二二
綾倉顕子。私が彼女について知っていることはごくごく僅かだ。
恐らく彼女は、老教師飯沼茂が受け持つクラスの生徒であり、そして彼女は登校を拒否している。少なくとも、教室には通っていない。
勿論、分かっている。そういった生徒に対し、何の関係もない一教師が割り込んでいって、良い事などない。いわば私は、例の老教師の縄張りを侵すことになるであろう。
私は、彼女に深入りしてはならない。
分かりきっていることだ。
けれども、それでも尚、私はあの少女のことが気がかりであった。
月に一度ある図書委員の会合で、図書委員の一人である女子生徒に。彼女……綾倉顕子について質問を投げかけた。
「……なあ」
生徒は老教師のクラスに所属している生徒だった。
「なんでしょう。平岡先生」
私は言った。
「君のクラスの、綾倉さんって居るだろう」
私がそう言った瞬間、ほんの少しだけ生徒の表情に影が差した。
私はこの光景を見たことがある。
私があの時。彼女について……そう。御園生初子について質問をした時の、あのクラスメイトの表情と、今の生徒の反応は、酷く似通っていた。
「綾倉さんが、どうかしたんですか?」
生徒は明らかに、彼女について語るのを嫌がっている。言及を避けようとしている。腫れ物に触るかのように。
あの時の情景が脳裏に浮かぶ。因縁であろうか。結びついてはならない二つの点が繋がって線になろうとしている。
「あの生徒がよく、放課後の図書室に来るんだ。その都合でね」
この言葉には七割の嘘がある。一に、私は彼女と一度しか会ったことがない。二に、彼女がいつも図書室に来ているわけではない。ただ、これからそうなるかもしれない。つまり、断罪出来るほどに明確な嘘ではない。けれどもこれはレトリックに過ぎない。
生徒は答えた。
「綾倉さん……あまり良い噂は聞かないです。私は小学校が同じだったんですけれど、それも休みがちでしたし、服もいつも何処かが解れている様子で、それに、何より……」
「何より?」
生徒は逡巡していた。恐らく、今から口に出される情報こそが、彼女。綾倉顕子の中核を司るものなのであろうことは、察しがついた。
「綾倉さんと、大人の……詳しくは分かりませんけれど、取り敢えず。大きな男性と歩いているところを見た。って……そういう噂が流れているんです」
そう言ってから、生徒は私から目を逸らす。
「……噂。噂ですよ? 私がそういうことを言い触らしているとかじゃ、絶対にありませんから」
この生徒は恐らく、今の自己の発言が内申に響くのではないか、と恐れている。考えてみれば当然だと思う反面、言葉に出来ない澱のような何かが、心の奥底に降り積もっていく感じがした。
「ああ、そういう心配はいいよ。私が聞いただけのことだからね。気にしないでくれ」
私がそう言うと、一安心と言った感じで一つ小さなため息をついた後に、言った。
「じゃあ、もう帰りますね。お疲れ様です」
「うん、お疲れ様。また今度な」
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