第二話 予兆(二)

 南海の荒波を逃れて妖精が移り住んだという伝説が残る、緑濃い森に囲まれたシレア国。その王都シューザリーンは、雪を冠した北の尾根の向こうと南の海洋を結ぶ交通の要所の一つである。北に広がる高山地帯から下る太いシューザリエ川は、都の中心を南北に縦断し、商人たちの検閲所を兼ねた城下町の南門をくぐると、その先の森を通って平野を蛇行し、隣国のテハイザ王国を抜けて海へ流れ込む。

 王城から徒歩で少し行けば、常に商人が行き交う活気溢れる城下町に至る。城下はシレア国の宝である時計台を中心に、東西に塔を一つずつ持ち、その三つを横軸として市街が整備されている。時計台には、組み鐘のある最上部と中間部に物見台の役目を果たす踊り場が作られており、そこに立つと太陽はちょうど東塔から昇って西塔に沈むように見える。

 あたかもこの世界の中心で、天の動きを追うように。

 東塔越しに地平線から太陽が昇ると朝の合図である。にわかに街に人が繰り出し、あちこちから気兼ねなく交わされる朝の挨拶が聞こえ、朝食の材料を買いに石畳を走る見習い小僧の靴音が響く。宿屋の煙突からは煮炊きの煙が上り始め、商人をはじめとする旅人たちは、厩へ愛馬の調子を見に欠伸あくびをしながら客室から出てくる。大河の船着き場では、山村から朝市に農作物を売りに来た農家の舟や、これから南門を抜けてテハイザへ発つ商船の船頭たちが、波の機嫌を言い合っては互いの旅路に祈りを込める。

 清々しい空の下で、いつものように目覚めの生気が漣のように広がっていく。

 その穏やかな城下の中、ひときわ澄んだ明るい声が通る。気づいた者が顔を上げれば、街路に立つ人々と挨拶を掛け合いながら、一人の少女が駆けて行った。

 もう秋も本番という昨今の朝は少し肌寒い。だが極寒の冬と比べれば心地よいくらいで、毛で編んだ上着を一枚着ていれば凌げる。山村部で育つ山羊の毛は暖かく、伝統的な民族文様を織り込んだ服飾品は国内外で評判の高いシレアの特産品の一つである。少女は向かい風で煽られた上着の合わせを片手で引き寄せると、だんだん近づいてきた時計台を仰いで足を速めた。前方の道の先に、朝市に並ぶ露店の屋根が見えてくる。

「おはようございます! 今日もいいお天気ですね! 赤くて蜜いっぱいの林檎を五つ、栗を一籠、それからよく熟れた柿があれば三つと、あと南瓜を下さい、甘くて大きめの!」

 八百屋の店先ではきはきと注文したのは先の少女。歳は十八。この国ではそろそろ落ち着いてもいいような年頃だ。肌の色は北国の娘らしい透き通るような白で、茶に近い髪によく映える。頬は上気して色付き、笑んだ形の唇は紅をささずとも瑞々しい。

 そしてなにより人の目を引くのはその双眸。長い睫毛の下で光るのは、盛んな紅葉もみじを映したような、輝くばかりの橙色。

「はいはい、毎度ありがとう。でもそんなに持っていける?」

 二つ返事で答える八百屋のおかみに、少女は腕をまくって筋肉を見せてやる。

「鍛えかたならそんじょそこらの男に負けてやしないわよ。大丈夫! 追加は後でお願いするとして、まずはこのくらいならへっちゃらよ。近いんだし、ひとっ走りで帰るから!」

