終章
終章 旅の終わり
時計台の上に登り最下層の踊り場に出ると、アウロラは地上を見下ろした。燃えるが如く
もし祭りの歌が単なる祭礼の
全ての必然が、いま、重なった。
アウロラは姿勢を正す。儀式の時と同じように、右手に鼓を持ち、その上に鈴を載せると、二つの祭器を眼の高さまで上げ、奉納の礼を取る。
時計台の立つ広場まであと一画。先の撃ち合いで興奮した馬は
しかし顔を上げればもう、そこはアウロラと初めて会った場所だった。
美しい女性像の向こうに、見る者を沈黙させる荘厳さを湛えて立つ時計台。その下層部の踊り場にアウロラが立っていた。銀杏色の衣に
一礼したアウロラの白い手が鼓と鐘を胸の位置へ止め、強くしなやかな歌声が、盛秋の冷たい空気を抜けて明朗に響きわたる。
刻み 記せよ 我が命
鼓鳴らして この
祭歌の第一連が終わると、アウロラの両手がふわりと空に弧を描き、舞が始まった。もう一度、同じ連が繰り返される。朗誦する調べに合わせて、鈴を持ったアウロラの左手は鼓を打ち、脚は拍子を刻み、全身で律動を生み出す。
生まれ
新たな時代が始まる直前に、
だがじわじわとずれはじめた周りの状況に反し、実際の「時」はどうだ。時計は止まったが、全ての営みは確かに過去から未来へ流れている。
そもそも目に見えず、五感で捉えられもしない「時」は、規則を与えられ、「時間」という概念で刻まれて、初めて整然たる秩序を得る。この世界に理性で把握することのできる「時間」が存在するのは、人が常に動く「時」を一定の決まりに基づいて数え、「時間」として刻むからに他ならない。
進むべき方向へ、時は進んでいる。
――止まった時計が気付かせたのは、在るべき秩序の崩れ。そしてそれはいま、
祭器を空へ高く掲げると、ウェスペルの時計がアウロラの手首で揺れ、その向こうにある時計台の文字盤で、
時計の停止とともに、この世界にやってきた一人の少女。止まった時計と入れ替わりに、連綿と時を刻む
シレアの時計を守る石と、ウェスペルの時計のうちにあるという石。ひと
出会うはずのないものの衝突は、これまでにない動きを生み出し、そのうちに、次に生まれ出づるものが胚胎する。
――新たに時を刻み、秩序を作れ。
鈴を鳴らし、鼓を打つ。二つの音が、夜の
祭器を手に舞を導くは、国を
眼下には地上を染め上げる紅と
時計台に向かって立つウェスペルと、時計台を背に立つアウロラの瞳と瞳が合う。その二対の双眸は、秋の盛りの紅葉と同じ、燃えるような橙色。
互いに目と目で語り合う。
――歌って。
あめつち
禁じられたる 交わりを
止めて 流れよ うつし世に
されば始まる 月日あれ
これは恋人の歌ではない――ウェスペルは悟った。時計台に嵌まる石が文字盤の針を進ませるとしたら、それと同じように、自分の腕時計のうちにあって針を動かすのも、古き時に収められた由緒ある石。この腕時計の「昔」にも同じことが起こったのかもしれないが、その是非はもはや知る
それよりも大事なのは、「
そして気づく。なぜ「
そうして遂に既存の律が壊れ、混沌が訪れたいまこの時に、アウロラの手のひらには鼓が、自分には羅針盤がある。常の
アウロラの瞳が伝える言葉に応えて、息を風に乗せ、空に向かって朗唱する。シードゥスに教えてもらった祭りの歌。盛秋の恵みに捧げる感謝の歌。
――過ぎた一年を喜び、新たな一年を
この世界が幻か、自分のいた世界が幻か。そんなことは誰が知ろう。
古の友誼はひとたび破られ、いま再び新たな形で蘇った。国に欠けた分銅は戻り、標たるべき存在は揃った。過ぎた時のうちに生まれた歪みと亀裂の中から、次なる時代の秩序が整いつつある。
ありうべき姿へ至るために、出会うべき存在が出会い、動き出した。
今宵は新月。月は新たに生まれ、海に潮が満ちる。
月光の無い夜は虚無ではなく、新たな律動の生まれる日。
時を刻み、場所を刻め。
新しい流れを生み出せ。
アウロラの打つ拍子は規則性を保ちながら繰り返され、その合間合間に鈴が振り鳴らされる。全く同じ波長を持つ二人の声は、重なり、調和し、倍音を作り出して茜色の地上から紺碧の空へ広がる。ウェスペルはアウロラの鼓に合わせて手拍子を打った。二つの音の刻みには一瞬のずれもない。歌の律動は胸の鼓動に近く、全身が調べと同調する。
あまねく時が 集まりて
光 暗闇 無に返れ
刻め 定めよ 始まりを
歌詞の最後の音が発せられるのと同時に二人の手が打ち鳴らされ、空間に
その拍手の、ひと呼吸あとである。
鐘楼の鐘が鳴りわたった。
地平線を走る
時計の大鐘は十二回、一定の間隔で鳴り響き、清澄な音は城下を抜け、森林を通り、人に聞こえぬ調べに変わっても、風に乗って遥か彼方の海の方へ、一つ前の瞬間に過ぎた日の終わりと、たったいま訪れた新たな一日の始まりを告げる。
止めた息を細く吐き出し、アウロラはゆっくりと瞼を開いた。
目の前に、ウェスペルはいなかった。
「御無事でしたか、アウロラ様っ!」
再び静寂を取り戻した闇の中で、蹄の音がこちらに近づいてくる。ランタンの灯火が道を照らし、城の方から兄と大臣、衛兵長が馬で駆けてくるのが眼下に見えた。
「城は死守致しましたぞ! 地下水も元の通りです!」
アウロラは舞の姿勢で緊張した体の力を抜き、欄干から身を乗り出す。
「ありがとう。さすがです、元衛兵長殿」
「おやめ下さい。もうとっくに引退して若い衆に任せました」
後ろで現役の衛兵長が苦笑いをしている。どうやら、手柄を全て持っていかれたらしい。
祭器を降ろすと、腕のところでしゃらりと涼やかな音がした。ウェスペルから預かった腕時計。時間は零時一分。時計台の文字盤と寸分も
アウロラは、ここ数日ないほど晴れやかに笑った。
「さあ、休んでいる暇はありません。今日の一周忌の仕度を始めなくちゃ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます