第一章 真実を知るために。
1-1 あたしの歌声じゃない
二日間の学園祭が終わり、翌日の振替休日は瀬名川鈴葉のミニライブ&トークショーの余韻に浸るようにぼけーっと過ごした。鈴葉のライブBDを観てみたり、過去のライブグッズのパンフレットを眺めてみたり、鈴葉がパーソナリティを務めるラジオを聴いてみたり。鈴葉以外のものに触れる気になれず、家にこもって鈴葉関係のものばかり観たり聴いたりしていた。誰かのワンマンライブに行くと必ず起こる現象だが、録画してあるアニメすら手をつけないのは初めてのことかも知れない。恐るべき学園祭。鈴葉の母校ということもあってアットホームだったし、何より席も近かった。何度思い返してみても、顔がニヤけてしまう。
翌日の火曜日。登校日になっても気持ちは抜けきらなかった。上の空のまま授業を受け、休み時間の校内放送で鈴葉の曲が流れると腕が勝手に動きだしそうになる。学園祭はもう終わったというのに、未だにわくわくが止まらない。でも、今日は一つの目的があるのだ。
それは、鈴葉のサイン色紙を見に行く、ということだ。
どうやら、空き教室が鈴葉の楽屋代わりになっていたらしく、証拠にサイン色紙が飾られているらしい。これは行くしかないだろうと、行隆は放課後になるや否や空き教室へ向かったのだ。あれだけイベントが盛り上がったのだから、きっと鈴葉ファンで賑わっていることだろう。なんて意気揚々と空き教室の扉を開けたのだが。
「あれ、誰もいない……」
場所を間違えただろうかと思ってしまう程、中は静まり返っていた。行隆は藍色の髪を掻きながらも、恐る恐る教室の中へ入っていく。使われていない机と椅子が端っこに三セットずつと、教壇が置かれているだけの教室。妙に広く感じるのと同時に、使われていないにしてはホコリ一つなく綺麗な感じがした。
「あ……っ!」
とまぁ、教室の感想はともかく。行隆の視線は、すぐに壁へと集中した。何も飾られていないように見えた壁に、一つだけ四角い物体が見える。間違いなく、鈴葉のサイン色紙だ。行隆は早足でサイン色紙の前へと向かう。
「こ、これが鈴葉さんのサイン色紙かぁ。……よし」
銀縁眼鏡のブリッジを押さえてから、行隆は鈴葉のサイン色紙を凝視する。「また戻ってくるよ! 道ヶ丘高、最高!」というメッセージが添えられた、この世に一つしかないサイン色紙。行隆はすぐに鞄から携帯電話を取り出し、写真を撮った。初めて鈴葉のサインを目の当たりにして、行隆は思わず息を吐く。今まで声優雑誌の公募で何度も鈴葉のサイン色紙に応募したが、一度も当たった試しがないのだ。
(ああ、今なら誰もいないし、このサイン色紙を盗んでしまいたい……)
なんて思惑が襲いそうになる程に色紙をじっと見つめていると、ふいに空き教室の扉がノックされた。突如聞こえたコンコンという音に、行隆は大袈裟に身体を震わせてしまう。
「は、はーい」
振り向くと、勢い良く扉が開かれた。
一人の女子生徒がこちらの様子を窺うように立っている。瑠璃色の瞳をこちらに向け、小首を傾げている姿に、行隆は心底驚いてしまった。クラスメイトではないから、名前や学年は知らない。でも、知っているのだ。セミロングの浅黄色の髪。左耳を出し、赤いヘアピンで留めている。主に横顔ではあったが、つい最近見た顔であることは確かなことだった。
「あれ、一人だけ?」
彼女は行隆に対して訊ねながら、扉を閉めてこちらに近付いてきた。「ただの空き教室に見えるけど……」などと呟きながら歩みを進め、やがて行隆の目の前で立ち止まる。そして、行隆から視線を逸らした。
「あった、鈴葉さんのサイン色紙! 本当にあったぁ」
