第2話 酒と服
「兄様、おさかなのおかわりはまだかなぁ」
キョクメイの鼻にかかったような声にキョクゲンとユウジンは我に返った。薄暗い家の中からちょこんと小さな顔を覗かせたキョクメイが不思議そうに二人を見ている。まだ一滴の酒も胃袋を伝っていない、これでは何とも気の利かない兄と思われても仕方が無い。
「客人を迎えながら
「いや、なに……」
むしろユウジンの方がばつが悪そうに頭をかいた。
「ふふふユウジン、この日のためにとっておきの酒を用意しておったのよ」
「それはそれは、是非とも味わいたいものじゃ」
妙にもったいを付けたキョクゲンが真顔でもじもじしている。ユウジンが知る素のキョクゲンを思うに、こうなるともう悪い予感しかしない。うららかな陽気から一転、ユウジンの背中に
「じゃじゃ~ん、はいッ! お前が飲みたいのはこの銅の酒ですかぁ? それともこっちの銅の酒ですかぁ~?! そこんとこ、どうなのじゃああああ!! 銅だけにな!!!」
威勢の良いキョクゲンの言葉に反して、酒がめは一つしか置かれていない。
にもかかわらず、したり顔のキョクゲンは繰り返し問うてくる。これはもう春雨ではなく春雷である。
「どうじゃ? どうじゃ? どうなのじゃ??」
「じゃ、金の酒ということで」
「……うーむ、ユウジン殿はよほど
ユウジンのどうでも良い返しがキョクゲンには堪えたらしく、しばしの沈黙を置いてから、ちゃぽ……と音を立てた杓子がどぶろくをかき混ぜ、色が揃ってきた頃を見計らって浅い
ユウジンは何やら得体の知れない武術流派の泥仕合に勝利したかのような気持ちになって、これはこれで尻の据わりが悪い、ただ手元に杯があるのが救いである。これで次の
「ユウジンの
キョクゲンが言うやいなや、ユウジンは一気に杯を空けた。
「キョクゲンに
今度はキョクゲンが杯を空けた。
「ユウジンさんがおうちによってくれたことをしゃして」
鼻にかかった声が
「ははは、キョクメイ、そちの酒はまだまだ遠いところにあるぞ、ほれ、あの雲のもっと向こうくらいかのう」
ユウジンは手元に置かれた杯を取って空に掲げたかと思うと、大笑いしながら飲み干した。
「ユウジンさんも兄様も、ようやく
「まぁまぁ、なに、この陽気よ。酒がなくとも酔ってしまうぞ」
キョクゲンの言葉にユウジンもうなずいた。そもそもこの村のどぶろくなど、水に毛が生えたようなものである。十杯や二十杯飲んでようやく酔いが回る。
「ユウジンさん知ってる? 兄様は飲めば飲むほどケンジンになるんだよ」
「キョクメイは賢人がどういうものか知っているのか」
「しけた人」
意味は違っているものの、キョクゲンに当てはめてみると近からず遠からず、一応キョクゲンの名誉のためにと、ユウジンは言葉を選びながら話した。
「しけた人というのはちと違うなぁ、言葉の通り言えば賢い人となる。キョクゲンが賢いか賢くないかはさておき、飲むほどに冷静になるというのが正しいかのう……」
ユウジンにしても、キョクゲンという男の性質を一言で表すのは難しい。山を流れ下る川のように急流激流の瀬があるかと思えば、突如として穏やかな淵になったりもする。酒はその流れをせき止めるような役を果たすのだろうか。もっと妙なのはその性質に周りの者が瞬時に感化されてしまうということである。
「古人の言葉に風林火山というものがあるが、この男はその道理に沿わず、あべこべに風林火山が巻き起こっておるようなものだ。だから周りの者も期せずして自らの歩調を乱してしまうのだ」
ユウジンは自らが考えたキョクゲンの
「ああ、キョクゲンの
軒に落ちる影が
「そう言えばメイ、先ほど『ユウジンさんがおうちに寄ってくれた』と言ったな」
ああ、あの
「うちに寄るということは、これから
「ああ、キョクゲンには大事なことを言い忘れておったな、ここに来たのもそれよ」
「大事なこと……何やら悪い予感がするのう」
「……悪い予感はことごとく自分が
ユウジンはここ
「国王の
「出ぬのか」
「うむ。とは言え招待状を
ユウジンの家は代々王邑で商家を営んでいる。豪商ではないが名家として知られているため、祭事などで宮廷からお呼びがかかることが多い。
「気持ちはありがたいが面倒だのう。俺は王城に入ったことがない」
「なに、直接王や大臣連中と話をせずとも、末席で酒を食ろうておれば良いのじゃ」
「そんなもんか」
「そんなもんよ」
キョクゲンは突然降って
「兄様、宮廷でびゅーよ」
キョクゲンと違ってキョクメイは無邪気にはしゃぎだした。自分も連れて行けとばかりの勢いである。夜空の星をまぶしたかのような眼がそれを
「ほらキョクメイもこう言っておる。宮廷デビューじゃ」
「ううむ……だがしかし……だがしかし……」
「だがしかし?」
「ええ服がない」
ユウジンはええ服について、はてと思いを巡らせた。キョクメイもええ服ねえ……と首をひねっている。そもそもええ服の基準が分からない。
「俺の家に宮廷行きの服が何着かある。それに着替えれば良い」
「それはええ服なのか」
「ぼちぼちええ服とだけ言っておこう」
「それは一安心」
「そんなもんか」
「そんなもんよ、これで憂いはなくなった」
キョクゲンの顔が紅潮している。キョクゲンは宮廷での
「すっかりお邪魔してしまったのう。キョクゲンがどのような顔をして宮廷の席に
ユウジンがキョクゲンの家の門前で礼を述べている。昨日キョクゲンから
「ユウジンよ、この招待状を見せればよいのじゃな」
「案ずるな、ええ服についてもな」
「ユウジンさん、気をつけて行ってらっしゃい、また来てねえ」
ユウジンは手元の招待状をしげしげと眺めているキョクゲンから家の者に目を移し、再度一泊の礼を述べてから村道を下っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます