【1巻/第三話】信仰と友愛のRe-Ration その4


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 猫の襲撃を退けた一行は、食料採集という本来の目的を続行した。細道を進み、明るい樹海が切れると、突如現れるのは鉄骨のはいきよである。壁もガラスも砕け去り、あかびの骨格につたうつそうと生い茂っている。人類文明の自然に対する敗北が、その全身によって体現されていた。

「……てっきり森を彷徨さまようだけかと思っていましたが、ここはすごい場所ですね」

 鉄骨にカーテンのようにして垂れさがるつたをくぐりながら、ルアンが感心の声を上げると、すかさずリコが胸を張る。

「オレが見つけたんだぞ。ここは戦後すぐに建てられた化学工場なんだぜ。たぶん、ウカとオレしか知らない」

「へぇ……しかし、工場のはいきよに何の用が?」

「そりゃ、食い物探しに決まってるだろうが。ルアンはウカと一緒にキノコを探しに行って来いよ。オレは面白いもん持ってくるからさ」

 そう言うと、リコはふらりとはいきよの影に姿を消した。内部はかろうじて壁が残っており、日差しの届かない廊下は夜闇のように暗い。突然二人きりにされたウカとルアンの間には、妙な沈黙が流れる。

「……付いてきてください。こっちです」

「はい」

 はいきよを進むと、二人は再び陽光に満ちた空間へと出た。遮るもののない四方が五十メートルほどの大部屋である。天井は今やガラスが割れて骨組みだけとなり、黒いひしがたの描線をなす影が、床一面に降りかかっている。そして、ルアンの目に飛び込んできたのは、その床から伸びた、一面の醜悪な褐色の塊。

「……これは……?」

「さすがに《びやく》の教練プログラムでも、教わりませんでしたか?」

「ええ、まあ……これは……、なんですか」

「アミガサタケの一種です。ただし、食べれば数時間で死に至ります」

「……」

 道端に置いておけば、干した内臓か、あるいは腐った脳だと見間違うに違いない。しかし、ウカは白く美しい指先で次々とそのキノコを摘み取り、籠から取り出した大鍋に放り込んでいく。ルアンはぼうぜんと、その様子を眺めるばかり。

「……《びやく》と《シード》の幹部を毒殺するわけではないですよね」

「当たり前ですっ! ただ、猛毒なのは事実ですよ。だからここで毒抜きをするんです」

「そう簡単にできるものなんですか」

「このキノコの有毒成分はギロミトリン、加水分解をすれば、モノメチルヒドラジンになります。モノメチルヒドラジンはしやふつすれば気化しますからね。元々、このキノコの先祖は自然界に存在したものなんです。大戦前はフィンランドと呼ばれる国などで食されていました」

「……お詳しいですね。さすが、ウカさんが食の博物館と称されるのも納得です。……いったい、その若さでどうやって知識を得たのか……」

「わたしは単に、調べることが好きなだけですよ」

 含みのあるルアンのまなしに、ウカはすかさず天使の笑顔を返す。ふっと息を吐きだしたルアンは肩をすくめた。

「すみません、ぶしつけな質問でした。──それで、そんな毒キノコがどうしてこの工場に? ……まさか、あの猫たちの餌場とか……」

「まあ、彼らは毒物を体内生産することはできないので、食べていることは間違いないと思います。とはいえ、この工場はむしろ、毒抜きで生じるモノメチルヒドラジンの生産に利用していたんじゃないかな、と。PACがあれば植物も無限に再生しますよね。大がかりな装置を用意せずとも、化学物質の生成は植物に任せればいいんです」

 大鍋の八分が埋まるほどのキノコを集めると、ウカはそれをかべぎわに運んだ。壁にからみついていた太いつたをナイフで切り落とすと、中に入っていた水がほとばしり、鍋に注がれる。キノコがひたひたになるほど水を入れたら、携帯式ガスコンロでしたでの開始。

 すると、ルアンがハンカチを取り出し、ウカに差し出す。

「マスクをされた方がよろしいのでは? 気休めですが、ないよりはマシでしょう」

「あ……ええ、そうですね。忘れてました。ありがとうございます」

 ウカは大人しくそれを受け取ると、三角に畳んで口元を覆う。二人はそれから言葉を交わさずに、しばし大鍋を見つめた。やがて、湧き上がる熱湯のかすかな気泡の音が、二人の耳にんでいく。

 するとある時、ふと思い出したように、「そうか」とルアンがつぶやきを漏らした。

「大量のヒドラジン生産ということは……ここは《箱舟時代》の工場なんですね」

「はい、ヒドラジンはロケットの推進剤ですから。地球を捨てて、人々が衛星軌道に逃げ込んだ時代、こういう工場がいくつも作られました」

「……それなら僕も聞いたことがあります。権力者ばかりがロケットを打ち上げ、地上に残された者がPACで暴走した自然と戦い続ける……」

「《びやく》の母体になったDFOにとっては、最も大変だった時代でしょうね」

「……今の《びやく》にとっては、歴史の話でしかありませんよ。結局この工場のように、ほとんどが自然にまれたわけですし」

 ルアンは鍋から視線を外し、打ちこわれた内壁やつたに覆われた柱をじっと見つめた。再び水泡のはじける音が静寂を招き寄せるが、今度はウカの方から沈黙を破る。

「あの……なぜルアンさんは《びやく》に?」

「随分と単刀直入ですね」

「この際、きちんと知りたいなと思いまして。やっぱり気になるんです。ルアンさんがどういう気持ちでを守っているのか」

「戦闘機械が、なぜせつしようの《びやく》に所属しているか、と?」

「いえ、そうじゃなくて……なぜルアンさんが、《びやく》のためにせつしようを行うのか、です」

「……」

「……ぶしつけ、でしたか?」

「あ、いや……ちょっと驚いただけですよ。ウカさんは僕なんかに関心はないだろうと思っていたので。目に入っているのはリコさんだけかと」

「……そ、そんなことないですよ」

「あはは、すみません。でも、何か僕について、彼女から聞いたんですか」

「それは……はい……ルアンさんは《びやく》の武力行使を担当している、と」

「それで……どうお感じになりましたか?」

「率直に言えば……なんだか矛盾してるな、って。食事やせつしように関する戒律が存在するのに、一部の信徒に汚れ仕事を押し付けるなんて、その破綻に疑問を抱くことはないんですか?」

「軍部出身の人間のほとんどは、矛盾なんて感じていないと思いますよ。《白兵》にとっては戒律なんて形だけのものです。隠れたところで肉や魚を食べる者はいくらでもいる。《びやく》の上層部もそれを黙認しているんですから、そこにあるのは単なる利害の一致です」

「でも、あなたは」

「戒律を守り、せつしようを嫌い、なのにこのライフルで敵の命を奪っている」

 ルアンは脇に立てかけていた銃を手に取り、その輪郭を確かめるように指を滑らせた。

「……僕個人の考えを言えば、救いなんてそれほど期待していないんです。《びやく》の戒律を守るのは……まあ……義理のようなものですよ」

「……義理?」

「かつて僕はガラクタの山でティアナン導師に拾われました。腐りかけの培養槽の中で死を待つばかりだった脳みそを拾っていただいたんです。それから、僕は新たな肉体を与えられ、名前を与えられ、職を与えられました。今も生きていられるのは、あの方のおかげです。戒律を守ろうとするのは、彼への恩返しのようなものですよ。そして……命令に従い、戒律を破るのもまた、恩返しのようなものです」

「……」

「ウカさんはこう言いたいのでしょう。それは恩義を利用されているだけではないのか、と」

「……だって、現にその方のために、ルアンさんは苦しんでいますよね?」

「……どうでしょう」

「あの死にかけの猫にとどめをさした時、わたしにはルアンさんが本当に悔やんでいるように見えたんです。……あなたは本当に戒律を守ろうとしている。せつしようだって、本気で嫌なんだと思います。だというのに、なぜ……」

