第八話 波動(四)

 少女が道を歩いていくと、何かを焼く芳ばしい香りがふと鼻をかすめた。民家があるのだろうか。香草を混ぜてあるのか、独特のくせがあり、それでいてどこか懐かしくなってほっとする。そのまま誘われるように道を行くと、道の先は綺麗に耕された畑になっていた。まっすぐ延びた農道の向こうに、民家らしき小さな屋根裏のついた木造の家がある。

 もっとよく見てみようと、少女は歩を進めた。民家の間口は狭く、中は薄暗かった。玄関の横には鋤と鍬。恐らく農作業の途中で食事を作りに戻ったのだろう。農具は無造作に壁に立てかけられ、すぐにでも主人に持って行かれるのを待っている。そこから察するに、少女が歩いてきた農道の両脇に広がる畑はこの家の所有なのだろう。

 少女の思考力はその辺りまでで限界だった。とにかくひどい空腹で、いつの間にかじきじきと頭まで痛い。

 だが、間口の正面で少女の足ははたと止まった。

 道が消えた衝撃のせいか、よく考えずにてくてくここまで来てしまったが、冷静になってみると見ず知らずの人に「お腹が減っているのでご飯を分けて下さい」などとは言えない。少女が生まれ育ってきた環境からすれば非常識かつ失礼はなはだしく、そんなことをしたら鼻先で扉を閉められるか、やんわり場を取り繕われて、警察のお世話になるかのどちらかだ。少なくとも自分が言われたとしたらまず怪しむ。

 ――どうしよう。

 それでも空になった胃の訴えは無視できないまでになっている。先ほどぐぎゅると言っていた腹の虫の鳴く力ももはや尽き、痛みすらし始めた。胃酸が胃壁を溶かしていきそうで、そこに頭の痛みまで加わっているのだ。正直なところもう何も考えたくない。とにかく何か口に入れたい。

 すると、がたん、と古びた木の音がした。重量のある響きが胃を横殴りし臓腑を抉る——そんな感覚が走り、途端に少女は縮み上がった。続いて扉が大きく開き、中から中年の婦人が水桶を持って出てくる。婦人は重たそうな桶を慣れた所作で道まで出すと、よいしょ、と体の向きを変えようとした。

 顔をあげた婦人の目が、少女の目とぶつかる。

 ――しまった、逃げ遅れた。

 少女はその場に硬直した。手ぶらで人の家の玄関口に突っ立ち扉を凝視しているなど、あからさまに不審人物である。

 しかし婦人の反応は少女の予測を裏切った。

「あれ、またあんたかい。昼にそんな恰好で出歩くなんて滅多にするもんじゃないよ、そろそろお偉いさんたちの会議の時間じゃないのかい」

 えらく気さくに、まるで近所のいたずらっ子を叱るように笑い混じりに婦人は言い、「困ったねぇ」とからから笑った。少女がわけも分からず何も言えないでいるのに対し、婦人はいつも通りという調子で続ける。

「そうそう、この間あげた筆置きはどうだい。あれは上質の松で作ったからね。うちの人がえらく凝って彫った逸品だよ。ご飯どきまで勉強に退屈しないようって、珍しく本見ながら絵も選んでねえ……ってそういえばあんたお昼ご飯はどうした。お偉いさんとの会議が終わったあとじゃないのかい、お城では。大臣さん大慌てだろうよ、お目玉食らうんじゃないか」

 そこまで話し続けても少女が全く反応しないのに気がつき、ようやく婦人は言葉を切ると、初めてじぃと少女を見た。少女は話された内容の整理がつかず、しかも凝視されてさらに戸惑ってしまう。自分は逃げるべきなのか、いや、それではただの失礼な人だから挨拶するべきなのか、しかし何を言ったらいいのか、と空腹で朦朧としてきた頭の中にいくつもの選択肢が駆け抜ける。

「あの」

 緊張と困惑がもつれにもつれ、さらに気持ちの悪さでうまく発音できない。

「えと……わた……」

 そこまで言ったところで、少女の脳の動きは停止した。

 低血糖で意識が飛んだのだった。


 




 目を覚ました少女が見たのは、柔らかに差し込む陽射しにほんのり照らされた木板の天井だった。顔のすぐそばで陽光を浴びた綿の匂いがし、それに混じって甘い香りが鼻をくすぐる。その途端、腹がおはようございますとばかりに鳴った。

「おや、起きたかね? 食欲はあるようだ」

 聴き覚えのある声がする。中年の女性の声だ。少女は身を起こした。毛布が上体から滑り落ちる。いつの間にか布団に寝かされていたらしい。突然起き上がった頭はまだぼうっとするが、胃だけは完全覚醒して空腹を訴え続けている。

「一応、砂糖水を口に含ませたら飲めたからね。まずいことにはならなかったけど焦ったよ。そのあとぱたっとなってさ。でも爆睡ってだけみたいだったから好きにさせといた。いやまあ起きるのは早かったねぇ、眠気より食い気が勝ったかい」

 婦人はまたもからからと笑う。ただ少女が半身を起こしているのは柔らかい布団の上であり、枕には可愛らしい刺繍が施された肌触りの良い布がかけてあり、枕元には綺麗に畳んだ手拭いが置いてある。顔を拭いてくれたのだろう。風に吹かれて埃っぽかった皮膚の感覚は消えていた。「好きにさせといた」というには大層失礼な、手厚い介抱と心配りである。

