3.1

 地下水路へ滑り込むと、中はぬるい温度の臭気で満たされていた。

 有機物が腐敗したにおい――というのとは少し違う。生活排水で汚れたにおいと、雨水の埃っぽいにおい、それと風呂の残り湯でも混ぜてぐちゃぐちゃにしたような感じだ。

 顔をしかめながら、レナは水路の脇を走り抜けていく。

 この地下水路は確実に基地の内部へと繋がっている。敵にどれだけの人数がいるかは分からないが、犯行グループはこの水脈を使って基地の中へ侵入するつもりだろう。そして、この事実に気付いたのはおそらくレナしかいない。

 直進を続けていると、見えたのはT字の曲がり角だ。左か、右か――と考えた先、レナは迷わず左の道を取った。

 ふと壁を見たとき、レナの肩と同じくらいの高さに擦過した跡が残っていたためである。こんな場所へ滅多に訪れる者はいないだろう。埃だらけの壁に跡が残っていれば、わずかな明かりであっても跡は目立ってしまう。

 左へ曲がって、今度は直進。

 彼女の最大の懸念は、手持ちの武器が自動拳銃1つだけだということである。

 思わずレナは歯噛みした。

 敵がASEEの犯行グループだとすれば、アサルトライフルの1つや2つくらい持っていて当然だろう。丸腰に近いレナはなおさら慎重な行動を求められる。だがそんな悠長なことは言ってられない。

 市街地の爆破テロによる陽動で基地内を混乱させ、戦力を基地の外へおびき寄せる。そして地下水路の脈を使って内部へと侵入して――というシナリオを考えたところで、レナは続く言葉が浮かばないことに気付いた。

 基地の内部へ侵入して――彼らはいったい何をするつもりなのか?

 ASEEの連中なら、そこそこの性能のAOFを持っているはずだ。わざわざ危険を冒してまで統一連合の量産機ごときを奪取する理由は見当たらない。もしくは、彼らは本気で前哨基地を潰そうとしているのか?

 だとしたら、それは無茶な話だとレナは思う。

 今は新型の強襲型高速機動艦<フィリテ・リエラ>も停泊しているだろうし、なによりも軍のエースパイロットである自分がいるからだ。どんな連中が来たとしても、AOFを駆ってしまえば敵ではない。

(いや、今は考えてる場合じゃない!)

 やがてL字の角へと差し掛かり、レナは予想外の客と対峙した。

 そこに居たのは、地下洞をねぐらにしているであろうホームレスだった。かなり高齢の方のようで、小さく背を丸めた姿で毛布にくるまっている。

 無視してコーナーを曲がる――と、見えてきたのはH字に別れた構造の通路だ。新たに3つの道を知って、レナは愕然とした思いに囚われた。

 急いで頭脳をフル回転させる。その一方で、1秒でも早く基地内へ行かないと――という焦燥がレナの思考を不安定なものにさせた。

 ――ダメだ、分からない!

