第125話「悪魔の山越え」 フィルエリカ
街道を南下し続けてウルロン山脈に進む。
道中、アブゾルきゅんを可愛がるのは最高だった。
分からないくらいに段々と馬を走らせないように早くした。そうすると段々と彼は遅れてくる。
「遅いぞ。さてはお前、私が年増女だからって嫌気が差してきたのだろう。嫌ならとっとと別の道を行け」
「違います! すいません!」
それであいつめ、自分が悪いと思って息切らして追ってくるのだ。そして休憩する時に汗を拭いてやったら照れてやがる! それに拭いた手拭いの匂いも、ああ……最高だな!
飯はたくさん食わせてやった。口では遠慮しながらも用意したら食べる。中に一つ不味い物を混ぜてもニコニコ美味いフリして食べるのだ。いや案外、生活が貧しくて舌が馬鹿になっているのかもしれないが。
夜、寝る前に尻を四本の指先で鍵盤を一つずつ叩くように触って「坊主は一体夜をどうしているんだ?」と言ったら面白いくらい怒ったものだ。ただ聖典を暗唱しながら両手剣の素振りを倒れるまでやり始めたので一回で懲りた。これは悪戯が過ぎた。
■■■
ウルロン山脈の山道に入り、関所も自分のとアブゾルの通行手形で問題無く通過。一晩羊飼いの家に泊めて貰って、朝になって活き活きと山道を走り出したアブゾルと街道を進み、脇道に入ってしばらく渓谷へ下って行くと修道院と周辺の農地が見えてきた。そこそこな建物であるが名前が浮かばない。
「ここです。ここが私達の家アンブレン修道院です! おーい! 皆帰ったぞ!」
アブゾルが大声を上げて駆け出した。坂道で転がったが直ぐに立ち上がって走り続ける。随分なはしゃぎように思えたが、戦地帰りだったな。当然か。
声を聞いた修道士達が作業を中断し、集まって大声を上げている。小さな女の子などキャーキャー奇声を上げて抱きついている。
修道士達は男女混混交。面を見れば孤児や浮浪者、それからおそらく脱走兵。そういった連中で構成されている。神学生出の者が一体何人いるかな。
勝手に馬屋に馬を繋いで修道院の中に入る。屋内の構造を見るが男女分けとなっていない。普通は必要最低限の接触しか無いように工夫されるものだ。元は男だけか女だけの修道院か、それともそもそも違うか。
貴族、聖職者並に修道院等の重要施設、拠点になるような場所についての知識はあるがここが昔なんであったかの見当がつかない。変だな、におっている。
造りだけは年代が経って見えるのは一旦崩した建物をここに移築するような形で再建したからだろうか? それとも元々は修道院ではなかったか。
礼拝所は田舎にしては椅子もそこそこの物が揃っている。
「お客様ですか」
修道服を着た老人が現れる。
「院長さんですか? 道中でそちらのアブゾルくんと行き会いまして」
「そうですか。聖なる神のお導きですね」
「かもしれません。ここ、不思議な場所ですね」
「不思議ですか」
「アンブレン修道院と聞きました。私は詳しい心算ですがその名を知りません。本物ではない。では本物とは何だと言われれば難しいですね」
「これはこれは、見る人が見れば分かってしまうんですね。アタナクト聖法教会派に一応私だけは属しておりますが、ここは個人的に運営しているのです。会派に登録申請をすれば上納金が発生するのでとても、ここでは運営していけません」
アタナクト聖法教会派は第十六聖女、悪魔殺し、聖なる巨人、世界喰らい、砲弾取り、エデルト最強の男、ヴァルキリカ猊下肝入りの組織だ。組織運営に注力していて黒い噂があっても否定どころか肯定して聖なる使命だと主張してしまうぐらいの強硬派。
かなり鼻が反応してきている。これは当たりか?