 お礼を言おうと口を開いたら、またも胃が先にものを言った。

 少女は頬がたちまち火照るのを感じたが、婦人は目を細めただけで、「まあとりあえずはお粥でも食べなさいな」と小さな木の器を少女の前に差し出した。先の匂いの正体だ。牛乳で煮込んだ粥らしきものの上に、細かく刻んだ葉が散らされた賽子さいころ状のパンと、甘い蜂蜜に煎った木ノ実がまぶされていた。

「あ、ありがとうございます、頂きます」

 急いでお辞儀をし、お言葉に甘えて、と少女は匙を口に運んだ。家の外で嗅いだ香りはパンにまぶされた香草のものだとわかった。熱い、甘い、美味しい、お腹減った、という言葉が頭を一挙に襲い、反射的に次のひと口をよそう。夫人はやや驚いた顔をしながらも、皿の底が見えてきたところで鍋から器にお代わりを入れた。

「まあ、その様子でもわかるけど、どうやらお嬢ちゃんはあの困ったちゃんじゃないようだ。それでもってそっからすると、ここの人でもないみたいだ。随分と長いこと食べてなかったみたいだけど、どっからいらしたい」

 三杯目をよそったところで婦人が尋ねた。少女の方も、まともに思考できるくらいには食欲による脳内占領が終わっていた。

 どうやら自分は婦人の知っている誰かに似ているのか。いや待て、まずは。

「すみません、何だか知らないうちに倒れちゃったみたいで。お恥ずかしい。ええと、お布団とご飯と、あ、その前にお水もでしたか。あの、本当にありがとうございました」

 ――で、私はどうしたんだっけ。

 婦人の質問に答えようと急いで記憶を辿り、自分でもまだよくわからないままに一つ一つここまでの行動を文章にしてみる。

「旅行中だったんですよ。秋晴れが綺麗で、気持ち良くて、宿から近いところを散歩に、と思って」

 夜行列車を乗り継ぎ、旅行荷物を抱えて街に着いた時には日がだいぶ動いていた。重いものを持つのも疲れたし、ずっと車内にいてすぐに人の多い観光名所に行く気もしない。ならば一度、新鮮な空気でも吸いに散歩がてら宿の近場を歩いてみようと思ったのだった。地図を見たら散歩にちょうど良さそうな森林公園がある。歩いても十五分くらいというところだった。

 そこは五百年ほど前に一帯を治めた領主の居城の跡、と書いてあったように思う。もともと訪れた土地の歴史を知るのも旅の目的の一つで、ちょうど良いからまずは古いお城のあったところを見てみるつもりだった。すると行く途中で、目を見張る鮮やかな並木を目にして足がそちらに向いたのだ。道は緩い傾斜になっていて、登るごとに色付いた木々も増し、電車移動の後の気疲れが癒されていくのと旅行時に起こる例の静かな興奮とに背中を押されて、感嘆を漏らしながら上やら横やらを見ながら歩いていたのだった。

 初めは高揚した気分で時間も意識しなかったが、三十分以上は歩いていたと思った。宿までの移動中には焼き菓子を二つ三つ口に入れただけだったし、買い物のつもりもなく荷物も宿に預けてきてしまった。さっさと城まで行って戻って、ご飯を調達しに出直そう、と急いだのを覚えている。そうしたら。

「道に迷ってしまったみたいだったんですよね」

 なんかちょっと違う気もするけど、と頭の中で加える。

「お城っていうところまで行こうと思って歩いていたんですけれど、思ったより遠かったのか……想定外のところに出てしまって。来た道を帰ろうにも、道がなくて」

「森から来たって、この家の先の森かい。あっちの森の向こうに行く道は私も知らないからなんとも言えんねえ。獣道通って来たのかい」

「いえ国道から入って。ですから道が消えてて」

「そんな道が消えるとか。人が働いて作ったものはそう簡単に消えていいもんでもないよ」

 だからおかしいのは少女にも分かっているのだが、消えてしまったものはそう説明するより他に仕方あるまい。

 腑に落ちない少女とは逆に、婦人にはあまり真剣に不審がる様子がない。

「あはは、空腹で幻覚でも見たかねえ。通ってきたんならどっかにあるだろうよ」

 そう言われると、土地勘がないだけに少女にもそんな気がしてしまう。とにかく空の胃は満たされたし、旅行中だし、知らない街だし。宿には日が暮れる前に着けばいい。

 婦人は毎日の家事労働を思わせるふっくら筋肉のついた腕を組み、うーん、そうだねえ、と思案顔で続けた。

「ともあれ、城ならちょっと遠いけど少し先にあるよ。とりあえず行ってみれば? 父ちゃんもうすぐ中心の方に行くし」

「馬がもう少しでメシ食い終わるから、そしたら出る」

 ばたん、と扉が開いて、「父ちゃん」らしき中肉中背強面の男性が、強面そのままの声で言った。

「明日は城下には行けないから、行くなら行くぞ。さっさとおまいさんも残りを食べちまって支度だ」

 少女が「は、はいっ」と慌てて器を持ち上げ口に粥を急ぎ運ぶところ、閉まる間際の扉からもう一度声が飛んできた。

「喉つまらせんようよく噛め。火傷するからよく冷ませ。おまえ、この嬢ちゃんに途中で食べる果物と菓子、用意してやんな」

 強面に似つかわぬ一言である。

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