる決断を、詠子はさらりと告げたのだ。行隆としては、信じられない気持ちでいっぱいになってしまう。


「夢咲。現実的なことを言うと、問題が大きくなる前に身を引いた方が良いと思うぞ。……将来のためにも、その方が良いんじゃないのか」

「そう……だね。確かにそれが一番良いと思うよ。でも優吾くん、本当にそれは本心なのかな?」

「…………いや」


 詠子の問いかけに、優吾は少し間を空けてから否定した。


「俺自身としては、こんな中途半端な形で終わりたくはないな。例え綺麗な形でなくとも、最後までやり遂げたい。ただ、お前へのリスクが多すぎるってだけの話だ。……なぁ、行隆としてはそこが一番心配だよな?」

「え、あ! う、うん、もちろんそうだよ! これ以上頑張ってますます取り返しのつかないことになったら大変だし……僕は夢咲さんのことが心配、だよ」


 ただでさえ、もう大変なことになっているのだ。詠子は悪い意味での有名人――と考えるだけで自分のことのように辛い。


「心配してくれてありがと、行隆くん。でもね、あたし……もう、逃げも隠れもしたくないんだ。どんなに下手だと言われても、批判的な目で見られても構わない。ただ、あたしは……今の実力をぶつけてみたいの」


 詠子の言葉に、視線に、表情に、行隆はまた驚いてしまう。

 あまりにも、希望に満ちているのだ。いったいどこからそんな力が湧いてくるのか疑問に思うくらい、今の詠子が輝いて見える。


「本気なの、夢咲さん」


 詠子の姿を見ていれば、本気なのはわかりきったことだ。でも、行隆は訊ねずにはいられなかった。詠子の決意は凄いと思う。感心する。自分には真似できない。――しかし、行隆の心のどこかでは、心配な気持ちが確かに疼きまくっていた。

 だから行隆は、詠子が少しでも動揺するようなら止めようと思ったのだ。


「なぁに、行隆くん。今の言葉、強がりで言ってると思った?」


 しかしそこには、動揺なんてまったくなく、へらりと笑ってみせる詠子の姿があった。もしかしたら、本気も何も、当たり前の行動だと思っているのかも知れない。

 行隆の脳内は、不安と希望の間をゆらゆらと彷徨っていた。やっぱり詠子は凄いと思う。詠子のまっすぐな心を見て、ここまでついて来て良かったと思った。でも、どうしても消えてくれないのだ。心配で心配でたまらない、弱々しい気持ちが。


「……さっきも、言ったけどさ」


 詠子の顔も見られないまま、行隆は言葉を零す。


「僕はこれからも夢咲さんを応援していきたいんだ。それくらい、僕にとって……夢咲さんの存在は大きい。まだまだ、夢咲さんと過ごした時間は短いし、知らないところもたくさんあると思うけど……でも……」


 頭がくらくらするし、「もう嫌だ」と何度も思った。何でこんなにも胸が苦しくなるのか、行隆にはわからない。自分の感情なのに、訳がわからないのだ。


「夢咲さんは、こんなに辛い思いをするような人じゃ、ないと思うんだよ……!」


 これ以上頑張って欲しくない。――それは、ここまで頑張ってきた詠子に辛い思いをして欲しくないから。


「しないよ。……あたしは、辛い思いなんかしない。今だってしてないもん。自分自身の過ちを反省してるだけだってば」


 なのに詠子は、何でもないように言い返してくる。

 また、行隆の胸がきつく痛んだ。なんでこんなにも平気な顔ができるのだろう。このままでは、期待をしてしまう。もっともっと先へ、共に歩いていきたいという気持ちが湧き出てしまう。心配なのに。本当は止めたいのに。詠子を信じてみたいと思ってしまうのだ。


「……馬鹿だ」

「ん~? 行隆くん、今何か言ったかな?」


 わざとらしく首を傾げておどける詠子。行隆は、思わず詠子を睨み付けてしまった。


「馬鹿だって言ってるんだよ! こんなにも大変なことになったのに、何でそんなにやる気に満ちてるんだよ! 僕には考えられないことだから、どうしても凄いって思っちゃうんだよ! 心配でたまらないのに、夢咲さんについて行きたいって思っちゃうんだよっ!」


 馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。

 行隆はその場にうずくまり頭を抱えた。「ふっ」と笑う優吾の声や、「可愛い……」と感想を漏らす静乃の声が聞こえてくる。やめてくれ、行隆は心の中で叫ぶ。でも、なかなか身動きを取ることができなかった。


「行隆くん……本気であたしのこと心配してくれてるんだ……」


 やがて、詠子の声も聞こえてくる。いつもよりもか細く、小さい詠子の声。震える息遣いまで聞こえてきた。行隆は、恐る恐る顔を上げる。


(って、うわぁ……っ)


 詠子の顔が近い。いつになく近い。息遣いが聞こえてくると思ったらそういうことだったのか、と思った。ほんのり朱色に染まる頬や、瑠璃色の瞳が目の前にあって驚いてしまう。


「……あのね、行隆くん。あたしだって動揺することだってあるんだよ。あんな本音言われて、正気でいられると思う? まったくもう、ネットの炎上よりビックリしたよ」

「えっ、ネットの炎上より……って、それはさすがに盛りすぎでしょ」


 冷静に突っ込みを入れながらも、頭の中は混乱が続いている。本当に、詠子についてはまだまだ知らないことだらけだ。顔を真っ赤にさせて、頬を膨らませて、まるで恥ずかしがっているようだ。というよりも、恥ずかしがってくれているのだろうか? 考えると、ますます混乱が加速する。