 さきほどの壁にあった擦過のヒントとは違って、今回ばかりは糸口さえ掴むことができない。

 もう敵はどこまで行っただろう。まだ地下水路に居る? 基地へ辿り着いた? それとも――と考えて、レナは思わずたじろいだ。

 敵はすでに前哨基地へと辿り着いていて、今この瞬間にも仲間が危険な目に遭っているんじゃないか。自分の知り合いが怪我をしたり、他の誰かが銃で撃たれていたり……。

 そう考えただけで、えも言われぬ思いがレナの胸をきつく絞め上げてくる。

 ――そうだ。

 後ろにたたらを踏んで、レナは数歩、道を戻った。

「おじいさん! この先に――」

 と言い終わるよりも先に、ホームレスは右の人差し指を傾けていた。どうやら敵が進んだ方向を指し示してくれているらしい。

 レナは大きく頷いて「ありがとう!」と答えると、右のポケットから硬貨を引っ張りだして老人にパス。

「美味しいものでも食べてね。元気で!」

 おじいさんは硬貨をキャッチした方の手で親指を立てると、ニッ、と黄色い歯を見せて笑った。

 レナも冗談混じりのサムアップで応えると、次の瞬間には強い眼差しで走り出していた。

 時間の余裕は無い。

 老人に指示された方向へ行くと、見えてきたのは6メートル程度の高さを持つ梯子だ。ちょうど天蓋へ人が登っていったところで、開いた穴からは明るい光が見えた。

「――待ちなさい!」

 人影はレナの怒号に答えることなく、軽い身のこなしで上の階へ飛び出した。

 間に合え、とレナも負けずに梯子へしがみつく。

 あたしが急がないと基地にいる仲間が……みんなが――。

 ニーナもテンペンも、まだ一般市民の誘導を行っているハズだ。

 気の弱い女の子・ニーナは休戦状態に陥ったあと、自分も何か力になりたいと勇気を振り絞って統一連合へ志願した。

 背の高いテンペニーは、2年前に始まった"戦争"で父親を失い、自分にとって大切なものを守るために軍へ入った。

 ――そして、あたしも。

 あの時の弱々しい女の子は、此処にはもういない。

 過去の思い出話に意味はない。何があっても泣かない。つらくても苦しくても、そんなことに負けていられないのだから。

 今度は全てのことからみんなを守ってみせる。そのために、レナは死にもの狂いで力を付けた。

 だから――とレナは梯子の最終段に手を掛け、登りきる。廊下へ飛び出すと、泥のついた足跡は基地の奥へ向かっていることが分かった。

 遅れて追いかけると、角を曲がったところで警備兵が倒れているのが分かった。

 気絶しているだけの様子を確認すると、レナは廊下の奥で悲鳴を聞いた。第三格納庫のある方向だ。続いて銃声が複数。

 少女は重い身体を引きずるようにして、格納庫のエントランスへ滑り込む――と、その直前。

 ズシン、と建物全体を揺らすような衝撃は、しかしレナの目の前で起こっていた。

 格納庫に眠っていたはずのAOFのうち一機が、勝手に動き出したのだ。

 否、『勝手に』という言葉は大きな過ちだろう。

 その黒い機体は、たったいま強奪されたのだから。

 お、おい動くぞ――という新たな怒号とともにライフルの弾がバラ撒かれる。

 2階と3階にあるキャットウォークから兵士たちがアサルトライフルで一斉掃射をかける――が、鋼の装甲を持つフレームにはマトモな傷さえつけられない。とくに実弾兵器に対して特化した超高硬度鋼ならば猶更だ。

 黒い機体は罠に掛かった怪物のようにもがくと、電源ケーブルを引き千切りながら前へ向かって進む。出口の重い金属扉を腕力で押し開け、今にも檻を食い破ろうとしていた。

 ――急いで追わないと!

 レナはふと見上げた。

 炎に包まれつつある格納庫の中で、もう1機だけ無傷のまま立っている機体がある。

(こんなところに……まだ新型機が残ってた? それに、今までに見たことのないフォルムだわ。一体いつの間に……誰が……どうして)

 強奪されたのは漆黒をベースとしたカラーリングの機体で、残されたもう1機の基本色は赤のツートンを持つ。双方とも鋭角ばったフォルムは共通していて、いま量産ラインに乗せられている機体よりもずっとスマートな形状をしている。

 両者の違いは――と階段を駆け上がりながら見上げると、赤色の機体には鳥類がもつ骨格のような翼がマウントされているのに対して、漆黒の機体にはバックパックがなく、ややシンプルさが増している点だろう。

 深紅の機体を見上げる。

 今は点灯していない機体の瞳が、レナをじっと見下ろしていた。頭部にはマスクのようなカバーリングが施されており、緑色をしたカメラアイから下の部分を覆っている。

(この機体に乗るハズだった操縦主は、いったい誰なんだろう)

 と、20メートル程度の格納庫の扉が突然音を立ててひしゃげた。あと数秒すれば扉は完全に崩れ、敵を逃してしまうことになる。

 今は急げ、と胸の中で念じる。

 レナは階段上のタラップを2段飛ばしで3階まで駆け上がる。負傷した兵士たちの間を走り抜けると、残った1機へと迷わず乗り込んだ。

 上着の胸ポケットからIDカードを引き抜き、リーダにスラッシュ。

 機体のOSSは自動的に起動した。

 エンジンが高鳴り、シートが小気味よいリズムで揺れる。

(そう、この感覚――久々ね)

 ようやく戻ってきたような感じがして、レナは一度だけ深呼吸を置く。

 一度も触れたことのない機体とはいえ、自分には数多くの実戦経験がある。だから大丈夫、と自分に自信を持たせていると、メイン画面はパラメータの調整に入った。

 カメラの視覚素子が周囲の状況を精確に捉え、映像としてメインモニタへ映す。その画面に上乗せするようにして小型のウインドウがあらわれ、機体の各部が数値データとして展開された。

