一一
砂浜から学校までには結構な距離があり、学校前のバス停に着いた時には既に日が傾き始めていた。
「学校が閉まるかもしれないわ。急ぎましょう」
そう言って駆け出す彼女を私は追いかけた。入口には来校者名簿が置かれていて、名前と来校時間、来校理由とを書く欄があった。
「これ、なんて書こうか」
「忘れ物でいいんじゃないかしら。多分そこまで気にしないわよ」
私達二人は『忘れ物』をして、学校の中に入っていく。夏休みの校内は不自然なほど静かで、学校全体があの教室と同じ空気に包み込まれていた。
図書室の隣にある教室は、夏休み前と何一つ代わり映えしない。完全に開かないその扉も、降り積もった埃の浮く様も、私達二人が話し続けたあの場所そのままだった。
彼女は私よりも先に教室へ入り、一つの本を手に取った。その本のタイトルは『ラファエル前派の絵画』であった。
「私ね。普段はずっと小説ばかり読んでいるのだけれど、絵だって見るのよ。とくにこの本に載っている『オフィーリア』が好きなの」
「私は絵は分からないな。オフィーリアって、ハムレットの?」
「そう。ハムレットの。今から開くから、待っていて」
言って彼女は数秒でその絵が載っているのであろうページを開いた。
「これよ。オフィーリアの最期を描いているの。とても綺麗な絵なのよ。ワイルドの詩みたいに」
私は彼女に近付いて、その手にある本に描かれた絵画を見た。そこには、美しい草花に囲まれて水に沈む女性の姿が描かれていた。
「葦と藺のなかに殺され横たわる、騎士はうつくし……」
私がそう呟くと、彼女は笑った。
「そう! 私もそれを思い浮かべていたの。騎士じゃなくっても、美しい者が美しいままに死んでいくその瞬間ほど、背徳的なものは他にないでしょうね」
そう言って彼女は私を見た。彼女と私との間には、僅かな間隔しか存在しない。彼女との距離を意識して、心臓の鼓動が早まっていくのを私は理解した。
「ねえ」
彼女は言った。
「どうしたんだい」
「私とあなたは、また会えるのかしら」
「君は不思議なことを言うね」
「そうね。そうかもしれない」
そうして、彼女は私との距離を詰めた。今にも触れてしまいそうなほどに。
私は手を震わせながら、彼女の肩に触れた。彼女は、拒絶しなかった。彼女の顔が近付く。私も、ほんの少しだけ近付いた。
瞬間、二人の唇が触れ合い、そして離れていった。行為は一瞬のうちに終わった。
「あなたと私はまた会うわ。きっと会う。車輪の下で」
「車輪の下?」
「ええ……見て」
彼女が目をやった棚のその段にはヘルマン・ヘッセの名作、車輪の下が置かれていた。
「私、門限があるわ。もう行かなくちゃ」
彼女は自分の荷物を持った。私もそれに倣って荷物を手に取る。
私と彼女は、校門で別れた。二人でまたね、と言い合いながら。
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