3-2 マネージャー

「あ、えーこ達やっと来た~」


 あれから数時間が経ち、午後一時。ようやく二次選考が終わり、行隆達は静乃の待つ待合室に駆け付けた。静乃は待ち切れなかったらしく、棒状のチョコレート菓子を持ったまま手を振っている。「もう、これからご飯なのに」と怒る詠子の表情は、ピリピリとした緊張感から解放されたように綻んでいた。


「それで、どうだったの?」


 しかし、何気ないように静乃から訊ねられると表情は一気にしぼんでしまう。「あはは」と乾いた笑いを零しながら、詠子は頭を掻く。


「んー、良かったと思うんだけど、ちょっと問題があったっていうか……」

「どういうこと?」


 詠子が言いづらそうにしているのを察したのか、静乃は行隆と優吾の顔を交互に覗き込んでくる。行隆が答えようとする前に、優吾が答えた。


「審査員の一人のおばさんの反応が妙だったんだよ」

「ちょ、ちょっと優吾! おばさんって……」


 確かに行隆達からすると年上だが、見た感じニ十代半ばだと思う。なのにおばさんはまずい。まずすぎる。行隆は自分の顔が青ざめるのを感じた。


「何言ってるの優吾ったら、お姉さんの間違いでしょ」

「……何でお前、あのおばさんのこと庇ってんだ?」


 不思議がる優吾に、行隆は心の中で「あああああ!」と悲鳴を上げる。詠子も気付いたらしく、口元に手をやった。


「私は二十八ですが、何か?」

「……へ」


 優吾の背後から、先程の二次選考で聞いたような声が響く。というか、優吾以外はさっきから見えていた。赤紅色の長い髪。灰青色のつり上がった瞳。まさか二十八歳とは思えないピチピチの肌。紺色のスーツをばっちり着こなした綺麗なお姉さん。


「先程はありがとうございました」


 一瞬だけ驚愕するように瞳を見開いてから、優吾は頭を下げる。

 その相手は、審査員の一人、植原戸羽子だった。


「ええ、お疲れ様です。……何か?」


 ただ怯えながら見ているだけだというのに、戸羽子は行隆を睨みつけてくる。今日が初対面の相手なのに、怖いったらなかった。


「い、いえ、なんでもないです。ところで、僕達に何かご用でしょうか?」

「用があるのは主に夢咲詠子、あなたです」


 鋭い視線が、今度は詠子を突き刺す。


「個人的に話があります。よろしいですね?」

「……はい」


 ずっと俯いてしまっていた詠子は、ゆっくり顔を上げて頷く。二次選考はあんなにも眩しい笑顔をしていたのに、今は怯えまくる一匹の小動物のようだった。


「あの~。私、えーこ……夢咲さんの友達なんですけど……」

「では、あなたも同行してください。あなたの友人がどれ程の最低行為をしたか、教えてさしあげますから」

「は……」


 恐る恐る手を上げて名乗り出た静乃だったが、冷たすぎる戸羽子の言葉と視線に口を開けたまま固まってしまう。

 行隆も優吾も、そして詠子もまた、何も言うことができない。


「場所を変えます。ついて来てください」


 ただ、黙って戸羽子の言葉に従うことしかできなかった。誰もいない個室に連れられるまでの間、行隆の心はじわじわと絶望を感じてしまう。これは後悔なのか何なのか。まだ自分でもわからないままだ。


「紹介が遅れました。私は瀬名川鈴葉のマネージャー、植原戸羽子です」


 個室の扉を閉めてから、戸羽子は淡々と自分の紹介をする。鈴葉の関係者であることはもちろんわかっていたのだが、まさかマネージャーだったとは。最初は行隆も驚いた。しかし、行隆は少し考えて「ああ!」と納得する。


「ウエちゃんかぁ……」

「聞こえてますよ。まぁ、その通りですが」


 鈴葉が自身のラジオで時々「マネージャーのウエちゃん」の話をすることがある。きっと、植原のウエちゃんなのだろう。真面目な性格だと鈴葉がよく言っていたため、妙に納得してしまった。

 個室の中は長テーブルとパイプ椅子が並べられているだけの狭い部屋で、カーテンは空いているものの窓の外は曇っていて薄暗い。なんだか、部屋の中の空気さえも暗く感じてしまう。


「それで、そのマネージャーさんが俺達に何の用ですか?」


 詠子は相変わらず下を向いているし、静乃は詠子を見つめているだけだし、行隆もただただこの空気に耐えられないように黙り込んでしまっていた。もしかしたら、優吾が訊ねてくれなかったら話がなかなか進まなかったのかも知れない。


