【1巻/第一話】鋼の蜘蛛と《伽藍堂》 その1
1
《
ウカは寝間着を脱ぐと、すぐさま正装で身を包んだ。調理人の正装とは言わずもがな、はるか昔の二十世紀から受け継がれたメイド服である。ロングスカートのワンピースにフリルは控えめのクラシカルスタイル。
身支度を整えたら、さっそく
「うふふ……さあ、どうかなあ?」
いつも返ってくるのは全てをうやむやにする微笑だけ。それゆえ客はますます盛り上がる。
ウカは寸胴鍋にたっぷりの水を
ウカはノックもせずにリコの部屋を開けた。ベッドの隅に、冬眠中の獣のごとく手足を縮めた毛むくじゃらが一匹。ぶかぶかのTシャツに下着一枚という
「リコちゃん、朝ご飯できたけど」
「……」
「そんな
「……眠い。まだ朝じゃない……」
「あ、さ、で、す。今日は買い出しに行くんだから、早起きするって言ったよねー?」
ウカがカーテンを開け放つと、陽光がたちまち部屋を白く染め上げた。リコはその明るみから逃れるようにして、ますますベッドの隅で小さくなる。
「いいから早く起きて」
「……あと五分……」
「まったくもー……」
ウカは大きな溜め息を吐き出すと、机の上の霧吹きを手に取った。窓際に置かれた小さなウバタマサボテンに水を吹きかけてやると、見る見るうちに産毛が震える。部屋の主と違い、なんとも素直な生き物である。霧吹きの照準はそのままベッドへと向かい、シュッシュッと無情な霧がぼさぼさ頭に降りかかった。
「つめたっ!」
シュッシュッ。シュッシュッ。
「やっ、やめろっ! くさっ! 顔にかけるな!」
シュッシュッ。シュッシュッ。
「あー! わかったよ! 起きるよ!」
顔に水滴ができるほどになって、ようやくリコが身体を起こす。サボテンそっくりに毛を逆立てて怒っていた。
「ほんと、何考えてんだよ! オレのベッドが水浸しになるじゃん! 起こし方にも限度があるだろっ!」
しかしウカはどこ吹く風。
「だって今日、お洗濯するつもりだったし、別にいいかなって。それにリコちゃん、寝癖がひどいから。──ほら、どいて?」
ウカはリコをベッドの上から追い出すと、ベッドシーツを引きはがした。床に蹴り飛ばされていた
「……朝ご飯は何」
「フキ
「……わかった」
もはや同居人というより保護者である。リコもリコで、文句は言いながらもウカの言いつけには大人しく従う。洗面所で顔を洗うと食堂に向かい、
客のいない食堂はがらんとしているが、思いのほか清潔だった。椅子は全て机に上げられ、床には食べかす一つも見当たらない。というのも店じまいの折、客が勝手に
大きなあくびを放つリコの前に、ウカは湯気の立つ
「あ、それ、すっごく熱いよ。
「そういうことは早く言えよなっ!」
「まだ目が覚めてない誰かさんには、丁度いいかなって」
「……」
ウカは不満顔のリコを見てくすくすと肩を揺らす。彼女はゆるく温めた作り置きの
「……いただきます」
「めしあがれ」
リコは茶漬けをさっくりとかきまぜ、今度は念のために少し冷まして、一口。
「春っぽいな」
そう
「ほんと、リコちゃんの顔って分かりやすいよねー」
「……何が?」
「何がって、全部」
「オレは正直者なだけだから。ウカとは違うんだよ」
「それ、どういう意味ー?」
「客の前だけニコニコして、本当は同居人に水をぶっかける悪魔じゃん」
「かけてないでしょー! 湿らせただけだもん!」
「同じだよ! この前だって顔にキュウリ張り付けてきたし!」
「あれはお肌に
「そういうのは自分の顔でやってくれ!」
「わたしはそういうの、必要ないもん!」
つんと唇を
「そもそも、毎日起こしてもらってるリコちゃんが悪いんだよ」
「オレは起こしてくれなんて頼んでない」
「ふーん、じゃあ、いいんだ」
「何が」
「朝ご飯、別々に食べてもいいのか、ってこと。
「……う、ぐぅ……」
リコの表情がぐらりと揺らぐ。するととどめとばかりに、ウカはリコに手を差し出した。
「お茶漬け、おかわりほしいんでしょ?」
「……はい」
うまいものはうまい。朝起きるのは面倒でも、確かにこの朝食なしにリコの朝は始まらなかった。それは万事用意をしてくれるウカあってこそである。アツアツのおかわりをかきこみながら、リコは
一方、朝の小さな勝利を収めたウカは一枚の紙に目を落とす。そこに記されていたのは、いわゆる「おつかいメモ」。毎日大量の食材が消費される《
「……お肉もないし、調味料も切れてるんだよねー」
ぽつりとウカが
「たしか、
「え? どうして?」
「どうしてって……昨日、貯蔵庫見たら空になってたし」
「そんな! 三日前に仕入れたばかりなのにー!」
「最近、春の陽気でのどが渇くからなあ」
「誰かさんは年がら年中飲んでると思うんですけど!」
「まあ、おいしいんだから仕方ないって。お子様のウカにはこの気持ち、分からないよなあ」
「子供じゃないよっ! ……わたしだっておいしいのは知ってるもん。酔わないから、飲まないだけで」
「ふーん」
「なあにー!
「そうかー? 肉とか野菜の仕入れの方がよっぽど金がかかるじゃん」
なぜなら、時は24世紀。
二度の大戦と数え切れぬパンデミックによって荒廃した末法の世である。
栄養粉末と合成油が人々の胃袋を満たす昨今、料理とはすなわち享楽。酔狂な人間の
「ごちそうさん! おいしかったー!」
行くべき店をウカが思案する合間に、リコは
「……買い出し、荷物持ちはリコちゃんの仕事だからね」
「はー? なんでだよ! この前だってオレが持っただろー!」
「だってわたし、子供だから重たい荷物を持てないもん」
「……まだ怒ってんのかよ……子供じゃないって自分で言ったじゃん……」
「都合のいいこと言わないのっ!」
「それはこっちのセリフだっ!」
食堂にリコの抗議が響き渡る。しかし、ぷくりと膨れたウカの頰には、なすすべもない。
「もう朝ご飯、用意してあげないよ」
「……なっ……」
「……」
「……分かったよ! 持てばいいんだろ! 持てば!」
つまるところ、《
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