「ひゅーひゅー」

「いいぞ、もっと続けろ。俺達のことは気にするな」

「というよりもゆうちゃん。私達もう帰った方が良いのでは……?」

「おお、それもそうだな。んじゃ、俺達は帰るぞ」

「待て待て待て待てぇ!」


 慌てて詠子から離れ、茶化すだけ茶化して去っていこうとした二人を止める。だいたい何がひゅーひゅーだ。考えるだけで混乱が限界を迎えそうなため、なるべく考えないようにした。


「続けてって言ったのに。ねー、ゆうちゃん」

「な。酷いやつらだ」

「酷いのはどっちだよ! もう、いいから話を戻すよ」


 さっきまて真面目に思い悩んでいたのがなんだか馬鹿馬鹿しく思えてきた。ニヤニヤと楽しげに笑う優吾と静乃とは裏腹に、行隆と詠子は苦笑し合う。


「で、結局どうするの? えーこが心配だから諦めるの? それとも、やっぱり最終選考出るの? えーこは、ホントのホントに平気?」

「うん、平気。というか、平気というか何というか……出たいんだ、あたし」


 静乃が訊ねると、詠子はすぐに頷いた。


「心配かけてごめん。でも、このままじゃ嫌なの。だってあたし、最初から歌が上手い訳じゃないもん。あたしは、その偽りを捨てたい。一からちゃんと始めたいの」


 本当に、自分のことが馬鹿だと思った。行隆はそっと息を呑み、詠子を見つめる。何を言ったって、詠子は揺るがないのだ。そんなのわかっていたはずなのに、行隆は詠子の姿を見て心底驚いている。

 詠子の強い意志は、行隆の心をしっかり掴んで離さなかった。


「行隆くん。静乃。優吾くん。もう少しだけ、あたしのわがままに付き合ってくれないかな。……お願いします」


 行隆達を一人一人見つめてから、詠子は深々とお辞儀をする。

 顔を上げた詠子の表情は、笑顔だった。満面の笑みって訳ではなくて、申し訳なくしているような、でも行隆達に期待しているような、うっすらとした笑顔。


「さっきも言ったでしょ。夢咲さんについて行きたいって。何かあったら僕らで支える。だから、行けるとこまで行ってみよう。……二人もそう思うでしょ?」


 さっきまで心配だ心配だと喚いていたのが恥ずかしく思えてくる。でも、行隆はもう決心を固めてしまった。静乃と優吾も同じ気持ちなのを信じて、二人に視線を送る。


「私はえーこの隣にいる。友達、だから」

「ま、そうなると思ってたよ。せっかく作った曲なんだ、最終選考でも格好良く歌ってくれよ」


 当然のように、二人は頷いてくれた。ほっとしたように、行隆は息を吐く。


「格好良く、かぁ……。もうマイクは封印するんだから、いっぱい練習しなくちゃ!」

「あれ、最終選考に出るためにマイクを使ってた訳だから、最終選考でマイクを封印するのは当たり前なんじゃ……?」


 マイクを手に取りじっと見つめる詠子に、行隆はわざとらしく首を傾げてみせる。詠子は声を裏返しながら「えっ」と驚き、焦り出す。


「い、いや、元々そのつもりだったよ? 最終選考でも使っちゃったら本当にずるしてる人になっちゃうじゃん。あーいや、今までずるしてなかった訳じゃないんだけど……ああっ、もう」


 頭を思い切り掻きむしってから、詠子はパソコンの画面を指差す。


「とにかく! あたしはこいつらに証明したいの! にわかでも何でもなく、あたしはアニソンが大好きなんだって! 急に歌が上手くなれる訳じゃないけど、せめて気持ちだけでも伝えてみせるから!」


 見てろよこのやろー、と呟きながら再び怒りをぶつけまくる詠子。どうやら余程ネットの炎上に関しては怒りを覚えていたようだ。「少なくともあなた達より鈴葉さんのこと好きだし!」とか、「逃げないから待ってろ!」などと得意気に言い張る詠子の姿を、行隆は微笑ましく見ていた。


「夢咲さんはあれだね。なんて言うか、その……。『褒められて伸びる子』って言葉があるけど、夢咲さんの場合は……」

「あ、ゆっきーの言いたいこと、なんとなくわかった~。『煽られて伸びる子』?」

「そうそう、そんな感じ!」

「……えっ」


 パソコンに怒りをぶつけ続けていた詠子の視線がギロリとこちらへ向く。心外とでも言いたいように頬を膨らませている。


「何言ってるの、普通に褒められた方が嬉しいよ!」

「でもえーこ、明らかにネットの炎上を見てからやる気が満ち溢れてる……」

「いやそれは怒れてくるだけでね」

「それでこいつらに証明するから! ってなるのが夢咲さんらしいっていうか、なんというか……。うん、やっぱり煽られて伸びる子なんじゃないかな」

「ちーがーうー」


 頭を抱えて全力で否定する詠子を見つめながら、行隆は心が解きほぐされていくのを感じた。ネットが炎上したと知った時はもう「終わった」と思っていた――のに。まさか最終選考に行くという結論にたどり着くとは思っていなかった。そして今は、その結論に心から納得している。この煽られて伸びる子――詠子ならばきっと大丈夫という気持ちになってしまうのだ。


「夢咲さん」

「何ですかー。煽られて伸びる子ですよー」

「それはごめんって。そうじゃなくてさ」


 詠子に手を差し伸べ、微笑みかける。


「改めてさ。もう少し一緒に頑張ろう、夢咲さん」

「もう……さっきまでふざけてたくせに。……うん、よろしくね、行隆くん。二人も、こんなあたしに付き合ってくれてありがと」


 力強く握った手から、詠子の決意を感じる。

 あともう少し、頑張ろう。詠子の瞳を見つめながら、行隆も決心を固めていた。

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