第3話 3ページめ
かこーん。
緑茂る庭に、鹿威しの音が響き渡る。
伯母の家の客間が、見合いの席となった。少し汗ばむような初夏の陽気にふさわしく、床の間の水盤には百合の花が活けてある。たった一輪だけで、豪華な香りが部屋を満たす。
「佐一郎さん。ご紹介致しますわね。こちら、わたくしがお花のお稽古のご縁でお付き合いのある若竹家の御令嬢で、
レースの縁取りのあるハンカチを片手で握りしめ、上機嫌で喋る伯母の声が、耳を素通りしていく。
私にはよくわからないが、相当気合いが入っているのだろう。
一張羅を着てくるようにと命じられたので(半ば脅迫するような勢いだった)、英国に留学していた際に仕立てた背広を選んだ。体に合わせて作ったものなので、着心地が良いのが気に入っている。
カフスには白蝶貝を細工したものを選び、ひげも丁寧に剃った。もとの造作は変えようがないから、精いっぱいめかしこんでも、まあこんなものだろう。
座卓を挟み、向かい合って座った定子さんは、水色のワンピース姿だった。襟は白、ベルトは赤だ。髪は形よくまとめてあり、光沢のあるリボンで結んであったが。
顔は、見えない。
私も背を屈め、できる限り身体を下にして挨拶する。
「定子さん……、ですね? 初めまして。新見佐一郎と申します」
恥ずかしがりの御令嬢はわたしの言葉に、ただただ指先を畳につけて深々とお辞儀を返した。まったくの無反応ではなかったことに、まずほっとする。
「ちょーっとだけ内気な方でいらっしゃるんだけど……定子さん、そんなにうつむいて、首が痛くならないかしら?」
伯母が尋ねると、かすかに頷きだけが返ってくる。
伯母の言う通り、相当に内気な人なのだろう。
「定子さん、顔をお上げなさいな。佐一郎さんに失礼でしょう」
定子さんの隣で、若竹夫人が気を揉んで今にも倒れそうになっている。優しそうな顔立ちの、ほっそりと品の良い女性だ。
「ごめんなさいませね、娘はもう、大変な人見知りでございまして。今日も、ここまで連れてくるだけで一苦労でしたの」
「ご心配いりませんわ、若竹の奥様。うちの甥だって、無理やり引っ張り出してきたようなものですもの。ご遠慮はいりませんことよ。ちょっとくらい風変わりでも型破りでも構いません。むしろ本音を出せたほうがお互いのためにもよろしいというものですわ」
仲介役を買って出た伯母は元気はつらつとして、何が何でもこの見合いをまとめようという気迫に満ちている。伯母のこの気迫に勝てる人間など、この世に存在しないだろう。
「ねえ、佐一郎さん。定子さんはご覧の通り、ちょっと怖がりでいらっしゃるの。それで今までのお見合いでは全戦全敗でいらして」
この伯母は、見合いの席でなんという暴言を吐くのだろうか。
「伯母上。発言が伸び伸びしすぎですよ」
咎めるように声をかけると、若竹夫人があとを引き取った。
「そちらのおっしゃる通りですの。あらかじめお見合いの予定を知らせておくと緊張に耐えきれずに寝込んでしまうし、不意打ちでお席を設けようとすると硬直して気絶してしまうし、もうどうしたものかと思い続けておりましたのよ」
「それはまた……」
人見知りも、筋金入りということか。
そこまで嫌がっている見合いを強要するのもどうかと思うが。
良家の令嬢は、女学校を出るや否やで縁談がまとまる。見目麗しく育ちも良い女性であれば、女学校を卒業しないうちから許婚がいてもおかしくないので、若竹夫人も焦っているのだろう。気持ちはわからなくもない。
特に事情もない令嬢が縁談を断り続けていれば、良からぬ噂が立ってしまいかねない。世間とはそういうものだ。
「いえ、私自身も、あまり人様のことを言えた立場ではありませんので、どうかお気遣いなく」
両親のない二十代の甥が一人暮らしをしていると、親戚はなんとしてでも結婚させようと躍起になる。
「若竹夫人とは以前から仲良しだったから、定子さんのことで相談を受けたのよ。それでわたくし、そのとき、あなたのことがぱっと頭に浮かんだの。あなたたち、訳アリ同士でお似合いじゃないかしらって。あなた、昔っから面倒見は良かったから」
訳アリとはなんだ、訳アリとは。
*
「ちょっと失礼致しますわね。お飲み物を入れ替えて参りましょ」
「あら。それじゃあわたくしもお手伝い致しますわ」
ほほほ、と口もとに片手をあてがって余所行きの笑顔を作った伯母が、一転、私の耳もとにそっと囁く。
「よろしいこと、佐一郎さん。定子さんのお心をほぐすような甘いセリフでも紡いで、良い雰囲気をお作りなさい。本当に良いお嬢さんなんだから。あなた、この機会を逃がしたらもう二度と良縁はないと思いなさいよ」
上品な笑顔のその奥、獲物に狙いを定めた猛禽類のような目で睨まれ、寿命が縮みそうになった。
内気な定子さんを気遣って、見合いの席はごくごく内々に、砕けた性格のものになっている。見合いはレストランで行うのが当世の流行りだそうだが、伯母の自宅を選んだのも、定子さんの緊張を少しでも和らげるためらしい。
定子さんは、この見合いをどう思っているのだろう。
顔も上げられないほど緊張しているのなら、嫌なのだろうか。
気絶していないということは、多少は希望を持って良いのだろうか。
「定子さん」
意を決して、声をかけてみる。
「ずっと俯きっぱなしで、首は痛くありませんか?」
「……」
俯いたままでも、定子さんが困惑しているのが雰囲気でわかる。
よほどの人見知りなのだと伯母たちも言っていたが、先日診察した口裂け女も、こんな感じで口を開くまでに数時間かかった。『もののけの医師』は、気が長くなくてはやっていけない。
「今度は私が俯きましょうか。その間に、どうぞ首を伸ばしてください」
「え」
定子さんが、驚いたようにぱっと顔を上げる。
目と目が合う。白く小さな、花の顔。
一瞬で、私は恋に落ちた。
もののけ、もののけ、杏南が通る――新見佐一郎の手記―― 河合ゆうみ @mohumohu-innko
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