終章

終章 旅の終わり

 時計台の上に登り最下層の踊り場に出ると、アウロラは地上を見下ろした。燃えるが如くくれないに染まった紅葉もみじと、黄金こがねを散りばめたような銀杏いちょうの木々が、シューザリエ川の通る南の森、市場を中心に広がる城下、そして北に連なる山々の方まで、見渡す限り地を覆っている。白夜に広がる禍々まがまがしい茜色の中で、自分のいるのはうつし世か幻か、それともその境にいるのか、錯覚を起こしそうな色の綾。

 もし祭りの歌が単なる祭礼の祝詞のりとではないとしたら。

 全ての必然が、いま、重なった。

 アウロラは姿勢を正す。儀式の時と同じように、右手に鼓を持ち、その上に鈴を載せると、二つの祭器を眼の高さまで上げ、奉納の礼を取る。



 時計台の立つ広場まであと一画。先の撃ち合いで興奮した馬はたけり狂って足を動かし、すさまじい勢いで駆けて行く。ウェスペルには混乱した馬の御し方が分からなかった。闇雲に手綱を引くとかえって馬は逆上し、ひと鳴きとともに乱暴に体をしならせ、ウェスペルはたまらず地面に振り落とされた。地に打ちつけられた痛みに耐えて起き上がった時には、馬は道の遙か彼方へ駆け去ってしまっていた。

 しかし顔を上げればもう、そこはアウロラと初めて会った場所だった。

 美しい女性像の向こうに、見る者を沈黙させる荘厳さを湛えて立つ時計台。その下層部の踊り場にアウロラが立っていた。銀杏色の衣にあたりを支配する茜色が差し、たえなるいろどりを成して軽やかに風になびく。

 一礼したアウロラの白い手が鼓と鐘を胸の位置へ止め、強くしなやかな歌声が、盛秋の冷たい空気を抜けて明朗に響きわたる。



 色紅いろくれないと金の地に

 みそぎ注げよ 秘せし河

 刻み 記せよ 我が命

 鼓鳴らして この御代みよ



 祭歌の第一連が終わると、アウロラの両手がふわりと空に弧を描き、舞が始まった。もう一度、同じ連が繰り返される。朗誦する調べに合わせて、鈴を持ったアウロラの左手は鼓を打ち、脚は拍子を刻み、全身で律動を生み出す。

   


 生まれづる光とかえる光――国の秩序を守るべき兄と自分。

 新たな時代が始まる直前に、いにしえに友好を交わした海の民と山の民の仲は、知らぬ間に緊張関係から瓦解へと近づいていた。そして追い討ちをかけるように、安寧がほころび始めた国から、自分と共に均衡をとる分銅が欠けた。まさにそこで起こった時計の停止。それはあたかも、あらゆる秩序が崩れる前兆のように。

 だがじわじわとずれはじめた周りの状況に反し、実際の「時」はどうだ。時計は止まったが、全ての営みは確かに過去から未来へ流れている。

 そもそも目に見えず、五感で捉えられもしない「時」は、規則を与えられ、「時間」という概念で刻まれて、初めて整然たる秩序を得る。この世界に理性で把握することのできる「時間」が存在するのは、人が常に動く「時」を一定の決まりに基づいて数え、「時間」として刻むからに他ならない。

 進むべき方向へ、時は進んでいる。



 ――止まった時計が気付かせたのは、在るべき秩序の崩れ。そしてそれはいま、きたるべき律を知らしめる。



 祭器を空へ高く掲げると、ウェスペルの時計がアウロラの手首で揺れ、その向こうにある時計台の文字盤で、薄紅うすべにの宝玉が地上の光を返して閃光を放つ。

 時計の停止とともに、この世界にやってきた一人の少女。止まった時計と入れ替わりに、連綿と時を刻むしるべを手にして、このシレアへ。

 シレアの時計を守る石と、ウェスペルの時計のうちにあるという石。ひとところに在るはずのない二つの石と、ひと処にいるはずのない二人の存在。本来あるべき姿から外れてしまった二つの国が、新たな導き手の元で生まれ変わるために、もはやもつれて蒙昧もうまいとなったふることわりを廃し、全てが正しき方向へ向かって動き出すために、ウェスペルと自分が出会ったのではないか。

 出会うはずのないものの衝突は、これまでにない動きを生み出し、そのうちに、次に生まれ出づるものが胚胎する。



 ――新たに時を刻み、秩序を作れ。 



 鈴を鳴らし、鼓を打つ。二つの音が、夜の静寂しじまに印をつける。

 祭器を手に舞を導くは、国をべ、民のしるべたるべき者。

 眼下には地上を染め上げる紅と黄金きんの木々。実りの秋。その地を潤すのは、シレアを通って山から海へ至るシューザリエ大河の水の流れ。

 時計台に向かって立つウェスペルと、時計台を背に立つアウロラの瞳と瞳が合う。その二対の双眸は、秋の盛りの紅葉と同じ、燃えるような橙色。

 互いに目と目で語り合う。アウロラこちらの世界とウェスペルあちらの世界の時空の境がどこかでずれない限り、同じ時、同じ場所にいるはずのない自分と。



 ――歌って。



 あめつちゆるせ この逢瀬

 禁じられたる 交わりを

 止めて 流れよ うつし世に

 されば始まる 月日あれ

  


