一〇
とうとう、八月十五日になった。私の心臓はとくとくと腕時計のように細かく鼓動し続けている。私は、彼女と約束した時間よりもずっと早く、待ち合わせ場所にしていた学校前のバス停に到着した。
彼女は、約束の時間の三十分前にあらわれた。汚れ一つない白のワンピースを着て、麦わら帽子を被る彼女は、夏休み前に見たどの時の姿よりも美しかった。
「久しぶり」
彼女はそう言った。
「そうだね。なんだかすごく長い間、私たちは顔を合わせていなかったような、そんな気がするよ」
「実際、長いわよ?」
「そうかもしれない」
言って、私は誤魔化すように笑った。ほんの一瞬だけ脳裏にあらわれた罪悪感で顔を歪ませていないかが心配だった。
私と彼女は、会わない間に何があったかについて話しながらバスを待った。二十分ほど時間が経った頃にバスは来た。私達二人でバスの一番後ろの席に座り込んだ。
バスは学校を出た後、私の住むニュータウンの中に入っていく。
「あなたの家は確か、このへんだったわよね」
「うん。そうだね」
「ここでの生活はどうかしら。やはり退屈?」
少し前の私であったなら、即座にその言葉に同意を示しただろう。しかし今の私には彼女が居た。逆に言えば、この土地に対する感慨というのは、その全てが彼女に依存したものだった。
「退屈ではないけれど、まだ何となく慣れない感じはする、かな」
「例えば?」
私がかつて住んでいた街と、今住むこの地域には確かに様々な差異が存在していた。交通の便の良し悪しや自然の多さや、ありとあらゆる面でのシステム上の差がそこにはあった。けれどそういった違いは私にとって重要なことではなかった。
「私はいつも、不規則な渡り鳥のように色んな場所で生かされてきた。それが当然だったし、今だってその生活の方がより実態を伴ったもののように思える。けれど、これからの私はこの地に落ち着いて、長い時間をこの場所で暮らさなければならない。私が今まで培ってきた大きな潮流と無縁でいるための能力は何の役にも立たず、まるで泥濘の上で生活することを強いられるような、そんな感覚が未だに取り付いて離れてくれないんだよ」
私がそう話した直後、彼女はあっけらかんと、それがまるで簡単な問題であるかのように解答を返してきたのだ。
「それってきっと、不自然なことじゃないわよ。今私達の立っているこの場所がずっと揺らがないなんて保証、どこにもないんだから」
「そんな馬鹿な」
私が反射でそう言うと、彼女は笑った。その白い手で口元を隠すあの上品な笑い方で。
「ええ。だって私もあなたも、今本当に人間という生物であるかどうかさえ、本当は誰にだって分からないんですからね。中国の古典で『胡蝶の夢』というのがあるの。知ってる?」
「知らないな」
「ある時。自分が蝶になる夢を見た人が居て、その人は起きた時に思ったのよ。実は自分は本当は蝶で、人になる夢を見ているんじゃないかって。そんなお話ね」
「成る程なあ。でも、私の今居る場所はこんなに不安定でぐらぐらと揺らいでいるのに、他の人達ときたらまるで自分が揺らがない地の上に立っているかのように振る舞っているじゃないか……そうは思わないかな」
「自覚してるのよ、きっと。自分が不安定な場所に居るんだってことぐらいはね。誰だって考えるでしょ? いきなり自動車がこちらに向かってきて、あまりにも理不尽に人生が終わるっていう、そんな可能性について。実際、有り得ない話じゃないわ。けれど、普段はそれに蓋をして生きている。ただそれだけよ」
「じゃあ君はどうなんだい。君は、不安じゃないのかい?」
「私は寧ろ、このまま何事もないまま、生きていくことのほうが余程怖いわ。勉強して、進学して、仕事して、もしかしたら結婚して子供でも作って、やがて老いていって、人生の決算をしていって、最後には骨になる。そんな普通の人生を送ることのほうが、私にとっては心底怖いわ……」
彼女のその告解は全く不思議なものであった。私が今まで見てきた人は皆、逸脱を恐れていた。周りから頭一つ抜きん出て、人々の目につくような状態になるのを恐れていた。しかし彼女は寧ろ、そうして人々の潮流の中に混ざることをこそ恐れているように感じ取れたのだ。
私は考えた。彼女が私に感じ取った同類の匂いとは、逸脱者の匂いだったのだ。彼女は、私になら理解してもらえると言っていた。そして確かに今の私は彼女を理解しつつあった。
私はこの地域における部外者だ。外から唐突にあらわれて、溶け込めずにいる異分子だった。そして彼女は、この地域から弾かれた巨大な異物だった。彼女が彼女であり続ける限り、彼女は逸脱者であり続けるのだ。恐らく彼女は、彼女を異分子としたこの地域を嫌っているのだ。それは憎しみほど強い感情ではないにせよ、彼らに迎合することを良しとしない程度の感情を生み出していて、彼女はその感情の上に成り立っているのだ。
