フラれちゃった

 午後三時じゃないのに、恵子さんはそこにいた。部屋に入ってきた私にびっくりした様子で顔を向けて、彼女は席を立ちあがる。

「嫌な予感がして来てみたけど、どうしたの?」

「恵子さぁんっ!」

 泣きじゃくりながら私は恵子さんに抱きついていた。彼女は驚いた様子で私を抱き返して、背中を優しく叩いてくれる。

「何があったの? こんなに泣いてっ!」

「その、係長が、係長が、土下座しながら結婚しろって」

「何ですってっ!!」

「いや、自分の息子と結婚してくれって……無茶苦茶なことを言うんです」

 恵子さんが声を荒げる。私はびっくりして、彼女に理由を説明していた。

「まあ、あの人ったら会社でそんなことっ? なんてこと」

「でも私、係長の息子さんと会ったことすらないし、急に結婚しろとか言われても……」

 私だって、フラれたばかりなのにあんまりだ。

 昨日、彼をデートに誘ったことを今でも後悔している。彼はなにやら素っ頓狂な声をあげたあと、私に言ったのだ。

 そんなの、困りますって……。

 迷惑なことだとはわかっていたけれど、まさかそこまではっきりと拒絶されるとは思わなかった。

「好きな人と何かあったのね」

 背中を優しく叩きながら、恵子さんが顔を覗き込んでくる。彼女の微笑みを見て、私は思わず口を開いていた。

「私、フラれちゃったんです。彼に嫌われちゃったかも……。それとも、好きな人がいるのかな……?」

「それは、本人に聞いてみないと分からないわね」

 ぎゅっと恵子さんが私を抱き寄せてくれる。優しいアールグレイの香りが彼女からして、私は眼を細めていた。そういえば、彼からもちょっとだけ紅茶の香りがしたような気がする。

「でも、もう会えません……」

 デートを断られただけでこんなに落ち込んでしまうんだ。彼の口から好きな人のことなんて訊けるわけがない。彼の顔を、見られるはずがない。

「そう、じゃあ。私とデートしましょうか?」

 笑みを深め、恵子さんが私に話しかけてくる。

「そこね、セラドン焼きの素敵なティーカップで紅茶が飲めるお店なの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る