第2話 人間らしい魔王
俺が日課である家事に畑仕事にと慌ただしく追われている間、彼女はいつもの様に裏庭で寛いでいた。
陽当たりの良いベンチに座って、上品な作りのティーカップを片手に読書をしている姿を見れば、何処ぞの貴族の御令嬢と言われても信じてしまうかもしれない。それ程までに寛ぐ彼女の姿は絵になっていた。
もっとも、彼女が飲んでいるのはよく冷えたミルクだが。
誰も見ていない裏庭で、あんな高価そうなティーカップにミルクを淹れて飲んでいるのは彼女くらいだと思う。
以前、俺がいつも飲んでいるコーヒーを勧めた事があった……
『コーヒーは苦いから却下だ』
『じゃあ、砂糖を多目に入れたら良い』
『それは…何だか負けた気がするから嫌だ』
『じゃあ、紅茶は? この辺りの町だとコーヒーよりも手に入り易いし、砂糖を入れたりレモンを入れたりするのも自由だから負けにはならないだろ? 何に勝ちたいのか知らないけどな』
『そうだけど…。そうだ、ミルク! ミルクが良い!』
『ミルク? そのティーカップで飲むのか? 変だろ』
『変じゃない! ミルクは美味しいし、飲み続けていると色々お得な事があるんだ! 人間の本にそう書いてあったのだ!』
『……今更、背も胸も大きくならないと思うぞ』
『な!!!』
と、まあこんなやり取りがあったのも懐かしい。
大抵の人は魔王と聞けば、禍々しい瘴気を纏った巨漢の大男を想像するだろう。
強力な魔物を従え、力と恐怖で人間世界を征服しようと企んでいる。慈悲は無く、欲望のままに行動する。
魔王とはそういう者だ。
勇者として幼い頃からそう教わって来た。
だが現実の魔王は、彼女は違う。
体の線はスラリと細く、美しい金髪も真紅の瞳も観る者を魅了する。
人間の書いた本を愛読し、人間と変わらない感情と思考を有している。
黙ってさえいれば普通の人間にしか見えないし、背も俺の胸元辺りまでしかない。
魔族の女性の平均身長は知らないけれど、俺の身長は人間の平均よりも少し高いから、彼女の背は人間の女性と比べて見れば決して低い訳では無い。
彼女が魔王だと言っても、誰も信じないだろう。
事実は小説よりも奇なりとは良く言ったものだと思う。
核心を突かれ、怒り心頭の彼女をなだめるのは大変だった。
何しろ、見てくれはともかく現役の魔王なのだ。彼女の放つ拳の重さと言ったらもう……
咄嗟に『ご近所迷惑だ』と言っていなければ、こんな小さな田舎町は跡形も無く消し飛んでいただろう。
あの一件で、俺は下僕として主人の機嫌をコントロールする術に目覚めた気がする。
こうして俺は、彼女の悩みを一つ知ることになった。
魔王の癖に人間らしく生活を送る魔王の悩みを知った今、「人間を苦しめる邪悪な魔王を倒し、世界に平和を取り戻すのだ!」と息巻いていた昔の自分が滑稽に思える。
ちなみに俺が知る限り、彼女の数年にわたる涙ぐましい努力の成果があったのか否かは、残念ながら否だ。
何故なら、彼女が着る服を洗濯しているのも、新しい服を繕っているのも俺なのだから。当然、サイズに変化があれば直ぐに分かってしまう。
彼女を怒らせると非常に面倒なので、その辺りの事情は俺なりに上手く伝えてある。
元勇者の常人離れしたスペックを武器に、俺の下僕スキルは日々成長しているのだ。
それもどうかと思うけれど、そこは気にしたらダメだ。
日課を終えた頃にはすっかり日が高くなっていた。
俺は卵を分けて貰う為、隣に住むお婆さんの家を訪ねる事にした。
隣と言っても家が隣り合っている訳じゃ無い。
丘を一つ超えた先に家が数軒並んで建っている場所がある。その一番手前の家がお婆さんの家だ。
「それじゃあ出掛けてくる。あまりミルクを飲み過ぎると昼飯が食べられなくなるぞ」
「うむ。分かっているのだ。オムライスをオーダーしたからには抜かりは無いとも。気をつけて行って来るが良い」
本に視線を落としたまま、ティーカップを持ち上げて返事をする彼女を横目に、俺はお婆さんの家へ出かけて行った。
この町には娯楽と呼べる物が何一つ無い。
酒場が一軒あるにはあるが、子供達にとっては何の魅力も無いものだ。
時折通り掛かる行商人が連れている紙芝居屋が子供達の唯一の楽しみとなっている。
広場で虫を捕まえて遊ぶ子供達の横を通り過ぎ、畑のほとりで船を漕いでいるお爺さんを遠目に眺めながら歩いて行く。
お婆さんの家が見えて来たところで、俺はふと疑問に思った。
どうして彼女はこの町を選んだのだろうか、と。
人間の町で暮らしたいのなら、もっと大きくて豊かな街はいくつもある。家事が出来ないのなら、使用人を雇えば良いのだ。見た目も人間と変わらないのだから、住もうと思えば住めた筈だ。
ただし、美しい容姿をした彼女を見た街の男達が、彼女を放っておくというのは考え難い。
もしかしたら、そういった煩わしさが嫌だったのかもしれない。
帰ったら昼食の時にでも聞いてみるとしよう。
無事に卵を分けて貰い、御礼に森で採れた木の実や果物を渡しておいた。
こういうご近所付き合いも以前は苦手だった。
勇者として産まれ、人間を守る為に魔物を倒す事しかやって来なかった俺は、皮肉な事に他人とどう接すれば良いのか分からなかった。
魔物の事なら、生態や能力も何度か戦えば大抵分かるのに、同じ人間の事が理解出来ないなんておかしな話だ。
その話を彼女にしたらコツを伝授してやろうと言い出した。
『人間と魔物を同じ基準で考えようとするなんて面白いな。君が知っているのは魔物の生態だけだ。魔物の気持ちなんて私達魔族にだって分からないよ。
そんな君に、少しだけコツを教えてあげよう。
いいかい? コミュニケーションを取る事が大切だ。相手の事が知りたいのなら、先ずは自分を知ってもらう事だ。
自分の気持ちを伝え、相手の気持ちを受け取る。
相手が欲しいと思っている物をプレゼントするのが効果的だな。私としては物で釣るというのは好ましいと思わないが。まぁ難しく考えなくても良い。要は物々交換と同じだ。
自分の気持ちを伝え、相手の気持ちを受け取る。
そうしたやり取りをしている内に相手の事が分かって来るものさ。
そうだ。試しにいつも買い物をしている店の女主人に、採れたての果物を渡してみると良い。日頃の感謝を一言伝えるのを忘れずにな』
半信半疑だったが、言われた通り「いつもの御礼にどうぞ」と一言添えて果物を渡したら、女主人はとても喜んで、いつもより沢山おまけを付けてくれた。
彼女に報告したら『な? 簡単だろう?』と笑っていた。
だからといって、毎日渡せば良いというものでは無いそうだ。長い付き合いの中で時折そういう事をするのが効果的らしい。
人間よりも人間に詳しい魔王だなんて変わっている。
いや、人間の癖に人間の事が分からない俺が変なのか?
俺には難しくてよく分からない。
家に帰ると裏庭に彼女の姿が無かった。
飲みかけのミルクと本は置かれたままだ。
何処に行ったのかと家の中を探してみると、彼女はいつもの席に座り、スプーンを片手に俺の帰りを待っていた。
「さあ! 早くオムライスを作るのだ!」
顔を見るなり開口一番に言い放たれた言葉に思わず力が抜けそうになる。
俺は子供みたいにテーブルを叩く魔王にもう少し待つ様に告げて料理を始めた。
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