子曰く、

姫河 兎酉

第1話 春の霞

「みなのもの――――」


 摂王献侯しょうおうけんこうはその鋭い目で威圧いあつするかのごとく、宮廷をぐるっと見回した。王の言葉は重い、みな一様に押し黙っている。


「えらいこっちゃ! ついに五十歳のお誕生日がきてしもた!! 加齢臭かれいしゅうただようオッサンの仲間入りやで、いやほんま!!!」


 鋭い目でまわりを威圧しながら取り乱す献侯。そのすぐそばで言葉を聞いていた宰相さいしょうのサイショウが口を開いた。


しんつつしんで申し上げます。大王様から加齢臭ただようことすでに二十幾年いくとせ、老け顔になること既に三十幾年、おらしすること既に五十幾年。大王様はついに年相応としそうおうにおなり遊ばされたのです。これほどめでたいことはございませぬ」


 サイショウの言葉を聞いて献侯は大いに喜んだ。


「そうなんか、余はそんなに名君めいくんやったんか! 前から知っとったけど今初めて知ったわ!!」


 サイショウは言葉を続けた。


「臣、謹んで申し上げます。それでは棺桶かんおけに両足を突っ込んだ大王様をしゅくしし、お誕生会を開いてみてはいかがでしょう。なお一番の懸案けんあんである、お誕生日席に誰が座るかについてはジャンケンで決めることにいたしましょう」


 献侯は前のめりになって、ふんふんとうなずいた。


「さすがはサイショウ、ホンマええこと言うわ~! だてに税金からたっかいカネもろてへんで!!」


 久しく開催されることのなかった献侯のお誕生会だが、一年ぶりに開催されることが決定した。






 キョクゲンはしょうの人である。


 よわいは二十半ば頃であろうか、中肉中背ちゅうにくちゅうぜい、多少つり上がり気味の瞳と比べ、少々垂れ気味のバランスの悪い眉がこの男を識別するための手掛かりとなろう。


 朝早くから田畑を耕し、日が傾く頃には小さな藁葺きわらぶきの家に帰る。夜が更けるまで誰それがつづった書を読んで過ごす。晴耕雨読せいこううどくを画に描いたような生活である。決して裕福ではないが、食べることにきゅうしているわけでもなく、ごく平凡で質素な毎日を過ごしている。


 家にはさほど年老いていない父と母、一回り下の妹がいる。キョクゲンはまだ嫁をめとっていないが、両親はそれなりに気にしているようであった。


 近隣の暮らしぶりも似たようなもので、ただ自然の摂理にそって生きている。飯時になれば地の食材でこしらえたものを食べ、祭りになれば餅や団子や酒を持ち寄って皆で踊った。諸国を行脚あんぎゃしてきた村人が帰ってきた折には珍しい話に耳を傾けるのだった。


 春夏秋冬、季節ごとに多少の違いこそあれ、村自体が牧歌的ぼっかてきな雰囲気に包まれている――ただそれだけの日々なのだが、これといった志があるわけでもないキョクゲンにとっては満足であった。






 しょうはこの国にいくつか存在する王国の一つで、これまた牧歌的な国である。他の国と比べ、飛び抜けた何かというものがない。近隣諸国の間でこれといった争いごとがあるわけでもなく、交易もボチボチである。


 そんなわけだから、国も民もますます春のうららかな陽気に包まれたかのような雰囲気になっていく。それが特徴のない摂の国の特徴と言って良い。


 摂の王都である王邑うぉんちゅうはキョクゲンの住む村からさほど遠くはなく、山を三つほど超えたところにある。ちなみに王邑とはその国に住む人が使う俗称で、摂の場合だと王都の正式な名称は大邑摂たいゆうしょうとなる。


 キョクゲンが王邑に行くのは一年でせいぜい三~四回程度、古い友人連中を訪ねるくらいのものである。それ以外に王邑にはこれと言った用事が無い。その友人もキョクゲンの家まで訪れることがあるからして、自然と王邑に足を運ぶ頻度ひんどは低くなる。






 ある春の日、早めに野良仕事を終えたキョクゲンは、家から裏山へと向かって延びる小川へふらっと出かけた。木立の間を淀みない音を立てて流れる水、川面かわもに反射する春陽しゅんようが瞬きするまぶたを通してもまぶしく感じられる。


