気になるあの人

 今日は係長から残業を押しつけられることもなく、彼のいる書店へと足を運ぶことができた。買いもしない雑誌をずっと見つめながら、私は彼がいないかそっと店内を見回してみる。ふと、紅茶の特集が組まれた雑誌が目に留まり、私は恵子さんのことを思い出していた。

 恵子さんが何者か。

 そんなの私にはわからない。係長のパワハラを受けてストレスが溜まっていた私の前に、彼女は突如として現れたのだ。

 それは、休憩室で私が手帳に書いた係長の悪いところベスト100をストレス解消に朗読しているときだった。まぁ、面白い冗談を言う人ねって恵子さんは突如として私の前に現れて愚痴を聞いてくれるようになった。

 私の勤める会社はしょせん零細企業。俗にいう就職氷河期の人たちはほぼ採用されておらず、社員のほとんどを占めるのが団塊世代のちょっと下か上の人たちばかりなのだ。

 会社に若手が少ないから私のように中途採用の社員を積極的に採用している。それなのに、女というだけでやれ正社員は生意気だの、さっさと結婚しろだの本当にうるさい。

 係長なんて自分の息子と結婚してほしいとか言ってくるし、本当に嫌だ。

私にだって気になる人はいる。それなのに、見知らずの男と結婚しろだなんて酷いじゃないか。

「何か、お探しですか?」

 私に話しかけてくれる人がいる。愛しいその声に私は思わず顔をあげていた。

 眼鏡をかけた大人しげな男性が、私に優しく微笑みかけてくれていた。それが営業スマイルであるとわかっていても、顔が綻んでしまう

 そう、この笑顔が見たかったんだ。彼のこの笑顔だけで、係長のパワハラだって耐えられちゃう。嫌なことがあっても、彼の笑顔で全部吹き飛ぶ。

「いえ、ここにありましたから」

 私は慌ててラックにあった紅茶の雑誌を手に取っていた。ぺらぺらと中を調べるふりをして彼を見る。

「最近、職場の先輩に紅茶をよく薦められるようになりまして、それで詳しくなろうかな……なんて……」

「へえ、奇遇ですね。うちの母も紅茶が好きなんです。変にブレンドした奴じゃなくて、ストレートのやつが。それなのにアールグレイが特にお気に入りみたいで」

 アールグレイ……。恵子さんがいつも飲ませてくれる紅茶だ。こんな偶然、あるんだろうか。

「そう、私も好きなんですアールグレイ。あの明るい水色がなんか好きで、着飾らないっていうのかな? 素直なあの味がすごく口に残るんですよね」

 ふっと、口の中に恵子さんが入れてくれた紅茶の味が蘇る。恵子さんのように上品でいてどこか優しいその味が私は好きになりつつあった。

「買ってみようかな。アールグレイ」

 ぎゅっと雑誌を胸に抱いて、私は顔を綻ばせてみせる。

「可愛い……」

「え……」

 彼がポツリと呟く。彼の顔は私の胸元にある雑誌へと注がれていた。

「いや、このカップ可愛いなって……」

 そっと彼は私の持つ雑誌の表紙に写るカップを指さす。写真のカップは翠色の色彩と、蓮の花が描かれたセラドン焼きのものだ。タイの青磁器であるセラドン焼きが私はちょっと好きだったりする。

 彼と好きなものが一緒。それが嬉しくて、私は口を開いていた。

「実は、素敵なお店を知っているんです。そこではセラドン焼きのカップで紅茶も飲めて……」

「素敵なお店じゃないですかっ」

 顔を輝かせ、彼が話を聞いてくれる。そんな彼が妙にかわいくて私は、こんなことを口走っていた。

「その一緒にいきませんか?」

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