一四
電車の警笛が鳴った。それは強い風を伴って、ホームへ入っていった。空気の吐き出される音とともに扉が開き、数人の客が降りてくる。私は電車に乗ってシートの一番端に座り込む。
車窓から見える街は夜の闇に覆われ、まばらな光の点が浮かんでいる。また窓には、窓に反射して疲れ切った表情を晒す男性の顔が映し出されていた。私の顔だ。嘘偽りのない、今の私の顔だった。
一日の仕事が全て終わる頃には、電車も既にラッシュアワーを通り過ぎ、車内も空きのほうが目立つようになる。田舎で生活しているうちは想像もしなかった、あのミキサーじみた人混みの中に身を投じずに済むのが、今の仕事の数少ない美点の一つだと私は思っている。
今私が住んでいる部屋は、最寄りの駅から歩いて十分のアパートの二階にある。日本中にある典型的な単身者向け住宅で、その壁はさほど厚くなく、部屋で大きな物音をたてるとすぐに私の部屋まで伝わってくる。勿論、エレベータのような設備もないので、学校の行事で身体が疲れている時などは階段を登るのが多少辛く感じる。私の身体はもう既に若さの峠を越してしまったのだろう。
鍵を開けて部屋に入る。勿論その中には誰も居ない。真っ暗だ。電気をつけると、捨てそびれたダンボールが目に入り、憂鬱な気分になる。決めた場所へ服を投げ入れ、シャワーをし、寝間着に着替えて棚から一つ本を取り出す。
この時間が。帰宅から就寝までの一時間弱ほどの時間こそが、正真正銘私のためだけにある時間であった。仕事のある日は一日の殆どが、休日でさえも半分が仕事を含めた自身の生活のための営みに費やされている中で、このほんの少しの時間だけが、私が私で居続けることのできる時間なのだ。
この時間に私は、まるで彼女の後を継ぐかのように、彼女の愛した文学を読み耽った。その傍らにはブラックニッカがあり、氷をたんまりと入れたコップの中にことことと中身を注いで、少しずつそれを飲み干しながら本を読むのだ。古ぼけた本の紙特有のあの死んだ木の匂いとウィスキーの蕩けるような甘さ、そして重厚な物語が三位一体で私の心の凝りを解きほぐしてくれる。
ああ、この時間のために一日は存在するのだ。私はすいと酒を飲み、それを嚥下する瞬間に、いつもそう思う。けれど、同時に別のことをも考えてしまう。もし彼女が今も生きていたら、彼女は一体何処に居るだろうか、と。私と共に生活しているか、それともそんな時期を麻疹か何かのようにとらえて、何か別の楽しいことを見つけて、平凡な人生を送っていただろうか。私にはまるで想像がつかなかった。私が平凡な一社会人である以上、彼女が若くして自死を選んだということについて、全面的に肯定をすることは出来ない。だが同時に、彼女があの時から生き続けて今に至るような、そんな絵図もまた考え付かない。
彼女の存在は一つの難題であった。もっとも美しい時に人が死ぬということは、果たして不幸なことなのだろうか。ただそれが死だというだけで、それを否定せねばならないのだろうか。
私は否定せねばならないのだろう。何故なら私はもう大人であり、責任のある立場であるからだ。しかしそれは私の本心ではないということは、自分自身が一番よく理解していた。何故なら彼女の存在は、今の私にとってさえも無謬の存在であるからだ。
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