「アンブレンとはあなたの名ですか」
「そうです。ただの修道院では流石に呼び辛いですから、まあ、アンブレンの修道院ということで。正しくはアンブレン農場ですけどね。ふふふ」
ふわっと笑う院長に小切手を渡す。笑いが止まる。百タリウスあればこの修道院でも一年働かずにやっていけるだろう。
「これは?」
「寄付です。ただし下心はあります」
「見返りは? 一宿一飯の値段ではありませんね」
院長に革手帳を見せる。ここは居心地が良さそうな吹き溜まりだ。
「尋ね人です。行方を捜しております」
「この女性に何をお求めですか?」
あぁ、知っているなこれは。聖なる神のお導きだ。
「今日起きている惨事はご存知ですね」
「ええ。聖女ヴァルキリカの聖戦軍が悪魔の傭兵を率いて瞬く間に。もうここまで来ていてもおかしくはないと聞いております。一体何が正義なのか分かりません」
「善悪はともかく、悪い意味での歴史的事件の渦中です」
「この絵の女性が関係あるのですか?」
「私も全てを知らされているわけではありません。人一人が何か出来るとも思いません。ただ想像ですが、彼女は人々の救いになる何かだとは確信しております」
「大きな話ですね」
「今も中部は酷いものですが、それ以上のものが覆い被さろうとしています。聖典にも聖人達が時代の節目に現れたとありますが、これも遠い未来にはその一つとなるのかもしれません」
「政治利用ですか?」
「政治が無ければ聖人すら現れませんし、努力も報われません。悪い意味で捉えられる事が多いので誤解があるでしょう」
「ふぅ……ええ確かに。確かに政治が無ければ、そうですね。しかし……」
「どのような形であれ生贄にはなってしまうでしょう。ですがそれでどれだけの者が助かるか。空想の話は別としてこの修道院はまず助かりますよ」
話を大きくして頭を麻痺させて大金で殴ったがどうだ。倒れるか? 逃がす気は無いがな。
「私のような一介の、聖職者ですらない一農民の理解を超えます」
院長が小切手を突き返してきた。
「私はですね、神学生でしたが卒業試験を受ける資格も得られなかったような者です。頭も良くないままに老いました。どうかそっとしておいてください」
もう一枚小切手を重ねて返す。
「小さいお子さんもたくさんいましたね。大きい方のアブゾルくんも、道中料理を振舞ったら良く食べていました。良い顔をしていましたよ」
保護者を殴り倒すにはこれだな。
「……十年は前になります。絵の子、リフカを我が修道院で保護しました。そっくり絵のままです。服も、大分汚れていましたがこのような貴族が着るような物でした」
第一の偽名はリフカと判断する。中部なら農村一つにつき十人はいるような名前だ。聖典に登場する有名な聖女の名前だから全く特徴にならない。
「家名がありそうな子でしたが詮索はしておりません。過去は分かりません」
院長が天井を見上げる。
「ここで雨風凌げるようになったのは彼女のおかげです。持ち込んでくれた宝石を売ったお金でようやくです。馬も買って畑が広がりました。素人修理だった井戸も直せました。何より聖典が買えました」
「どのような方でしたか?」
「落ち着いた子です。当時既に聖典を諳んじておりました。本が無くても皆に聞かせてくれていました。聖典を買ってから彼女の言葉を思い返しましたら一字一句間違えておりませんでしたよ。それにフラル語、ロシエ語も美しかった。エグセン語もです。北部方言、東部方言、南部方言の使い分けも出来てました。どこの出身なのか気にした事もありました」
「なるほど」
「才能ある彼女をここで埋もれさせてはいけないと思いました。アタナクト聖法教会へは伝手がありましたので聖皇領へ留学させました。聖女ヴァルキリカが才能ある者を集めておりましたし、紹介した時に謝礼という形でお金も頂きました。懐いていた子達は大分悲しんでいましたが、そのおかげで今が有ります。出稼ぎをさせてしまっていますが……昔よりは良くなりました」
聖女ヴァルキリカ関連の伝手か。そこへ下手に当たったらとんでもない暗殺者が飛んできそうだな。
「伝手のお名前、聞きたいですが」
「聖法教会の連絡窓口ですよ。そちらを当たってみては」
「分かりました。ありがとうございます」
院長への口止めは行わずに去ったような手応えだ。頭は良くてもまだ油断も隙もあった少女時代ということか? それとも意識させないため敢えてか? 当初はここで一生を終えるつもりであったか? 余人には分からないな。
凱旋したアブゾルが大騒ぎになりがらようやく建物に入ってくる。部外者は代わるように外に出て歓迎が静まるまで待つ。
顔に大きな傷がある中年の修道士が監視についてきた。余所者は胡散臭いだろう。