 にっこり笑う顔には、葉っぱが陽光をはね返してあたりを照らし出すような強さがある。

 おかみは注文の品を見定めながら、半ばからかい調子で尋ねた。

「今日は怒られないのかい? あたしはかばってやれないよ?」

 おかみの手元を見守る少女の目は輝いて、見事に育った秋の恵みに喜んでいた。おかみの懸念を吹き飛ばすがごとく、よく通る声は自信たっぷりだ。

「大丈夫大丈夫。というよりいつだって大丈夫。だって私、悪いことはしてないもの」

「と言っても、そろそろあなたさんもお年頃でしょう。少しばっかしお行儀とか身につけないと、そりゃあ皆様も心配するでしょうよ」

 おかみの言葉はまるで自分の娘に向けるもののようで、それがちょっと嬉しくて、くすくす笑いながら少女は返す。

「お行儀を尽くしてうわっ面だけ出来上がった私を好む殿方なら、こちらから願い下げだわ。私の自然を好んでくださる方がよろしいの」

 言いながら少女は優雅に礼を取ると、苦笑するおかみに支払いを済ませ、荷物でいっぱいになった買い物籠を抱えて踵を返して土を蹴る。おかみはその後ろ姿を目を細めて見送った。朝日が少女を取り巻いて、まるで少女自身が光っているようだ。

 ただ、若い活力に満ちる少女を微笑ましく思いながらも、その身の上を知る者としては、やはり心配せずにはいられなかった。




 市場から脇道に入り、また小さな市場を突っ切って別の小道に入る。今度は建物と建物に挟まれた間道に滑り込み、住人が見ないうちに隣の小路へ出て大通りへ。そして通りを渡ってまた細い道へ駆け入る。目的地に向かうには大通り沿いに行くよりも小道を抜けた方がずっと速い。それに、少女は目的地に近づけば近づくほど、人目の多いところは通りたくなかった。急ぐ時ならなおさらだ。

 あといくらもしないで鐘楼が鳴り出す。

 頭上で羽ばたきが聞こえ、鳩の群れが塔のてっぺんへ帰ってくる。管理人が彼らを朝の散歩から呼び戻したのだ。ということは、もう時間ぎりぎりということだ。最後の通りで一気に速度を上げる。次の角を左折したら終着点だ。少女は減速せずに体を斜めにして角を曲がり、植え込みの間に隠して作った秘密の隙間をすり抜けて、目の前の木戸に突っ込んだ。

「お帰りなさい」

 閉じられた扉の音は意外にも尋常ではない大きさになって石造りの小部屋に響き渡った。それにもかかわらず、少女に声を掛けた人物はそれまで行っていた棚整理の手を止めもせずに、落ち着き払って戸口の方を振り返る。

「ただいま、はいこれ」

 後ろ手に閉めた扉を撫でつつ、少女もしらっと籠を突き出す。

「買い物なら僕が行きますってば。また叱られたらどうするおつもりです。というより、また大怪我なさったら僕はどう言い繕ったらいいんですか」

「大丈夫よ。その中に新鮮な川魚が入ってるから、早いところ調理場に持っていって捌いてちょうだい。それと美味しそうに熟した果実が安かったから冷やして絞って食後の飲み物にして。南瓜はどうするかわかってるわよね。それから、私は大した怪我をしないから大丈夫だし、悪いこともしてないんだから、言い訳なんかしなくても何ら問題がないじゃない」

「そうは言ってもですねぇ、本来、厨房のことは城の医師の相談のもとで下働きのものが買い出しに行ってくるわけですから。そして姫さまに何かあった時に姫さまは叱られるだけで済むかもしれないですけど、僕たちは首が跳ぶかもしれないのですよ。それを、彼女は下男の代わりに買い物に行って負傷されました、なんて口が裂けても言えますか?」

 溜息交じりに言われた言葉に、大丈夫、大丈夫とひらひら手を振りながら、少女は部屋の奥にある扉の向こうに消えた。その先の石段を駆け上がる靴音は、軽く床を弾きながらあっという間に遠のいていく。若い下男が彼女の買ってきたものの詳細を聞く暇はなかった。

 渡された籠の中を見て、ぎっしり詰まった食べ物に下男は再び嘆息する。聞いた以上に色々と詰まっていて呆れた。

 どのみち、彼がこの破天荒な王女を止めることに成功したためしはないのだったが。

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