二一
私は爾来、仏教思想と輪廻転生について調べ出した。話によれば、このような生まれ変わりの理念・思想には三つのタイプがあるとされている。
第一には転生型であり、同一の部族や親族などの間で魂が循環するというもので、時にはその魂が動物や植物に転生すると見られる。この類型は世界中の小規模な社会で確認される。
第二は輪廻型。インドで生まれたこの思想は生まれ変わりを流転と捉え、この世に存在するありとあらゆる生き物はそのカルマ、業によって次の生が定められ、あたかも車輪が回転し続けるかのように繰り返し生まれ変わると考えている。この類型はヒンドゥー教や仏教、ジャイナ教などのインド発祥の宗教によく見られ、流転によって転生を繰り返すことを苦しいことであると考えている。
第三はリインカーネーション型と呼ばれるもので、これは一九世紀中頃にフランスで誕生した。この考えにおいては、人間は生まれ変わりを通じて成長し続け、それを魂や霊魂といったものが転生を繰り返すことで進歩、進化し、最後には神に近しい存在になるという。輪廻型と大きく異なるのは、この思想体系において生まれ変わりは肯定的な概念であるということだ。
これら三つの類型は全てが独立し交わらないというわけではなく、リインカーネーション型は輪廻型からの影響を受けることもあり、またインドにおいては欧米諸国人によるインド亜大陸支配が始まると、その理論の修正を余儀なくされた。
さて、このうち三島由紀夫が『豊饒の海』で取り扱った転生の類型は第二の輪廻型を元としている。『奔馬』の語り部である本多繁邦は人が死んでから次の生を受けるまでの時間である中有の期間から『奔馬』の青年が『春の雪』の青年の生まれ変わりであるかどうかを判別しようとするのだが、実際のところこの中有の期間はこれといった定めがない。議論として、それが七日であるとか、或いは四十九日であるということが言われているが、これも完全に定まっているわけではないのだ。
つまり、例の生徒があの『彼女』の生まれ変わりであることを示唆する実際の証拠は何一つ存在しないということになる。
私は考えた。
車輪の下という文言と、あの状況は奇妙な符号の一致に過ぎず、輪廻転生などというのは私の勝手な思い込みである、と。
そう言い聞かせた。
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