恵子さんの正体


 仕事が終わったら、お店にいらっしゃい。そう言われてやってきた場所は、私のいきつけのカフェだった。係長に嫌味を言われるたびに、ここで毎日カフェの奥さんに愚痴を漏らしていたのだ。

 どことなく奥さんの雰囲気が恵子さんに似ているせいもあるかもしれない。彼女に話をするだけで、まるで恵子さんがその場にいるかのような気がして、とっても落ち着いた気分になる。それに、彼女の容貌はとても恵子さんにそっくりなのだ。

 彼女は恵子さんじゃないだろうか。そう思ったことは何度かあるが、真相は訊けずじまい。その疑問も今日で終わるみたいだ。

 こじゃれたステンドグラス張りのドアを開けると、軽やかなドアベルの音が鳴る。その向こう側に、カウンターテーブルがあって。そこに一人の男性が座っていた。

 きらりと私を映しこむ彼の眼鏡が光る。彼は気まずそうに私から顔を逸らして、カウンターテーブルに置かれたセラドン陶器のティーカップをじっと見つめていた。ティーカップにはオレンジの水色が美しい紅茶が注がれている。

 たぶん彼の好きなアールグレイだ。私が一緒に飲もうと誘って、彼が断わった紅茶。そして、彼のお母さんが好きな紅茶。

「いらしゃい。アールグレイでいい?」

 カウンターの向こう側から恵子さんの声がする。正確に言うと恵子さんだった人かもしれない。どうして彼女が恵子さんとして私の眼の前に現れたのか知らないけれど。

「はい、お願いします」

 弾んだ声を彼女にかけ、私はカウンター席へと向かっていく。一瞬、彼がおびえた様子で肩を震わせたけれど、私は彼の隣に座っていた。

「息子から話は聴いたわ。恥ずかしくて、ついついあなたの誘いを断っちゃたんだって」

 そっと彼女は私の前にアールグレイの入ったティーカップを置く。翠色の美しいそのティーカップを見つめながら、私は尋ねていた。

「じゃあ、なんで断ったり……」

「そこは、察してあげてよ」

 くすりと恵子さんである彼女が苦笑する。隣に座る彼を見ると、彼はじっと俯いたまま何も言おうとしない。それでも、彼の顔が真っ赤に染まっているのは何とも印象的だった。

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