「前歯が磨り減っている。銃弾が頬を掠めてその右耳を吹っ飛ばした傷の後だ。元戦列歩兵か。磨り減る程前線に立ち続けたわけだ。そして余生をこの素敵な場所で過ごしている。強運の持ち主だな」
「何者だ」
「仕事をしている。辺境の孤児、敗残兵の平穏に嫌がらせをしている暇は無い」
修道士は去った。あれで番犬の心算なんだろう。健気で可愛らしい奴だ。
騒ぎが静まってからアブゾルにも尋ねる。年齢的には直接知ってそうだ。
「昔ここにいたリフカで呼ばれた女性を探しているが、覚えはあるか」
「リフカ姉ちゃんですか? 勿論です。小さい時はお世話になりました。懐かしいですね」
アブゾルは微笑んで懐かしそうにしている。
「初恋か?」
「はい」
と恥ずかしそうに言った。何でそんなに素直なんだこいつ。ズボンの中に手を突っ込んでやりたい。
修道院で一泊することにした。
■■■
翌朝の朝食後、敗残兵が街道に姿を見せて南からやってきて北に逃げている、と見回りに出ていた修道士が報せた。
ウルロン山脈南から何がしかの軍が北進中ということか? いつもの小競り合いだろうか。それともまさか、魔神代理領軍か聖戦軍か知れぬという大軍勢がもうここまで来たのか!? 素通りで走ってきたんじゃないだろうな。ここは山脈北側、下ウルロンだぞ。
避難を報せる鐘が鳴らされて外に出ていた皆が集まる。
敗残兵、脱走兵と思しき人相凶悪な修道士達が使い古されているわりには整備の具合が良い槍や銃に弩を手に建物の各所に配置に付く。
脱走兵が逃げるついでに襲ってくる可能性はある。建物に隠れて追撃をやり過ごしたいという穏健な奴、逃亡資金の略奪をしたいと前向きに考える奴から、死ぬ前に女を犯したいなどと後ろ向きで短絡的に考える奴もいるだろう。ここには女子供がいる。財産もある。建物もある。やりたい放題だ。
心得たものか、院長が一番広い部屋の礼拝所で点呼を取る。そして一人足りない。顔に火傷跡があるラフィという少女だという。一人で遊ぶことが多く、それから耳が遠いらしい。
さて客人である自分だが、ここは動かねばなるまい。理屈はまあどうでもいい。飯代でも良い。
馬を出して探しにいく。
弓使いの修道士が修道院の屋根の上から辺りを見回している。
「見当は!?」
腕を伸ばして指差し返事をした。見つけたか。
その方角へ馬を走らせる。小さな丘を一つ越え、川沿い。水車小屋の側の廃材置き場で藁を何かに見立てて遊んでいる女の子ラフィを発見。
そして川で水を飲んで一息つき、ラフィを見ながら話し合っている姿を見せる敗残兵の集団。三十、いや四十か。あの数で真っ直ぐ修道院に仕掛けて来なかったのは幸運かもしれない。
先んじて少女の方へ行く。彼女からしたら自分も恐い大人なので分かり易いくらいに怯えるし逃げる。
懐かれるのが目的じゃないから遠慮はせず、馬を走らせて馬上から掴み上げて抱きかかえる。かなり暴れる。
「ラフィ、落ち着け。家に帰るぞ」
優しく声をかけたつもりだが耳が遠いんだったか。構わず修道院へ走る。
アブゾルが迎えに走ってくるのでラフィを下ろしてやると泣き叫びながらアブゾルの方へ走る。まるで悪い事をしたみたいじゃないか。
敗残兵が修道院に向かってくる。指揮官が居て、銃兵に槍持ちの下士官もいて隊列も組んでいる。
やるか。右手で刺剣を抜き、マントの下で拳銃を抜く。修道院には修道士が武装して立て篭もるから、そこを火点にしてこちらが掻き回すか。
さて、協力はするが戦死してやるまでの義理は無いからどうしようか、と考えていたら遠くから馬の走る音が複数聞えてきて、敗残兵がそれどころではないと逃げ出した。
何だと思ったら、小さめの馬に乗り、馬上から弓を構えて敗残兵を射殺す騎兵の一団だ。弓だけではなく馬上から小銃を構えて撃つ者もいた。
しかもそいつら馬を止める事無く、走りながら逃げる敗残兵を射撃してバタバタと倒す。そして射撃した直後に刀を抜いて切り殺すような事をして見せ、生き残りは武器を捨てて降伏。
そして手早く敗残兵を並べてから改めて弓で処刑。あっという間に皆殺し。
あれは軍事訓練を良く受けた遊牧民だろうか。冷酷に敵は皆殺しにしろと指導されている気配がある。しかも軍服が揃いであるから、あんな感じの奴等がまだまだいるということだ。
あの敗残兵共ならともかく、あんな曲芸を見せられては戦う気も起きない。勝つ想像も出来ないな。
あれが悪魔の軍勢か。歩兵は知らないが騎兵で敵う軍は中部にはいないだろう。いるとすればエデルトのセレード騎兵……エデルトか。奴等め、北領戦争の続きをしたいというわけだ。聖女ヴァルキリカの軍勢が南から迫っている。そんな時に北から迫られたら……蛮族が。
さて改めてこちらはどうしようか?