「君は一体、どんな風になりたいんだい。どんな人生を歩みたいと思っているんだい」
私が言うと、彼女は車窓に目をやった。その先には向日葵の花があった。それは一面に咲き誇り、皆一様に同じ方向を見つめていた。
「ああいうふうに、なれたらいいわね」
彼女はそう言った。
「向日葵?」
「そう。向日葵……あの花はね。生長の盛んな頃はずっとあの輝く太陽を追いかけているの。そして、成熟に近付くにつれ、その動きは緩慢になっていって、やがて枯れる。綺麗で一途で、完成した途端に崩れてしまう。そんな花なの。私はそんな人生を歩みたい。もっとも美しい時に、美しいまま、美しい時に時を止めてしまうような、そんな人生を」
「川端とか三島の小説みたいだ」
私がそう言うと、彼女は微笑した。
「その通り。私は、そんな風に生きていきたいと思ってる」
そんな風に。彼女は自分に言い聞かせるかのように、言った。
やがてバスは海へと辿り着いた。海岸の名前が書かれたバス停の看板には永く潮風に当てられた経過を示す赤茶けた錆が浮き出ていた。
「ここから少しだけ歩くの。付き合ってもらえるかしら」
「勿論」
彼女は、大きめの手提げバッグを持ち、歩き出した。その中には彼女の水着が入っているのだろうと私は考えた。
その瞬間、私の中である観念が産み落とされた。彼女という清らかな存在と、私という汚濁。彼女のその清純な美しさに対して私はあの白い欲望をぶつけたのだという背徳と罪悪が、私の脳裏からついて離れなかった。その感情は、彼女の水着と海から漂う生きた潮の匂いから連想されたのだろう。その逸脱は、私が今まで犯してきた汎ゆる軽度な逸脱とは比べ物にならない、あまりにも重い逸脱であるように思われた。
「疲れていない?」
彼女はそう言って私を見た。罪悪感はさらに強まったが、それよりも今は楽しもうと考えた。折角、彼女と一緒に遊びに出掛けているのだから。
彼女の歩いた先には、入江があった。岩に囲まれた海はまるで湖のように静かに凪いでいて、海の底の砂に刻まれた波紋がくっきりと見えていた。
「綺麗だね」
「そうでしょう? 皆、バス停のあたりで満足してしまうから、この場所までは来ないのよ……私、あそこの岩陰で着替えてきますから、あなたも着替えてらっしゃいな」
「分かった。少ししたらまたここで会おう」
私は頭の中から、出来る限りの力を使って煩悩を取り払おうとするが、これは困難極まる作業だった。それは自分が着替えて水着になろうとする時、明らかに引っ掛かって自己主張した。
少しして、私は砂浜で彼女を待った。太陽の光は強く砂浜を照らし続けていて、私の身体をじりじりと焼け焦がした。
やがて、遠くから彼女はあらわれた。小さな点が徐々に近付いてきて、彼女の輪郭を形取る。彼女は麦わら帽子をそのままに、フリルのついた白の水着と、南国色のパレオを身に着けていた。彼女の身体は首元から足の先にいたるまで、美しい白磁のような色合いを持ち合わせていた。その中で、彼女の右鎖骨下に並んだ三つの黒子が強く印象に残った。彼女の身体にあるその黒子こそが、彼女を地に縛り付けているのではないかと私は考えた。
「待たせちゃったみたいね」
「気にしなくていいよ」
ありがとう、と言って彼女は笑みを浮かべた。隠されることのないその笑みは可憐で、どうしようもなく美しかった。
三時間ほど、私は彼女と海辺で遊び回った。二人とも、こんな風に少ない人数で、しかも同年代の異性と海に行くというような経験をしたことはなかったので、ところどころで目的を見失いはしたが、それでも二人の間には何の憂いも生まれなかった。
午後の四時ぐらいになって、彼女は言った。
「私、実はね。ここ以外にももう一つ行きたい場所があるの」
「何処でも付き合うよ」
「そう? なら、学校に行きたいの。それも、あの教室に。二人でいつも会っていたあの場所に」
私は彼女の奇妙なリクエストに違和感を覚えながらも、それに頷いた。着替えを済ませた後、歩いてバス停へ向かう。時刻表に書かれたバスの本数がとても少ないと私が言うと、彼女は驚いた。彼女にとってそれは当たり前のことだったらしい。
三十分ほど待ってバスは来た。私達は行きの時と同じく、車両の一番後ろの席に座り込んだ。車中には二人以外誰も乗ってはいなかった。
その道中、彼女は私の手を握った。私はその行動に驚きながらもすぐさまその白い手を握り返した。そうして私は彼女の顔を見たが、彼女は私ではなく、流れ移る外の景色を見つめていた。目線の先には行きの時にも見た向日葵の園があり、その向日葵は皆一様に、東の方角を向いていた。
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