 これは恋人の歌ではない――ウェスペルは悟った。時計台に嵌まる石が文字盤の針を進ませるとしたら、それと同じように、自分の腕時計のうちにあって針を動かすのも、古き時に収められた由緒ある石。この腕時計の「昔」にも同じことが起こったのかもしれないが、その是非はもはや知るよしもない。

 それよりも大事なのは、「現在いま」だ。

 そして気づく。なぜ「現在いま」自分が、この世界にいるのかを。

 ゆるされざる邂逅を果たすべく時は交錯し、空間は入り交じった。混沌は、虚無ではなく、生成の源。古くから隣り合う国同士が守ってきた調和にはいつしか亀裂が走り、破綻へと向かった。それに呼応するように、とめどなく続くはずの時と水の二つの流れは乱れ、天の巡りは辿るべき方向をしっしている。

 そうして遂に既存の律が壊れ、混沌が訪れたいまこの時に、アウロラの手のひらには鼓が、自分には羅針盤がある。常のことわりを超えて出会った二人の手の内で、それぞれ時と空間に新しい標を与える。

 アウロラの瞳が伝える言葉に応えて、息を風に乗せ、空に向かって朗唱する。シードゥスに教えてもらった祭りの歌。盛秋の恵みに捧げる感謝の歌。



 ――過ぎた一年を喜び、新たな一年を寿ことほげ。



 この世界が幻か、自分のいた世界が幻か。そんなことは誰が知ろう。現在いま、この時、この瞬間に、己が感じているものが、私の現実だ。


   

 古の友誼はひとたび破られ、いま再び新たな形で蘇った。国に欠けた分銅は戻り、標たるべき存在は揃った。過ぎた時のうちに生まれた歪みと亀裂の中から、次なる時代の秩序が整いつつある。

 ありうべき姿へ至るために、出会うべき存在が出会い、動き出した。

 今宵は新月。月は新たに生まれ、海に潮が満ちる。

 月光の無い夜は虚無ではなく、新たな律動の生まれる日。

 時を刻み、場所を刻め。

 新しい流れを生み出せ。



 アウロラの打つ拍子は規則性を保ちながら繰り返され、その合間合間に鈴が振り鳴らされる。全く同じ波長を持つ二人の声は、重なり、調和し、倍音を作り出して茜色の地上から紺碧の空へ広がる。ウェスペルはアウロラの鼓に合わせて手拍子を打った。二つの音の刻みには一瞬のずれもない。歌の律動は胸の鼓動に近く、全身が調べと同調する。



 あまねく時が 集まりて

 光 暗闇 無に返れ

 刻め 定めよ 始まりを

 御霊みたま 惹かれて 紡ぎゆけ



 歌詞の最後の音が発せられるのと同時に二人の手が打ち鳴らされ、空間に木霊こだまし広がった。アウロラとウェスペルは瞼を閉じ、音が空気を震わせ天空へ高く抜けていくのを耳で追う。

 その拍手の、ひと呼吸あとである。

 鐘楼の鐘が鳴りわたった。

 地平線を走る紅蓮ぐれんの光は瞬きの間もなく消え、吸い込まれそうな夜の闇が降り、月明かりの無い空で星々が色とりどりに煌めく。

 時計の大鐘は十二回、一定の間隔で鳴り響き、清澄な音は城下を抜け、森林を通り、人に聞こえぬ調べに変わっても、風に乗って遥か彼方の海の方へ、一つ前の瞬間に過ぎた日の終わりと、たったいま訪れた新たな一日の始まりを告げる。

 止めた息を細く吐き出し、アウロラはゆっくりと瞼を開いた。

 目の前に、ウェスペルはいなかった。







「御無事でしたか、アウロラ様っ!」

 再び静寂を取り戻した闇の中で、蹄の音がこちらに近づいてくる。ランタンの灯火が道を照らし、城の方から兄と大臣、衛兵長が馬で駆けてくるのが眼下に見えた。

「城は死守致しましたぞ! 地下水も元の通りです!」

 アウロラは舞の姿勢で緊張した体の力を抜き、欄干から身を乗り出す。

「ありがとう。さすがです、衛兵長殿」

「おやめ下さい。もうとっくに引退して若い衆に任せました」

 後ろで現役の衛兵長が苦笑いをしている。どうやら、手柄を全て持っていかれたらしい。

 祭器を降ろすと、腕のところでしゃらりと涼やかな音がした。ウェスペルから預かった腕時計。時間は零時一分。時計台の文字盤と寸分もたがわない。

 アウロラは、ここ数日ないほど晴れやかに笑った。

「さあ、休んでいる暇はありません。今日の一周忌の仕度を始めなくちゃ」

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