私は奴等と関係ありませんよ、といった感じで剣も拳銃も鞘に戻し、当然のように馬に乗ったまま修道院の方へ走らず向かう。
遊牧民の方はこちらのその動きを見たか見なかったか、矢を手早く回収して走り去った。
これではウルロン山脈を南下する街道は封鎖されたも同然であろう。ここの山道は街道から外れて進めるような場所ではない。山羊でも厳しい、鳥なら行ける。
西回りはロシエ国境があるから二回も領域を跨がないといけないから面倒が多そうだ。それにかなり遠回りになる。時間がかかるな
東に迂回して南下。セナボン、主要街道を避けて通る道ならば時間は短縮出来るが田舎道程度か。
ファイルヴァインでご老公に話を聞いた時に比べ、とてつもなく危険度が増している。無理をしないで引き上げたいところだがここまで手掛かりを得たならもう引き返せない。猟犬の意地にも関わる。
修道院に戻ると院長から感謝の言葉をしつこいぐらい受けた。
ラフィの方だが自分を見ると怯えてアブゾルから離れようとしない。
聖戦軍、あの遊牧騎兵達に怪しいからと殺されぬよう、この周辺を制圧して貰ってから行動する方が逆に安全と判断した。院長には少し長居するかもしれないと言ったら受け入れられた。
■■■
昼過ぎになって軍隊が踏み鳴らす地響きを感じる。感覚を研ぎ澄まさないと分からない程度だが、何度か体験すると肌で分別出来る。出来ない者でもなんだかソワソワとするものだ。
修道院の皆には、賊に警戒する時は過ぎて、大軍に頭を下げる時が来たと説明した。院長を初め脱走兵の修道士達も、政治感覚は素人並でも力の有効性は理解していたので”武器を外向き”にするような警戒態勢は禁止にして、いつでも取り出せるように保管庫へ収める事になった。
そして夕暮れ、時刻も時刻である。この辺に唯一まともな屋根を持つアンブレン修道院にお偉いさんが泊まりに来る可能性はある。掃除しろとまでは流石に言わないが、例え首が千切れても大人しくしろとしつこく言い聞かせた。どうせ部外者だからとウンザリされるまで喋った。
そうして聖戦軍の将軍一行が修道院に尋ねて来た。枢機卿まで同行している。
引き連れた軍はまるで東の遊牧蛮族のようだが、しかしこれは間違いなく聖なる軍隊である。軍装した妖精が、聖典にて人間の下位存在とされる妖精が堂々たる威容でいても聖なる軍隊である。
時折見かける奴隷の妖精とはまるで別の生き物だ。
敵の重役ばかりの夜になる。ここで誰かしらを暗殺すれば戦局が優位になるような気もするが、それとは別に使命がある。去るまで大人しくしているしかないが、役に立つか分からないがさり気なく各人の雰囲気だけでも掴んでおくのも悪くないか。
場違いな気もする緋色の枢機卿猊下は挨拶の後、如何に聖戦軍の聖なる使命が正しいかを院長に説いた後この周辺を野営地にするから協力願うと言っていた。
力関係もあるが神聖教会の権威という関係からも拒否はありえない。また畑は荒らさず、荒らしたならば補償までするという。そして売る分があるのなら買い取るとまで。正規の修道院ではないという事で意地悪されるかと思ったが違った。朝に敗残兵を片付けたという点も見れば、恐ろしいが彼等はアンブレン修道院の味方ですらある。
聖戦軍の将軍、三角帽子にこちらでは見ない遊牧風と思われる軍服姿で、目付きが攻撃的で人外地味ている男だ。院長に挨拶する時のエグセン語は片言で、その後のフラル語は流暢だった。
ジャーヴァルでロシエ兵の目玉を抉った悪名、アッジャール朝の大軍を良く撃退したという勇名等で知られるあの悪魔将軍グルツァラザツクだ。
こんな奴がいるということは、神聖教会の旗の下で東方の仮借なき残虐性が発揮される事が示されたな。あの面を見れば分かる。遠慮はしない奴だ。中部でいくつ死体が積まれるか。
将軍の側にいるのは赤が鮮やかな遊牧セレード系の女性。何だか眠そうな目蓋で妙な雰囲気。感情希薄? グルツァラザツク家はセレード系大貴族ベラスコイの傍系だから妻か愛人か、顔の特徴も一部似ているから親類か? 書類を鞄から出したりして院長、枢機卿、将軍の会話に無言で参加しているので秘書か。
