六
旗柏中学校校舎は、上空から見ると左右反対になったLの字のように見える構造になっている。図書室は校舎の三階、L字の先端部分にある。窓の配置の都合上、午後から夕方にかけて強い西日が図書室の中に差すので、放課後に行くと宙に浮かぶ細かな埃が照らし出され、オレンジ色の光と黒い影とが混じり合い、不思議な雰囲気を醸し出すようになる。
そして、図書室の隣には何の用途で使用されているのか分からない部屋が一つあった。その部屋には本来部屋の名前が書かれているはずの場所にも何も書かれておらず、教室からも遠いので気にする生徒も居ない。かく言う私も、彼女に言われるまで、図書室の隣に部屋が存在するのだということ自体知らずにいた。
次の日。私は彼女に言われた通りにその教室へと出向いた。外では運動部の生徒たちが声を出し合い、丁度この場所の真下にある職員室からは古い印刷機が紙を吐き出し続ける音が聞こえる。その中にあってこの教室周辺は、まるでそこだけが切り取られてしまったかのように静かであった。
私は意を決し、教室のドアを開いた。そのドアは何処か立て付けが悪いのか、完全には開かなかった。
教室には錆びの浮いた本棚が並べられていた。その中には埃の浮いた、如何にも人受けのしなさそうな本が敷き詰められている。野草や両生類の原色図鑑や、ヴィクトリア朝イギリスの下層社会について描かれた本、過去のトルコで起きた青年運動に関する本、その他分野を問わない様々な種類の本が汚れの中で静かに佇んでいる。
「その棚。貴方がぶつかったら多分倒れるから、気をつけなさいな」
部屋の奥から声がした。彼女の声だった。
私は棚と棚との間を慎重に、綱を渡るかのように歩いた。その間隔は決して広くはなく、蟹のように横向きで歩くのを強いられた。
喉に絡む粉のような感じに咳き込みそうになりながら、私は棚の間を抜けた。彼女は部屋の隅に座っていた。窓にはカーテンがかけられていて、彼女の居る場所だけそれが退けられているので、薄暗い部屋の中で、彼女だけが光に照らされ、輝いているように見えた。
不思議な感覚だった。昨日の私が見た彼女の姿と言えば、あの巨大な屋敷と、それに相応しい品格と陰鬱さを備えた深窓の住人といった姿であったというのに、今の彼女というのは、私が通うこの旗柏中学校のブレザーを着て、古ぼけた椅子に座って、まるでそれが当然であるかのように脚を組んで小説を読んでいるのだった。
彼女は何処に居ても一つのキャラクターを持っていた。あの暗い屋敷においては、陰鬱げな深窓の少女。そして今この場所においては、一人孤独に本を読む文学少女。そのどちらも矛盾なく、彼女は彼女という一人物の中で成り立たせることが出来たのだ。
「今日はもう来ないんじゃないかと思ってたわ」
「これでも早く来たつもりだよ」
「あら。女の子一人待ち惚けにさせておいて、そんなこと言っちゃうの?」
「なら、君は一日のうち、いつ頃からこの部屋に来るんだい? それともここはただの待ち合わせ場所に過ぎないとか」
「いいえ。ここは私にとっての教室よ。貴方達普通の生徒が授業をはじめた頃に来て、殆どの生徒が帰ったぐらいにここを出て行く」
彼女の言うそれは、あまり他では聞かない登校の仕方だった。
「この教室へ登校することを教師たちは許すのかい? 勉強机もないし、第一ここは何のための部屋なんだ」
「ここ? ここは書庫よ。あまり貸出されない本とか、余った椅子とか机を置いておく場所。必要のないもののためにあるお部屋ね」
一拍置いて、彼女は言葉を続けた。
「この教室へ来ることも、ここへ通うことで登校ということにするのも、全部教師に許されているわ。嫌味だけど、私の家がこの学校に沢山の寄付をしているから」
嫌味だけど、とは彼女は随分と珍しい言い方をするなと私は思った。その言葉はわざとらしい底意地の悪さが感じ取れた。
「こんな埃っぽい部屋の中にずっと居て、君は平気なのかい」
「窓を開けていれば平気よ。ここで私は貴方達が帰っていく様子とかをじっと見ているの。本を読むその合間に、ね……それより貴方は本を読まないのかしら。ここの本は古いけれど、面白い本も多いわよ」
そう言って彼女は本棚の前に立ち、考え込むような様子を見せ始めたので、私の心のうちに残った最後の疑念について口に出した。
「君は何故、私をここに呼んだんだ」
すると彼女はあの口元に手をあてて笑うあの仕草で、言った。
「貴方は、私のことを理解してくれそうだったから」
その様子はまるで天使のようであった。だが、その蠱惑的な言葉は悪魔的でもあった。私の中にある何かがぎゅっと絞り込まれていくような、奇妙な感覚が起き始めていた。
その日から私は、名前のついていないあの教室へ通うようになった。
彼女は正しく、あの教室の住人であった。彼女は自身の身を置く場所全てを、まるでそれらが初めから彼女のために用意されたものであるかのように自分の物にしてしまう。あの教室も、あの陰鬱な陰のある屋敷も彼女のためにこさえられたもののように見えてくる。彼女は何処に居ても、退廃的な美を持った少女であった。
ところで私は校内で彼女の姿を見たことが一度もなかった。それは当然のことで、彼女は皆が使う靴箱を避け、教師たちが使う入り口を通ってこの教室へと通っているのだ。
登校日はまちまちで、彼女に会いに行ったら誰も居ないというような肩透かしを食うこともあった。私がそのことを伝えると、彼女は眉一つ動かさず、静かにこう返した。
「あら。外れがあったほうが面白いとは思えない?」
「私はギャンブルをしないんだ」
「アインシュタイン博士ね」
「何が?」
「彼は言ったのよ。神はサイコロを振らないってね」
そのやり取りがあった次の日から、彼女は毎日この教室に現れるようになった。
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