彼女の瞳が一気に輝きを増す。心から嬉しそうに綻ぶ彼女を見て、行隆は思った。あの時の笑顔に似ている。無我夢中でペンライトを振っていたあの時の笑顔に、と。
「……ということは、あなたもミニライブに来てたんだ!」
再び行隆をまっすぐ見つめながら、彼女は微笑む。初めて話すはずなのにぐいぐいくる彼女の視線に、行隆は一瞬唖然としてしまった。しかしなんとかして返事をしようと、
「あ……は、はい……」
と震え声を発する行隆。
すると、彼女は何故か腕を組み、顔をしかめ出した。
「ん……、あれ。あなた、どこかで……。いや、絶対見覚えあるよ! ちょっと待ってね、うーん……クラスメイトじゃなくて。…………はっ、そうだ、隣にいた人だ! あなた、鈴葉さんのミニライブの時に隣の席だった人でしょ!」
思い出して満足したように、ふふん、と笑顔を見せつけてくる。
やはりと言うか、なんと言うか。行隆の思い違いでも何でもなく、彼女は隣の席の女子生徒だったようだ。まぁ、行隆から「もしかして、隣の席だった……?」と訊ねる勇気はなかったため、彼女から言ってくれたのは僥倖だったのだが。
「ああ、やっぱり。……ぼ、僕も、隣の人なんじゃないかなって思ってたんですよ。あはは」
同性ならともかく、異性でアニメ関係の話ができる人など一人もいない。だから、正直言って女性と鈴葉の話ができるのは嬉しかった。若干鼓動が早くなるのを感じながらも、行隆は頑張って言葉を返す。
「まさか会えるとは思ってなかったよ! あたし、一年A組の
「あ、僕は一年C組の弁野行隆です」
「行隆くんね、よろしく」
いきなり下の名前で呼ばれたことに驚いていると、更には手を差し伸べられ今度は固まってしまう。「い、色々と積極的すぎる……!」と、心の中で悲鳴を上げる程だ。
「ん。握手」
「……あ、あぁ。はい」
促されるままに詠子の手を握る。
詠子の手は温かく、意外と力強く握られた。
「あたし、行隆くんには感謝してるんだ。だから会えて嬉しいんだよ」
「え、ええ? なんでですか?」
「というか、敬語じゃなくて大丈夫だよ。同学年なんだしさ」
「あ……う、うん。そう、だね」
苦笑しながら、ぎこちなく敬語をやめる行隆。初対面の人やクラスメイトの女子には意識せずとも敬語になってしまうため、なんだか慣れない。
「それで、感謝してるっていうのは?」
「うん。あたし、この間のミニライブが初めての鈴葉さんライブだったの。並んで整理券ゲットして、ペンライトも用意して、準備万全。でも、ペンライトの振り方とかコールとか色々不安で、ミニライブが始まるギリギリまで「ペンライトの振り方」って検索して、確認してたくらいなんだ」
言いながら、照れ笑いを浮かべる詠子。
詠子の言葉を聞いて、行隆はあの日のことを思い出す。ミニライブが始まる直前まで、詠子は携帯電話をじっと見つめていた。そんな詠子を見て、「鈴葉さんのファンじゃないのか」と思ったことはよく覚えている。でも、そうじゃなかったのだ。
「で、始まったら鈴葉さんが目の前にいて……あたし、頭真っ白になっちゃって。気付いたら隣の行隆くんの動きを真似してた。おかげさまで、心置きなく楽しめたよ」
最初から、詠子はミニライブを楽しみにしていたのだ。とんだ勘違いに、笑顔の詠子とは裏腹に眉根を寄せてしまう。
「そ、そうだったんだ……」
「うん。いやぁ、ライブってあんなに楽しいんだね。終わってからもずっとそわそわしちゃってたよ。今日も、先生からここにサイン色紙があるって話を聞いて、授業終わってすぐ来ちゃった。行隆くんもだよね?」
訊ねられ、行隆は無言で頷く。
ずっと楽しそうにニコニコしている詠子とは違い、上手く笑えない行隆。人は見かけで判断してはいけない。……はずなのに、あの日の行隆は「興味もないくせに」などという視線を詠子に向けていた。申し訳なくて、なかなか言葉が出てこない。
