第3話 幽境の庵

 キョクゲンの王邑うぉんちゅう行きは村の間でもちょっとした話題になった。村人にとって王邑に行くのは別段珍しいことではない、が、今回ばかりはいつもと事情が異なる。恵侯けいこう祭事さいじ――これは国の神事に次いで格式が高い――に一農民たるキョクゲンが参列するのである。いや一農民というよりむしろ、可もなく不可もないキョクゲンが、という驚きの方が大きい。


「キョクゲン、こらまた大事おおごとじゃのう、いったいどうしたものじゃ」


 キョクゲンも最初はまんざらでもなかったが、とにかく引っ切り無しに村人が問うてくるので、さすがに面倒になってきた。


「俺は今から王邑に向かうことにする」


 父母とキョクメイにそう言うなり、早々に出立しゅったつの準備を始めた。準備と言っても村からさほど遠くない王邑、多少の食料と小金くらいのものである。


「ゲン、本当に大丈夫かえ、大王様に失礼があってはこの村の評判に関わるでの」


 父母はまるでキョクゲンがこの村の命運を握っているかのごとき言い草である。人様にさほど自慢できるような息子ではないが、まあ息子であることには違いない。人並み以上の心配はしている。


「母上、人質に取られるわけでなし、そんなに心配されたら逆にこちらが不安になってきますよ」


 それに引き換え、キョクメイは何やらいそいそと楽しそうである。


「兄様、ドングリはどれくらい持っていくの」

「アク抜きをしていないドングリはシブくてよう食わん」

「もちろん抜いてあるよ」


 キョクメイはドングリが大好物である。木のたるに山盛りになったドングリをわしづかみにして、そのまま口いっぱいに放り込んでガリガリやっている。トチやドングリといった木の実は村人にとっても貴重な食料なのだが、アクを抜いていないドングリを皮ごと食べられるのはキョクメイくらいのものだ。もっともキョクメイもちゃんとアクを抜いて下ごしらえしてある方が好みではある。


「まさかとは思うが、お前、付いてくるのではあるまいな」

「そのまさかだよ」

「いやいや、遠路小さな子どもを連れ回すわけにはいかん、父上や母上もますます心配する、それでなくても……」

「ええとねぇ、メイは王邑うぉんちゅうまで行くわけじゃないよ、ちょっとそこまで」

「そこまで?」


 がどこまでを指しているのかキョクゲンには皆目かいもく見当が付かない。


「兄様はどういう道筋で王邑までいくつもりなのかな」

「そりゃ山を越えるのが一番早い、野盗が出るような山でなし」

「……あのね、兄様はしばらくこの村には帰ってこられないんだよ」


 キョクメイの言葉にキョクゲンは耳を疑った。ますますワケが分からない。


「朝にね、兄様がちょっとの間どうなるのか占ってみたんだよ、そしたらね、しばらく帰ってこられないって出た、だから

「あー」


 キョクメイは毎日、村外れにあるいおりまで学問を学びに通っている。かつてはキョクゲンも通っていた庵である。そこでは世間一般の学問も教えるが、庵の主である先生はその昔仙人の修行をしていたとかで、うさんくさい仙術のようなことまで教えるのである。キョクメイは教え子の中でも際立って優秀な成績を収めており、仙術よろしく占術もたしなんでいる。


「メイ、その(占い)は確かなのか」

「知らない。当たるも八卦はっけ当たらぬも八卦、って先生が言ってたよ」

「そりゃそうじゃが……」


 キョクゲンもだいぶ読めてきた。キョクメイはキョクゲンをいおりまで連れて行くつもりなのだ。庵は村外れにあるとはいえ、山を迂回うかいして王邑うぉんちゅうへと向かう街道にほど近い。


「お前は知ってか知らずか、俺は先生とはいまいち相性が良くないのじゃ」

「それ意外。兄様と先生はどこか似てる気がするんだけどねぇ」


 取りあえずの支度したくを終えたキョクゲンは父母にしばしの別れを告げ、ガリガリとドングリをむキョクメイを連れ立って出立しゅったつした。






 三里ほど歩いたであろうか、村外れの寂しい荒れ地にぽつんとたたずむ一軒家が見える。茅葺かやぶき屋根から突き出した煉瓦れんがづくりの煙突からはもくもくと白い煙が立ち上り、人の気配が感じられる。例のいおりである。庵が近づくとキョクメイは駆けだして、さっさと垣根かきねの向こうに姿を消した。