 レナは立ち上げシークエンスを順に追っていく。

 背部推進器スラスター出力、加速器ブースター出力、そして装甲に通電することで得られる耐久値や操縦席コクピット隔壁バリアーの展開強度、総エネルギー残量、機体各部の反応限界速度など――だが、そのうち幾つかは見覚えのある数値だ。

 彼女は驚き、そして息を飲んだ。

 以前まで乗っていた量産型<エーラント>特機の個人パラメータの値が、そのまま全て流用されている。これは一体どういうことか。反射的な速度から思考パターンに合わせた機体の応答、関節部分の細かい挙動やブーストの出力、スラスターのバランスやスタビライザーの安定化係数まで――すべて。

 なぜ、と思うより先にレナは確信していた。

(にわかに信じられないけれど、この機体……あたしのために調整されてたの?)

 システムオールグリーン、の表示のあとに映し出された文字列。それが機体の名称なのだろう。

 ――アクトラント、クランツ……。

 レナは初めての名前を口の中で転がすようにして呟いた。

 悪くない名前だ。否、――最高の名前だ。

 思うと同時に、漆黒の機体は格納庫の扉をこじ開けていた。

 扉の向こうに広がる光景を見て、レナは思わず言葉を失う。

 辺り一面は既に火の海となっていた。燃え上がる炎の獣は灰色の煙を上げながら天に向かって腕を伸ばしている。

 レナは回線をフリーにして、マイクへ向かって叫んだ。

「そこの機体、ただちに行動を停止しなさい! これは警告ではないわ!」

 ライフルを構え、奪われた漆黒の機体へ照準。

 いまだに友軍の信号が残っているのは、僅かに心残りではあったが。

 レナの目は笑っていなかった。

 少しでも動けば、躊躇わずに撃つ。

 新型機がASEEの手に渡って戦争が再開されるなら、ここで撃破してしまった方が圧倒的にマシだ。相手に奪取を許せば今後の被害が大きくなるだけではなく、統一連合だって戦力的に危うくなる。物質量では優位に立っていても、たった一機のAOFが戦況を覆すことなど容易なのだから。6年以上も前からずっとそうだった。

 だけど、今ならその可能性を断ち切れる。

 回線から返ってきたのは、冷ややかな低い声。男のものだ。

『なんだ。またお前かよ』

「!? この声――まさか!」

『じゃあな』

「逃げるな!」

 赤い機体がトリガーを引き、黒い機体が逃げる。

 一瞬の加速だ。方向は上へ。

 砲の先端から迸ったビームの矢は漆黒の装甲を数センチの差で逃し、敵は隙を突いて上空へ飛翔。圧倒的な上昇速度だ。星空へ浮かんだ敵機――<オルウェントクランツ>は闇の夜空へ溶け込むと、高みから第三格納庫を見おろした。

 思い出したようにブーストを噴かせてその場を去る。

「待てっ! アンタだけは逃がすもんか――」

 と、勇み足を踏んだ<アクトラントクランツ>の機体を引き留めるものがあった。電源供給用のケーブルや情報端末へ繋げられている鋼糸ワイヤーを引きちぎって、赤色の機体は格納庫から飛び出す。

 既に前哨基地は火の海に包囲されていた。

 おそらくASEE側は作戦途中から戦力を追加し、基地ごと焼き払おうと考えたのだろう。陽動に釣られていた統一連合は最低限の戦力での迎撃を試みたが、AOFの圧倒的な力とスピードには及ばなかったのである。

 レナは<アクトラントクランツ>の背面から高エネルギープラズマ式のライフルを引き抜くと、基地内に残っていた敵AOF<ヴィーア>へ照準。引き金を絞る。

 高密度に圧縮された九千℃の粒子が蒼白いビーム状になり、閃光は見事に敵の装甲を貫通――その背後にいた敵機も撃ち抜き、両機は一瞬の合間にダウンした。

「すごい…火力が以前とは比べ物にならない……」

 純粋な感嘆。

 彼女が前に搭乗していた量産型の<エーラント>では、このような芸当は出来なかっただろう。

 ――新しい力、か。

 レナは思わず笑ってしまった。

 これだけの性能があれば、もっと多くのものを守れる。救える。助けられる。

(そして何より……あたしはまた戦える)