二人してしばらくサイン色紙を見つめていると、やがて詠子が口を開いた。
「あたしね。実はアニメが好きになったの、つい最近なんだ。夏休みの暇な時に、兄が録画してた『マジプリ』を勝手に観たのがきっかけなんだ」
マジプリとは、『魔法少女マジックプリンセス』のことだ。鈴葉が主役のメアリーを演じ、鈴葉のデビュー曲が主題歌になっている。深夜帯に放送されたアニメで、キャラクターの細かい心情描写が評価され人気となった作品だ。
行隆ももちろん大好きな作品であり、初めてBDを全巻購入した作品でもある。
「へぇ、マジプリ!」
思わず、嬉しくなって声のトーンが上がってしまう。
やはり女性と趣味の話をするのは慣れないものがあるが、自然とテンションが上がってしまうものだった。
「魔法少女ものなら小さい頃に観たことがあるし、すんなり観れるんじゃないかと思って見始めたの。そしたらすっかりハマっちゃってさ。曲も格好良い! って思って鈴葉さんのことを調べたら、色んなアニソン歌手や声優さんが気になり出しちゃって……」
「なるほど……ちなみに、一番好きな声優は?」
「それはもちろん鈴葉さんだよ。アーティストとしてもね。行隆くんも?」
「うん、もちろん。ファンクラブの会員だしね」
言いながら、行隆は自慢するように携帯電話を取り出す。葉っぱで彩られた緑色のポニーのキャラクター、「ハッパニー」のストラップ。ファンクラブ会員しか買えないオリジナルグッズだ。詠子は「おぉ」と呟きながら、ストラップをガン見する。
「ハッパニーだ、良いなぁ。あたしもスズハウスに入居しようかな……」
スズハウス、とは鈴葉のファンクラブの名前だ。会員のことを「入居者」と言い、行隆もスズハウスができた頃からの入居者である。
詠子の口から「ハッパニー」や「スズハウス」といったワードが出てくるのが嬉しくて、気付けば緊張は薄れつつあった。ほぼ初対面なのに、不思議なものだ。
「あーあ。本当に、この間のライブは凄かったな。……あたしも、いつかああなりたい」
だから、ふいに呟かれた言葉に行隆は驚いてしまった。
「夢咲さん、アニソン歌手になりたいの?」
無意識のうちに、そう訊ねてしまう。
行隆はアニソンが好きだ。でも、夢は小学生の頃から小説家だと決めている。いつかアニメ化するような作品が書きたいと思っているし、今でも気持ちは薄れていない。
でも、アニソンが大好きな自分もいる。歌は上手くないし、だいたい自分には別の夢があるし、アニソン歌手なんて縁遠い存在だと思っていた。
――でも、自分の近くにアニソン歌手になりたい人がいたら。
「うん、なりたい。アニメを知って、アニソンを知って、アニソン歌手っていう夢を見つけたの。鈴葉さんのライブを見て、ますますその気持ちが高まった」
――その人を応援したい、という気持ちが生まれてしまう。
いや、もうすでに生まれてしまったのかも知れない。行隆の周りにアニソン歌手を目指している人はいなくて、それを気にしたことは今までなかった。自分にとってアニソンは、いつまでもファン目線でいられれば良いと思っていた。
でも、興味を持ってしまったのだ。知っている人が、アニソン歌手を目指しているというのが。凄く、気になって仕方がない。
「って、ごめんね。友達でもないのにいきなりそんなこと言っちゃって。鈴葉さんの話ができたのが嬉しくて、思わず……」
「いや、そんなことないよ!」
頭を掻きながら俯く詠子の言葉をさえぎるように、行隆は声のボリューム大きめに返事をしてしまう。もっと詳しく、話が聞きたかった。