「久しぶりに先生の顔を拝むとするか」


 庵を訪れることにあまり乗り気で無かったキョクゲンも、キョクメイに飛び込んでいかれては心を決めざるを得ない。


 この先生は姓をバタン、字をキュウと言う。皆はバタン先生と呼んでいる。キョクゲンがこのいおりに通わなくなってかれこれ十年近く経つ。バタン先生の白い顎髭あごひげは足元まで伸び、白い頭髪はそこいらの村民と同じく、頭頂で結った髪を団子にしてきん(薄い布)に収めていた。元は白に近かったであろう衣服は灰色に変色し、禁を犯した仙人が地に落とされたかのような風体ふうていであった。家においてキョクメイはバタン先生の言葉しか口にしないので、今の容姿がどうなっているのかキョクゲンには想像も付かない。


 キョクゲンが垣根に開いた庵の入口に近づくと、ろうにつながれて長い間年月を過ごしたかのような老人がすっと姿を現した。えも言われぬくたびれた感じ、まさしくバタン先生である。


「やぁー、あんたがの兄者か、坊主、小さくなったもんじゃのー、名を覚えておらぬが何じゃったかのー」

「バタン先生もご壮健で何より。キョクゲンにございます」

「うぁー、わしゃ最近耳が遠くてのー、えぁー、そんな名前じゃったかのー、なあ不肖ふしょうキョクゲンよ」


 ボケているのかいないのかさっぱりである。キョクゲンがバタン先生に学んでいた頃から年齢不詳だったこともあり、謎がさらなる謎を呼ぶが、今しがた不肖と呼ばれたことだけは確かである。


「バタン先生、兄様、積もる話は中に入ってからしたらどうかなぁ」

「ふぁー、キョクメイはホンにええ子じゃあー、誰かと違うてな」


 キョクゲンはそれなりに礼を尽くして挨拶をしたつもりでいたが、やはりバタン先生はどうにも食えぬ爺である。キョクゲンは今しがた吐いた言葉を悔やんだ。


 庵の入口をくぐると、大人数の教え子が所狭しと机を並べて座っていた。見覚えのある煉瓦れんがの壁、簡素な床の間には不相応な見事なほこ、黄色いシミとシワが点在する『七転八倒しちてんばっとう』と太筆で書かれた掛け軸、の下に無造作に転がる欠けた風鎮ふうちん寝所しんじょにある竹製の床几しょうぎ長椅子ながいすのようなもの)、あれやこれやと懐かしい。ただもう一度ここで学べと言われれば断ること間違いなしである。机を並べた学友が嫌いだったわけではなく、バタン先生が嫌いだったわけでもないのだが、ただバタン先生が発する言葉の意味がほとんど理解できなかったのだ。というわけで成績はかぐわしくなかった。つまり先ほどバタン先生の口から出た『不肖ふしょう』という言葉は的を射ていることになる。


「のぉー、みんなー、うぇごほ、こちらに見えるはドングリ娘の兄者、かぁーっ、キョクゲンじゃあー、わしの昔の教え子じゃった者、はぐっ、みたいじゃあー」


 バタン先生がそう言うと、座っていた教え子達は一斉にキョクゲンの方を向き、うやうやしく両手を袖で合わせ頭を下げた。


「これからー、このキョクゲンとー、うごへぇぷ、ちと話をするでなー、みなさぼるでないぞー」


 バタン先生はそう言うとキョクゲンに部屋の隅へ来るよう、ちょいちょいと手招きをした。キョクメイも今日はいおりにただ立ち寄っただけなので、キョクゲンに着いてきた。


「うげろもはあああん、えげぷかああっ、ぺぇっ」


 教え子達にとってその濁音だくおんは平時なのであろう、皆黙々と机上きじょうの書に目を落としている。先生は喉に詰まっていたたんを足元の痰壺たんつぼに吐き飛ばすと、静かに語り出した。

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