「あなたの作曲も、あなたの作詞も非常に良くできていました。私が話したいのは、先程も言いましたが夢咲さん、あなたです」

「……はい」


 戸羽子が詠子を見ると、詠子は身体を震わせた。今まで聞いたことがないような、か弱い返事だった。

 そんな詠子に対し、戸羽子は敵意むき出しの視線を送る。


「あのマイクは、こんなことをするためのものではないでしょう」


 はっ、と詠子は目を剥く。突然戸羽子がマイクのことを話し出したので驚いたのだろう。薄々、行隆も「もしかしたらマイクについて何か知ってるんじゃ」と思っていた。いや、むしろそれ以外に怒る理由なんてない。

 でも、マネージャーの戸羽子が知っているということは、つまり……。


「このマイクは、鈴葉さんのものなんですか……?」


 行隆が抱いてしまった疑問を、詠子はしっかりと戸羽子を見つめ返しながら訊ねていた。この質問は、最終選考でするはずだった。でもきっと、もう最終選考に行くことはできない。詠子はそう判断し、今戸羽子に訊ねたのだろう。


「違う……、違う…………」


 戸羽子の顔は強張っていた。

 まるで自分に言い聞かせるように「違う」と繰り返す戸羽子は、どう見ても動揺しているようにしか見えない。


「あたし、どうしても知りたいんです。あたしは、鈴葉さんに憧れているから……だから、お願いします!」


 半ば叫ぶようにして、詠子は頭を下げた。

 行隆達も一緒に頭を下げると、戸羽子は諦めたように口を開く。


「……私がこのマイクのことを知っているのは確かなことです」


 しぶしぶ呟かれた戸羽子の言葉。

 わからない。戸羽子がマイクについて知っているなら、鈴葉も知っているのか。鈴葉が使っていたのか。もうここまで来たら聞くしかないと行隆は思った。


「詳しく教えてもらっても良いですか?」


 勇気を出して、行隆は戸羽子に訊く。

 しかし、戸羽子はすぐに首を横に振った。


「あなた達に教える義務はありません」


 はっきりと言われてしまう。相変わらず戸羽子の瞳は鋭くて、見つめているとちくちくと突き刺ささる。すでに負けそうになってしまう。


「少なくともあなた達はこのマイクの効果を知っているはず。なのにオーディションに使った。それがどういう意味がわかっていますか?」


 せっかくマネージャーの戸羽子が目の前にいるのだ。聞けることは聞かなくてはと、さっきまでずっと思っていた。


 ――もう、何も言い返せないな。


 どう考えても戸羽子の言葉は正しい。間違ったことをしているのは自分達だ。鈴葉がマイクを使っているのか知るためだとしても、理由にはならない。詠子は不正をしてオーディションに応募して、二次選考まで来た。その事実は、変わらないのだ。


「…………本当に、すみませんでした」


 震えていた。消え失せそうな声だった。お辞儀をしたまま、顔を上げようとしなかった。その身体も、やはり震えていた。

 嫌に鼓動が早くなって、苦しくなる。詠子の姿を見ていられない。どうしたらいいかわからずに、ただ行隆の頭は真っ白になっていた。

 もう話すことは何もない。

 戸羽子はそう判断したのだろう。行隆達も頭を下げると、テーブルに置かれた鞄を肩にかける。そして、そのまま去っていくように扉を開いた。


「すみません、でした……」


 何か言うことはないかと口を開いても、出てくるのは謝罪の言葉のみ。

 そんな行隆を見て、詠子を見て、優吾と静乃を見て、戸羽子は何故かうっすらと微笑みを向ける。

「え?」と疑問に思う前に、戸羽子は無言のまま部屋を出て行ってしまった。


 長い。とてつもなく長い沈黙が行隆達を襲う。

 狭い部屋の中に四人もいるのに、とても静かな時間だ。暗くて、重苦しくて、時が経つにつれ気分が沈んでいってしまう。

 何でこうなってしまったのだろう、と思う。

 行隆は確かに、詠子が「マイクを使ってオーディションに応募したい」と言った時に否定をした。戸羽子の言う通り、こんな不正はしちゃいけないと思ったはずだ。でも、詠子の目的はあくまで真実を知るためで、行隆も同じ思いが芽生えて協力することにした。

 だから、ただ単に失敗しちゃっただけの話なのだ。別に今回のオーディションで優勝を目指していた訳ではない。むしろ、目指していたら本当のただの悪者だ。それをちゃんとわかった上で、行隆達は最終選考を目指していた。

 それだけな、はずなのに。

 何故、こんなにも心が苦しいのだろう。鈴葉に対する謎は深まるばかりだから、だろうか。好きなアーティストに対する疑惑が残ったままだから……という気持ちも、きっとあるのだろう。でも、それ以上の何かがある気がした。