是非その鞄の中を拝見したいところだが、秘書にしてはあの左右非対称の手や使い込んだ武具、そしてやはりあの目を見ると近寄った瞬間に腕が無くなる予感がする。いや、首が飛ぶ予感もある。助かる予感は無しだ。
枢機卿はともかく、やってきた軍隊は全体的にその二人が発する気配の通りだと感じる。小競り合い慣れをしている程度の中部兵でどうにかなるのか心配だ。
嗅いだ事もないような豊かで芳醇で刺激的、腹を刺激する香辛料の匂いが修道院に溢れる。
厨房を覗けば妖精とも思えないような、料理長と思しき大柄の女の妖精が、部下の妖精達を気の毒になりそうなぐらいに蹴りながらもの凄い勢いで大量の料理を作っている。
厨房から追い出された修道院の料理番に事情を聞くと今日はご馳走してくれるらしい。
不幸中の幸いかな? この匂いは南部の高級料理店で薄っすら嗅げるが、ここまで濃いのは生まれて始めてだ。東方の未知なる美食にありつけるのかと思えば、ちょっと、かなり、たまらん。南部の沿岸都市でそれらしい物を食べたことはあるが別物だろう。
世話役であろう妖精や遊牧民の女達が寝所の整備を始めたので、下手に関わると首が危ういから外に出る。
外では目が細くて鼻の低い、素晴らしい筋肉に、背中に見たことの無い意匠の刺青が入った男が刀を両手で持って素振りをしている。
うねり絞り膨れ縮む筋肉、夕日に照る汗、影になって浮かぶ古傷。これが奴等の兵隊じゃなかったら声を掛けてしまっていただろう。まず右乳首あたりを爪で引っ掻いてからか。
筋肉を食前酒に、アウル料理なるものをご馳走になれた。アウルとはジャーヴァルの一地方で妖精の王が治めるという。東方旅行はこの歳まで実行出来ていなかった。寿命はわずか、考慮の余地はあるが。
料理の味と香りと触感だが、そうなんだろう、情報が多すぎて舌も鼻も頭も機能を停止してしまったようだった。食器を使わず手で食べるものがあったが、なんと指先ですら味を感じているのではないかと錯覚させるものもあり、質問してみたら慣れると指で分かる者は分かるのだという。この一時はなんとも、胃から脳髄までが夢の世界に連れて行かれてしまったような浮遊感に包まれていた。
ヤーナに食べさせたらどんな反応をするだろうか? たぶん魔神代理領に亡命する。
食後は放心してしまい、何とか落ち着けた通路隅に座り込んで動く気になれなかった。
これが悪魔の誘惑ならば神聖教会に火を点けて別れを告げて死ぬまで堕落したい。聖なる種が刻まれた壁を蹴り倒し、その印目掛けて糞だって垂れてやる。いや流石に下品過ぎるか。
目立つ事は控えているからしないが、あの料理長に感謝を伝えたい。言葉が通じるか怪しいものではあるが。
幸福の余韻に浸りつつも、夜寝るのがやはり怖いと思えば余韻も引いて来た。相互認識があろうが無かろうがここは今敵地ど真ん中だ。
礼拝所で修道院の皆と雑魚寝をするのだが、夜でも灯りを絶やさずに不寝番をしている妖精達が気になってしょうがない。
不寝番の妖精達だが顔付きは慣れ切った殺し屋で、そしてどうみても人間の皮を剥いで作った物を身に付けている。冗談が言えないぐらいヤバいと勘が言い続ける。
それに気になるのは夜になっても伝令がやってきては仕事を続けている、白いスカーフで頭を覆った眼鏡を掛けた修道女だ。洒落たスカーフを被っている時点で修道女じゃないような気もするが、僧籍に入っているだけの文官かもしれない。
絵の女性の大きな手掛かりの一つになるかと接触しようとも思ったが、不寝番の妖精の中でも特に洒落にならなそうな奴がいるので近寄れるどころか目線を送る隙も見えない。
あの修道女はたぶん聖女の部下である。今この場では絵の女性への手掛かりに最も近いはずだが、食事の時にチラっと見たが実際の見た目を歪ませるくらいに血の臭いがしている奴だった。麦でも挽くように人を潰せる手合いだ。そんな奴等ばっかりだな。
そんな奴ばかりなのか聖戦軍とは? 勝っても負けても血塗れの未来しか見えない。
寝ようと思って目を瞑る。しかし寝られない。何故寝られない? 視線を感じる。目を開けば、あの洒落にならなそうな奴がこっちを直視していて目が合った。合った瞬間に手招きまでしている。
本当に寿命が来たか?