 バーニア全開。急速な加速は一瞬だ。

 急激なGを感じ取ったあと、<アクト>の機体は大気へ投げ出されていた。あまりの速さで、もはや計器類の値を読み違えそうになるレベルである。

 主となるモニターを見れば友軍の信号は市街地から発せられていた。移動をやめ、いまは中央区で停止している。

 <オルウェントクランツ>だ。敵に強奪され、すんでのところでレナが取り逃してしまった機体である。

 空から見る街の様子は夕刻と比べ一変していた。

 炎は市街地の大半を飲み込み、いまだに勢力を拡大させ続けている――建造物は足元から倒壊し、道路のアスファルトに穿たれた大孔からは茶色の土塊が露になっているのが見えた。

 そして、瓦礫の山へ直立不動の姿勢で立っていたのは。

 レナは敵機の姿を認めると、容赦なくライフルを引き抜き、射撃。今度は威嚇なしだ。

 対峙した漆黒の機体<オルウェントクランツ>は左腕にマウントされた盾を掲げみせ、ビームによる一射を受け止める。

 <アクト>は背面にマウントされていた2つの武器を引き抜いて、すばやく連結させる――と、現れたのは10メートルを悠に越える大剣だ。

 鋒の部分に光が灯り、銀色の刃はオレンジに色づいたのはビーム刃である。この大きさなら、高層ビル程度さえも真っ二つにすることも可能だろう。

「でぇぇゃあぁぁっ!!」

 加速度に任せて、<アクトラントクランツ>は正面から突っ込む。

 ――盾で防がれるなら、盾ごと壊してしまえばいい!

 瞬間、敵機の持つ菱形の盾がクルリと一転した。

 扁平な形状だった『それ』はわずか一瞬で姿を変えると、細身のサーベルとなった。出力されたのは緑色のビーム刃。

 衝突。

 高出力のビーム刃が接触すると、火花と青白い雷が舞った。

 レナは危険を察知して距離を置く。

 機体が強奪されたのはわずか10分前だ。短時間であったにも関わらず、こんなにも巧く操れるようになるなんて――と驚愕する思いを味わって、レナは敵機の姿を睨みつける。

『久々だな、おまえと戦うのは。半年ぶりか? 元気そうで何より』

「お喋りしてる時間は無いわ。さっさとその機体を返して。そしたら命だけは見逃してやってもいいわ」

 回線から返答がないのを確認すると、レナは静かな声で言い放った。

「その力はね、アンタみたいな人間が使うべきじゃないのよ。ASEEのような組織がそれを使えば、きっと多くの犠牲者が出るし、また戦争になるわ。それが……アンタには分かってるの?」

 無言を紡ぐ両機体の肩を、小さく叩くものが一つ。

 雨だ。

 空から降る雨は、最初は弱く、しかし段々と強く打ち始めた。

 ――雨は止まらない。

 レナは相手の機体を鋭く見つめた。

 彼女は敵を知っている。否、『知っている』というのには語弊があるだろう。

 もう2年も前から何度も何度も戦場で交錯してきた――というのが正しい表現か。レナだって敵の姿形までは知らないし、直接的に操縦主の顔を見たことはない。せいぜい通信で言葉を交わすのが精一杯の仲。だって敵なのだから。

 世界最強の操縦主パイロット

 ASEEの中で最も強いだけでなく、表の世界、裏の世界を問わず、現時点で世界最強の操縦主は間違いなく彼だ。

 レナはこの相手に何度も辛酸を舐めさせられている。

 だけど――とレナは胸の内に思っていた。

 敵なのだから。討ち倒して当然。銃を向け、傷つけて当たり前。

 そのハズなのに、どうしても心の奥底に眠った氷が溶けてくれない。

 相手の声は引き攣ったように冷笑すると、やがて静かな口調で言った。

『半年前に言ったこと、覚えてるか』

「――覚えてないわ」

 レナはキッパリ断言した。

 聞きたくないし、覚えてもいない。

 テロという卑劣な手段を用いるしかない連中のクセに、ありがたい御高説を説こうだなんて、聞くだけで耳が腐りそうだった。

 <アクト>がライフルの引き金を絞り、漆黒の機体は姿勢を低くして一撃を回避。

 と、同時に――着弾の衝撃を受ける。遠方からの援護射撃だ。

 ダメージはレナの方に起こった。脚部が狙い撃ちにさたのだ。

 攻撃を受けた左脚が耐えかねて破損、<アクト>はその場へ片膝をつくような姿勢になった。

『この機体は貰っていくぞ』

「くぅ、っ――待て……」

『また会おうぜ』

 漆黒の機体<オルウェントクランツ>は向きを翻すと、遥かな闇の空へ飛翔していった。

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