彼女はあの教室でいつも本を読んでいた。大体は古い、昭和の文豪が書いた小説を読んでいたが、稀に海外SFや哲学者の書いた本を読むこともあった。私は勉強以外で活字を読む習慣がなかったので、何冊か読みやすい小説を彼女に選んでもらい、それらを読み進めていた。

 そうして目に疲れが溜まった時に、何となく私と彼女は話をするのだ。話題は、お互いのことについて。私は今まで移り住んだ様々な地域の話。彼女からは、ずっと気になっていたこの地域と彼女の家に関する話を聞いた。

「君のご先祖様は、一体どこから来たんだい」

 その一言だけならば、他愛のない雑談の種だ。けれども私はそれを言う時、確かに緊張した。彼女が不快な思いを抱いて、私を嫌わないか心配だった。

 だが、その心配は杞憂に終わった。彼女はただ淡々と語り始める。

「私の家。御園生家では大昔から、この地域一帯で製鉄を行っていたそうなの。山から出る砂鉄を集めて、色々な道具を作っていた。ところで貴方、私の家では一つ目の子供が生まれるっていう話をどこかから聞いたりはした?」

「一応ね」

「あれはね。どうも私の家がやっていた製鉄と関係しているようなのよ。製鉄に関わった人々はたたら場で、片方の目だけずっと炎を見るから、歳を取ると片目が潰れてしまう。すると必然的に隻眼の人間が増えていくというわけ。日本神話における鍛冶の神である天目一箇命は目が一つしかないのよ。伝承と実態が擦り合わされたってこと……もっとも、途中からは本で知った知識と私の当て推量をまぜこぜにしただけなんですけれどね」

「いや、見事だと思うよ。私は遺伝的に一つ目の子供が生まれやすいようになっているんじゃないかと思っていたね」

「実際のところ、一つ目の親戚は一人も見たことがないわね。死産しているだけで本当は何人かそういう子が居たのかもしれないけれど」

「そこまで疑ったらきりがないと思うよ」

 それもそうね、と彼女は同意し、また言葉を繋げていった。

「事情が変わったのは明治維新後。政府の富国強兵政策からこの地域にある鉱山に目がつけられ、開発が行われるようになった。古くからこの地域の山を複数保有していた御園生家はそれで財産を築いた。第二次世界大戦後は土地を手放すようGHQから命令され、それに従ったのだけど、今度は戦後の高度経済成長時代に入って新しい道路やトンネルの建築が始まって、御園生家の持つ企業がそれに参入してまた復活って感じかな」

「随分と歴史のある家のようじゃないか」

 私が言うと、彼女は小さく笑った。口元に出ないような、わずかな微笑だった。

「歴史はね……消せないのよ。だから、いくら私の家がこの地域のためにお金を投じていようと、私個人がどれだけ努力しても、今までの歴史の何処かに闇があって、今私の家が資産家である限り、私の家は蔑まれるのよ。都会を知ってる貴方にとってはくだらない話でしょうけれどね」

「ああいう迷信はそう長くは続かないよ。きっと」

 私は、自分のその言葉の小賢しさを理解していた。それは例えば人はいつか死ぬとか、やがて宇宙はビッグクランチを起こして消滅するというような、きっといつか訪れる。しかしいつ訪れるかは検討もつかないものに対する言い方だった。

 けれども、私のそういった細かなずるを彼女は飛び越えて話をする。彼女は私の思うような些末な心配事など眼中に入らないような何処か遠くを泳いでいるようだった。

「ねえ。例えば私のこの話が全部、私の思い込みだったらどう思うかしら」

「どういうこと?」

「一つ目の子供とか、そういう迷信が実は全部本当で。それでね、私のこの現代科学に毒された考察が全部的外れなの。私の家は現代の科学じゃ説明がつけられないような得体の知れない何かしらの事が起きていて、私は不幸にもそういう家柄に生まれた女の子なのよ」

「寧ろそれは、さらに救いがないんじゃないか。もし仮にそうだったならそれは不治の病のようになおしようのないものだと言うことになってしまう」

 彼女は笑った。口元がその白い手で隠される。

「無味乾燥な現実の方が余程救われないわよ。幻想の入る余地のない、砂を噛むような現実……あらゆるものがお金とか、宝石みたいな貴重品に変えられていって、そこに不可思議なことは何もないの。どんなに無垢で純粋な夢を子供が持っていても、生き続けているうちにそれは糖衣錠のように、現実という如何にも良い味のしそうなもので包み込まれていって、やがて中にある夢は腐ってしまうのよ。残るのはいつも伽藍堂な、現実という名の殻だけ」

「でも、普通の人は生きるだけで精一杯なんだと思うんだ。自分の住む場所とか、食べるものとか、着るものに頭を悩ませなければ、人は生きていけないんじゃないのかな」

「……ええ。きっとそうなんでしょうね。けれど、みんな初めは何かを夢想するはずなのよ? たとえそれが他人にとってちっぽけで取るに足らないような小さなものでも、人は何かしらの夢を持っているはずなの。あなただって、小さな頃は色んな夢を想像したでしょう?」

 確かに、小さい頃の私は色々な夢を持っていた。テレビで見たスポーツ選手に憧れたり、かと思えば唐突に宇宙飛行士になりたいと言い出したり。そしてそう思った時にはどれも自分に出来ることだと思い込んでいた。

「うん。確かにそうだった。けれど、今はそうじゃない」

「そうなのよ。人は成長していくごとに美しい無垢な夢を持たなくなる。空に浮かんでいた夢に重りを乗せて、地面に足をつかせる。確かに一度は、綺麗で純粋な夢を持ち得ていたはずなのに」

 彼女と私の間に、沈黙が横たわった。小さく開かれた窓から風が吹き込んで、古ぼけたカーテンを大きく揺らした。

「私は、例えそれが私にとって害を齎すものであったとしても、無垢で美しい形のままで居たいと思うわ。それがもし私という少女の身に降りかかる不幸であっても私は一向に構わない。ただただ私を、綺麗に作られた押し花のようにして欲しいの」

「……君は何故、そこまでして美しいものにこだわるんだ」

「分からないわ。もしかしたら、現実に耐えられないぐらい私の心が弱いからかもしれない。今の自分の境遇を、魔女が来る前のシンデレラのように考えているからかもしれない……どう、幻滅した?」

 私は言った。

「君は美しい。君じゃない誰かならともかく、君がそんな願望を抱いたとして、一体何処がおかしいと言うんだい」

 それを聞いて彼女はふいと開かれた窓の方を見た。私は彼女の気分を害したかと思い、怖くなった。

「あなたって、そういうことをよく女の子に対して言うのかしら」

「そんなことあるわけないじゃないか。ロクに女の子と喋ったことさえないんだから」

 私が素直にそう告白すると、彼女は言った。

「あら。そうなの。でもあなたには、何処か『たらし』というか、異性に好まれそうな何かを持っているような気がするわ」

 私は彼女のその主張を必死に否定してかかった。

「全然。全くもってそんなことはない」

 すると彼女は、ふっと笑った。白い手に遮られないその微笑に私はとても驚かされた。彼女の微笑には、一つの曇りも見当たらなかった。あれほど彼女にしつこく付き纏っていた憂愁さえ、その時の彼女には存在しなかった。

「嬉しかった。ありがとう」

 彼女はそう言った。

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