一晩やり過ごせるかと思ったが駄目か。一か八か……明るい未来は少しも見えないな。
あの妖精一人だけなら逃げられる可能性はありそうだが、あんな感じの奴が修道院中、そしておそらく外にもいる。諦めるという言葉は悪いし受け入れ難いが、逃げるのは諦めた。後の選択肢は指示に従ってそのまま生かされる事を祈るだけか。
ゆっくり、周りを起こさないように立ち上がる。
この間まで傭兵生活をしていたせいかアブゾルが何事かと気付くが、寝ていろと手振りで大人しくさせる。
修道院の外へあの妖精が行くので背を追う。
そして外。夜空の下、畑を荒らさないように配慮されて設営された野営地が築かれている。誠実ではあるらしい。
番をする兵士、篝火、火に弾けてパチとなる薪、そよ風。
妖精が立ち止まり振り返る。見られただけで死の予感がする。東方にはこんな”名手”がいるのか? それとも否応無く生まれてしまうのか。
これは隠してもダメだ。両手を上げる。久し振りに腹から心底体が震える。勇敢なつもりだが全身の皮を剥がされる趣味はない。
自分を囲む他の、並の妖精達と違うこいつらを見ろ。人の体から剥いだと隠しもしない革、人の骨に歯、舌に耳、目玉に男性器で作った装飾品の数々。既製品では絶対に無く、全てに個性が出ていてお手製だろう。
「魔神代理領の言葉でよろしいか」
喋るのは久し振りだ。発音間違いで殺されたらお笑いだな。
「所属と姓名、目的を話せ」
「キトリン男爵フィルエリカ・リルツォグトだ。聖皇領へ観光に行こうと思ったらそちらの軍と遭遇して身を隠していたつもりだった」
「奥方に報告しろ」
「はい」
妖精が一人去る。
少ししてあの修道女がやってくる。聖なる事務官か連絡官だと思うのだが、奥方って呼んだが?
目が合わなくても分かっていたが、改めて目が合うとこの手合いとは関わるなと勘が言っている。それにしてもこの女、今直ぐにでも自分を殺したがってるようだ。恨みは買いすぎて検討はつかない。殺した奴の親戚なんて一人につき何百いるか。
「この時期に一人で観光ですか?」
「この時期と言われても戦争なんか知らなくてね。観光だが、絵が見たくなってね。ただの遊びだから護衛もつけていない。若い頃から一人で出歩く癖があるものだから怪しいのは自覚しているよ。それとだ、私は芸術を愛している。何ならいくつか絵について質問しても構わないぞ。音楽でも良い。一つ笛でも吹いてみせようか」
「その格好は?」
「分かるだろ。女の一人旅は危険なんだ、男装くらいするさ。それでも路上強盗だの何だのと出るんだから世知辛い世の中だ」
「稲妻フィルが一人旅ですか」
自分が誰でどういう輩かは分かっているらしい。自分の寿命の端が今にも見えて来そうだ。
「今更結婚する気はないが良い愛人くらいは見繕いたくてね、今切らせてるんだ。娘ばかりで息子が欲しいんだよ。一人旅の女ってだけで男は通常の三倍は馬鹿になる。貴族の麗しい婦人が男装して姿を隠してなんて要素に加えて、夜に震えて抱きついてやれば凄いぞ? 昔それで大貴族のご子息を引っ掛けそうになって逃げた事もある。地位も財産も捨てるとか言って……あれはやり過ぎた。まあとにかくだ、そんな風にあの女性を守ってあげられるのは僕しかいないと思わせてみろ、忠犬みたいに懐いてくる。これがまた可愛い」
お寺の苔が生えた石造女に分かるかな?
「……出発するまで見張りをつけておいて下さい」
「了解だ奥方」
「その呼び方は止めて下さい」
「じゃあなんだ」
「名前で結構」
「ジルマリアの奥方?」
「この人外が」
助かった。滅茶苦茶恐かった。何かしら理由つけてアブゾルに抱きつきたい。聖職者じゃなかったら既に股座握っていたというのに。
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