「その話、凄く興味ある! 僕の周りにはアニソン歌手を目指してる人はいないからさ。だから、詳しく聞かせてくれるかな?」
自分はこんなにも積極的な人間だっただろうか。なんて疑問が頭は浮かんでしまう程、今の行隆は興奮していた。
「そ、そう? ……と言っても、本当にアニソン歌手目指すって決めたばかりだから、歌唱力も全然ないんだけどね」
あはは、と力なく笑う詠子。
でもそれは一瞬だった。すぐに口角を上げ、行隆の瞳を見つめる。
「でも、なる。あたし、絶対にアニソン歌手になるの。それで、いつか鈴葉さんと一緒のステージに立つ。それがあたしの夢なんだ」
アニソン歌手になること自体を夢にはしていない。夢の先を見据えて、瞳を輝かせている。行隆は、詠子の瑠璃色の瞳に吸い込まれそうになった。この人は凄い。自分にはない強い自信に、息をするのも忘れてしまう程に驚いてしまった。
「どうしたの、行隆くん。そんなにじっと見つめて」
「ああ、いや、なんでもないよ。……と、ところで夢咲さんは『アニソンスターズ選手権』って知ってる?」
「もちろん!」
話を逸らすために出した話題に、詠子は全力で食いついた。
アニソンスターズ選手権は、将来アニソンアーティストになる期待の星を探すオーディションだ。優勝者一名には、デビューが約束されている。審査員には鈴葉もいて、最終選考まで残れば一人ひとりに鈴葉からアドバイスが贈られる。
アニソンのオーディションというだけで珍しいのに、審査員に鈴葉がいるということで、前々から話題のオーディションだ。応募自体はすでに始まっているが、締め切りまではまだ余裕があるはずだ。
「応募したいんだけど、歌唱力がまだ不安でね。ギリギリまでカラオケとかで練習してから、応募しようかなって思ってるんだ」
「歌唱力が不安って言う人程、歌が上手かったり……」
「しないしない! それなら、試しに歌ってみようか?」
大袈裟に両手を振って否定してから、詠子は自然な動作で教壇の上のマイクを手に取った。小さく息を吸ってから、詠子は歌い出す。歌うのは、ミニライブの一曲目でもあった魔法少女マジックプリンセスの前期OP主題歌「ignorant」。
そのサビ部分を――詠子は、見事に歌い上げていた。
「……へ?」
あまりの出来事に、行隆は口をポカンと開けてしまう。
力強いだけでなく、歌詞に合わせて感情が乗ったビブラート。アカペラだし、サビの部分だけだというのに、一気に詠子の歌声を感じてしまった。
鈴葉に負けていない。と言ったら、言いすぎだろうか? でも、行隆は思ってしまった。今すぐにでも、アニソン歌手になれる歌声だと。
「凄い……凄いよ夢咲さん! 今すぐオーディションに応募すべきだと思う!」
じわじわと、行隆の心に興奮が現れる。
「冗談抜きで、優勝できると思うから!」
初めから才能に恵まれているなんて、行隆にとっては羨ましくて仕方のないことだ。でも、妬む気持ちよりも感動する気持ちの方が上回っていた。詠子は、もっと自信を持っていいと思う。でも、サビを歌い終えた詠子は俯いたまま動こうとしない。
歌う前はあんなにも自信に溢れていたのに、どうしたというのだろう。
「……夢咲さん?」
不思議に思い、行隆は落ち着いて話しかける。
すると、詠子はようやく顔を上げた。
「ち、違うの。……違うんだよ、行隆くん」
「違うって、何が……」
震えた声を出す詠子に、行隆の頭はますます疑問でいっぱいになる。歌う前と歌ったあとでは詠子のテンションがあまりに違いすぎて、行隆はただただ首を捻ってしまう。
「あたしの歌声じゃない」
やがて詠子は、右手に握られたマイクを見つめながら呟いた。
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