「はああぁ……」


 すると、長い沈黙を破るように、詠子が大きなため息を吐く。


「作戦失敗、だね」


 言いながら、詠子は苦笑を見せた。

 久々に見る詠子の八重歯。でも、行隆にはどう見たって無理をしているようにしか見えなかった。だから行隆も無理をして笑ってみようと思ったのだが、詠子に先手を取られてしまう。


「ごめん。皆を巻き込んじゃって……本当にごめんなさい」


 さっき戸羽子にしたのと同じように、詠子は深く頭を下げた。声はやはり震えていて、行隆の心をますます揺さ振る。


「そんな! 夢咲さんが謝ることなんて何もないよ」


 反射的に行隆は首を振る。


「えーこ。あまり自分を責めないで……」

「とりあえず落ち着け。……お前だけの問題じゃないんだから」


 静乃は恐る恐る、優吾は困ったように頭を掻きながらも詠子に声をかける。そうだ。これは詠子だけの問題ではない。協力した行隆と優吾、ここまで見守ってきた静乃の四人の問題なのだ。詠子だけがすべてを背負う必要なんて何もない。

 だいたい、行隆がここまでどんな気持ちで過ごしてきたと思っているのだ。


「僕は、良い経験ができたと思ってるから」


 本音をしっかりと詠子にぶつける。

 詠子に出会って、変なマイクに出会って、行隆は今までに経験したことがないことをたくさん経験してきた。正直、楽しくて仕方がなかったのだ。オーディションに応募すること自体も、優吾と相談しつつ一つの曲を作ったり、詠子とイベントに参加したり……短い時間に色々なことがあった。今日の二次選考も凄く緊張したけど、行隆にとっては大切な経験になったことだろう。だから、良いのだ。良いはずなのだ。


「ああ、俺も行隆と同じ意見だ。俺は趣味で作曲をしているが、誰かに曲を提供するのは初めてでな。……結構、楽しいもんだな」


 優吾の声は心なしか弾んでいるように思えた。こんな状況だからこそ、無理をしているのだろうかと一瞬行隆は思った。でも違う。優吾の口元が緩んでいる。きっと、心の底から思っている、本当の気持ちなのだろう。


「あはは……励まされちゃった」


 詠子は、笑っているようで全然笑えていなかった。口元がつり上がったと思ったら、すぐにしぼんでしまう。


「えーこ、大丈夫?」


 静乃は一人だけ、不安そうに眉根を寄せていた。詠子の両手を握り締めて、顔を覗き込んでいる。こんな時だからこそ静乃はのほほんとしていそうだったが、静乃自身もだいぶ参っているようだ。

 しかし、詠子は苦笑しながら手を離す。

 静乃、優吾、そして行隆の顔を見て、さっきまで無理矢理作っていた笑顔を消した。


「ごめん。ちょっと……頭を冷やしたいかな」


 今の詠子の正直な気持ち、なのだろう。

 これからどうしようか? という話でさえまだできないのだ。行隆としても同じ気持ちで、今度は行隆が苦笑を零してしまう。


「そう、だね。その方が良いかも」

「うん。ごめんね、皆。……また、学校でね」

「うん……」


 行隆は頷く。ただ、それだけしかできない。

 詠子に対し、何かを言いたい自分がいる。でも、何も言葉が出てこなくて、もどかしい気持ちが行隆を襲う。何かできないか、とか。どうすれば良い、とか。そういう問題じゃない。起こってしまった現実は、もう元には戻せないのだ。


「えーこ!」


 一足先に部屋を出ようとする詠子の背中に、静乃が声をかける。


「必要とあらば、いつでも私の胸に飛び込んでおいで! 私にはそれくらいしかできないから~……ね?」


 きっと、静乃も行隆と同じく何か言いたくて仕方がなかったのだろう。詠子に向かって満面の笑みを浮かべて、小首を傾げてみせる。

 すると、詠子は一瞬だけ笑みを零す。


「ふふっ、ありがと、静乃。もしかしたら本当に飛び込んじゃうかもよ? ……行隆くんも優吾くんも、今日はありがとうね。今度ちゃんと、お礼はさせてね」


 しっかりと行隆と優吾の目を見てから、「じゃあね」とか細く呟く。

 詠子が部屋を出ていってからも、重い空気はなくならなかった。「私、ご飯食べてから帰ろうかな~」と呟きながら静乃が出ていき、「お前も、元気出せよ」と行隆を気にかけながら優吾も出ていく。

 皆、バラバラに帰っていってしまった。行きは皆で電車に乗って来たのに、なんだか寂しく感じてしまう。


(なんか、まるで……バッドエンドみたいだな)


 何を間違ってしまったのだろう、じゃない。最初から、自分達は間違った道を進んでしまった。元からこうなる運命だったのだ。

 きつく胸が痛む。本当にこのままで良いのか? と自分に問いかける。でも、やっぱりわからない。

 行隆はただ、悲しみを背負ったまま静かに部屋を出ることしかできなかった。

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