「キョクゲン、ここにいたのか、ちょいと探したぞ」


 不意に聞き覚えのある声が背中越しに聞こえたので、振り返ってみると王邑に住む友人のユウジンが立っていた。


「おうおう、これはユウジン、珍しいところで会うのう」

「いやな、家まで伺って妹君に聞いたところ、兄様にいさまは裏山へ向かったと聞いてな」


 ユウジンはあごの無精ヒゲをなでながら怪訝けげんな顔つきで言葉を続ける。


「ところでキョクゲン、こんなところで何をしておる」

蝶々ちょうちょが飛んでおったので追いかけてきた」


 ユウジンはさらに怪訝けげんな顔つきになった。


「ええ歳こいた大の男が蝶とは……さては頭に咲いたお花畑に寄ってきたか」


 今度はキョクゲンが怪訝な顔つきになった。


「いやいや、俺の頭のお花畑に蝶々が寄ってきたのではない。俺の頭のお花畑の蝶々を追ってここまできたのだから、むしろ逆であろう。いや待てよ、お花畑っておはな畑のこと?」

「うーわ、お前の話めんどくさー!」


 洟水はなみずの畑――の何たるかを問うのも馬鹿らしいので、ユウジンはやれやれと一つため息をついた。


「ときにユウジンよ、せっかくここまで来てくれたのじゃ。お前を上席で接待すべく、二者択一の選択肢を与えてしんぜよう」

「はて、二者択一とはどういうことか? 上席で選択肢??」

「このまま蝶を追いかけるか、俺の家に帰って一杯やるかに決まっておろうが、知らんけど」


 ユウジンは一瞬軽い目まいを覚えたが、花より団子、蝶より酒である。


問答無用もんどうむよう、酒だ、酒」


 問答無用と言いつつ言葉を続けたユウジンに対し、今度はキョクゲンが一瞬軽い目まいを覚えたが、阿呆あほうより酒である。


「ぱぱぱぱ~ん、はいッ! それでは鼻の穴のクソをかっぽじってよ~く拝聴はいちょうするように! 貴殿の意見をそれなりに前向きに検討してみたところ、間を取って酒ということに決まったそうです~。この寺社仏閣のごときお慈悲あふれる決定に対し、最大級の喜びを体もしくは体の一部で表しながら俺の我が家まで来るが良いわ!!」


 キョクゲンは勝ち誇ったように、呵々かかと笑いながら言い放った。


「……そうだな、まで行くとするか」


 ユウジンもまたきびすを返し、キョクゲンの家へと道を下っていった。






 二人がキョクゲンの家に近づく頃には、既に客人を迎えるべく酒宴しゅえんの用意が調っているようであった。キョクゲンの妹のキョクメイが軒先のきさきで両手を大きく振って何か言っているのが遠目に見える。あぜ道を歩きながら村の農作物についてあれこれ話しているうちにキョクメイの所まで来ていた。


 キョクメイは王邑うぉんちゅうからの久しぶりの客人にすっかり高揚している。その振る舞いからは快活な子どもらしい生気がひしひしと伝わってくる。


「ユウジンさん、無事兄様にいさまが見つかったみたいね、よかったよかった」

「ちと骨を折ったがな、キョクゲンはいつもあのような具合か」

「そうでもないよ、最近はちょこちょこあるけどね」


 何分なにぶん年端としはのいかない子ども、どちらでも大したことはあるまい。


「ちょっと見ない間に大きくなったものよ、はて何年ぶりかな」

「十二歳になった!」

「そうか、光陰とは良く言ったものだ、子どもの成長は雨後うごの……うごの……うごごごごごg」

「ユウジンさん、ささ入って入って、酒の席だよ」


 小さなキョクメイの肩越しにキョクゲンの父母の声が響いた。


「積もる話もあるんだからあんまり邪魔するんじゃないよ」

「はぁーい」


 キョクメイが少し肩をすくめてすごすごと脇に避けたのを横目に、ふふと笑いながらキョクゲンとユウジンは酒とさかなが置かれた縁側に回って腰を下ろした。


 縁側からは眼前に広がる一面の田畑がよく見える。夏になれば先ほどの小川と同じように、水を引かれた田があちこちでの光を空に向けて放つことだろう。少し眼を上げると春のかすみであろうか、かすんだ空気の向こうに新緑の山並みが見える。緩やかに揺れる風が運んでくるかすかな土の匂いが鼻腔びこうに入ってくるのを感じながら、ふぅとユウジンは息をついた。


「どうした、丘の遠足に疲れたか」

「この村はまことのどかで困る。困るというのはちと違うか、王邑うぉんちゅうの町からも山を望むことはできる。できるが、見える景色の下半分はいつも城壁だ」

「はは、違いない。知らんけど」


 ユウジンのまなざしにつられたのか、キョクゲンも手元の酒を忘れて、ぼんやりと遥か山並みに眼を向けている。


「こうしていると、蝶を追いかけたキョクゲンがあながちおかしいとは思えんのう」


 うーんと片の腕を伸ばしながら、ユウジンはしばし春陽しゅんようにひたっていた。

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