 せつしようを貫くのなら、むしろ《びやく》から離れ、自分の望むように生きればよい。恩義を理由に矛盾を押し付けられると分かっているのなら、なぜ《びやく》に留まる必要があるのか。

 しかし、ルアンは落ち着いた微笑ほほえみを浮かべ、かぶりを振った。

「そもそもせつしようを禁じる戒律なんて、そんなものです。矛盾の塊ですよ。たとえば、水だけを口にする信徒は、その中の微生物を殺してはいないのか。食べてもいいとされる植物の命は、微生物を殺したり、生き物の死骸によって生み出されたりしたものではないのか。この世をつないでいる、殺し、殺される関係はまさに目に見えないほどたくさん存在します。だから人を殺すかどうかなんて問題よりもずっと根本的なところで、この戒律は矛盾を抱えている。……しかし、のです。少なくとも僕にとって、そのように生きる方が心地よいから、その姿勢が師への報恩だと思うから、選んでいるんです。……まあ、もちろん、時に別の生き方に憧れることはあって……誰かさんを前にすると、それが隠しきれていないのかもしれませんがね」

 不意にじようぜつになった口をつぐみ、ルアンは気恥ずかしげに肩をすくめた。その表情を見た瞬間、ウカはあつられてしまう。なぜなら、その意味を──機械けの裏に隠された、実に素朴なせんぼうを、ウカは少なからず理解できてしまったからである。彼がリコに向けるまなしの意味を、ウカは理解できてしまったからである。

 つまり、ルアンという男は自分と似ているのではないか。リコの自由な在り方にかれてしまう、同じ穴のむじなではないか。その否定しがたい結論が、ウカの頭に焼き付いてしまう。

 ウカはルアンには聞き取れぬほどのいきを漏らし、それから立ち上がる。

「……ルアンさん、ちょっと手伝っていただけますか」

「ええ、もちろん」

 ウカは大鍋を手にすると、でキノコをルアンが支えるざるにあげた。それから、日の当たるところで水気を蒸発させていると、大部屋の影からひょこりとリコが現れる。彼女は何かを背中に隠したまま近づいてきたかと思うと、子供じみた大仰な動きでルアンの鼻先に大量の草を差し出した。

「どうだ!」

「……」

「……」

「……」

「……」

「雑草ですか」

「ちがーーーーーーう!」

「名前を言ってもらわないと分かりませんよ」

「香水薄荷だよっ! 確か……うん、そう、香水薄荷!」

「はあ」

「ははーん、お前、どうせ知らないんだろー! これはな、檸檬れもんの香りがする草なんだ。こういうハーブは貴重で、ウカはすごく喜ぶんだぞ。なっ、ウカ!」

 むふぅ、と得意げに鼻を鳴らすリコだが、ルアンの反応は実に薄い。口を覆っていた布を外し、草を一枚摘まんで口に放り込むと、「なるほど」とつぶやくだけ。ウカに至っては、どこかあきれた様子で眉をひそめた。

「それは自家菜園にあるんだから、わざわざとる必要なんてないのに」

「え……」

「そんなに、ルアンさんにいところを見せたかったの?」

「なっ、オレはただ、採集の腕前を」

「あー、しかも結構硬そうな葉っぱばかり。香水薄荷は若葉がいいって言ってるでしょ?」

「え、でも……うぅ……」

 二人からの冷めた視線を受けて、リコが見る間にしおれていく。相変わらず派手な蛍光ピンクのしゆうが、彼女の消沈ぶりと対照をなしており、SUGOI☆KAWAISOUである。その上、突如腹の虫が悲鳴を上げ始め、とうとうリコはその場にうずくまってしまった。

「……腹減った……」

「もー……じゃあ、ご飯にしよっか。キノコも後は乾かすだけだし」

「うん……」

 ウカは三角巾を外し、地面に広げるとその上に籠に入れておいたパンやチーズ、ハムなどを並べる。簡単なサンドイッチを作ろうと用意をしてきたのだが、ふと目に付いたのはルアンの姿。彼はバッグから、缶詰一つと棒状の袋を三本取り出す。ナスのオイル漬けの缶詰、そして大豆粉末と植物油で作られたオーガニック「オイル・バー」である。それはまさに、リコが話していた、《びやく》のご飯ではないか。

「……それ、野戦食糧レーシヨンですよね」

「ええ。《びやく》の人間が作っているものなので、戒律的にも問題ないものですよ。一口、食べてみますか」

「え、いいんですか?」

 ルアンの善意にあやかって、ウカはナスのオイル漬けをぱくり。……白ワインビネガーで味付けされてはいるものの、やたらと塩がとがっていて、しょっぱさだけが舌に残る。その上、缶詰臭さをごまかすために、にんにくの──いや、戒律的にそれはあり得ないから、の香りが前に出過ぎていた。オイル・バーの味は言わずもがな。圧縮された大豆の粉、つまりは味のついていないきなこを食べている気分である。口の中の水分が数秒でかつした。

「……う、うーん……なんというか……」

「はっきり不味まずいと言っていただいても構いませんよ。そこでうずくまっている彼女は、かつて、それを口に入れた途端、『こんなもん食えるか!』と絶叫しましたからね」

 ウカがちらりと目を向けると、渋面のリコが口をとがらせた。

「はっきりと言えばいいんだ。不味まずいもんは不味まずい! オレは間違ってないぞ!」

「それはそうですが、あの時はあなたの正直な感想のおかげで《びやく》と《シード》の合同チームに亀裂が生まれかけましたからね」

「……うぐぐ」

 一瞬でやりこめられるリコの哀れさに苦笑しつつも、ウカはルアンに一つ質問をする。

「ところで……ルアンさんは、どうして食事を? 機工体なら栄養補給は……」

「ええ。動力源は電力です。ある意味、食事に関しては誰よりもせつしようを守れますよ。こうやって食べるのは、ただをするためです」

 するとリコがぼそりとつぶやいた。

「……だから言ったじゃん。食い物に興味ないんだって」

 しかし、ウカはなおも尋ねる。

「でも、ルアンさんにも味覚はあるんですよね? 野戦食糧レーシヨン不味まずいと分かっているのなら」

「ええ、まあ……」

「じゃあ、美味おいしいご飯を食べましょうよ」

「……はい?」

「人間のフリなんかのためじゃなくて、食事を純粋に楽しみましょうよ」

「しかし、必要もないのに、なぜ──」

「必要がないからこそ、楽しめるんですよ。機械の身体からだだからこそ、栄養とか、アレルギーとか、一切関係なしに食事を楽しむことができるんです。それを利用しないなんて、もったいないと思いませんか? もちろん、せつしようを守るのは自由です。でも、戒律のはんちゆうであるならば、ルアンさんにだって食事を楽しむ権利はある。むしろ楽しむべきだと思います」

「……」

「わたしに、作らせてもらえませんか」

「作るって……今ですか」

「はい。その野戦食糧レーシヨンを使って。たとえ機械の身体からだでも、食べるのが楽しいって思ってほしいんです」

 そう語るウカの表情に、それまでの取り繕った気配は消え去っていた。彼女のどこまでも真剣なまなしは《らんどう》のちゆうぼうに立つきよう、あるいはそれ以上の何かを秘めている。そして、うずくまっていたリコが再びぼそりとつぶやいた。

「……ウカの料理は何でも美味おいしいんだからな」

 そんな二人の様子を見て、ようやくルアンも腹を決める。彼はしっかりとうなずいた。

「会食を作っていただくわけですから、その技量を確かめるのも僕の仕事ですね」

 材料は缶詰とオイル・バーと道中に取れた野草だけ。調味料は一切なし。

 しかし、それでこそ調理人の腕が鳴る。

 《らんどう》ウカの出張キッチン、その始まりである。

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