予兆

第一話 予兆(一)

 天空へそびえる時計台の鐘が、朝の訪れを告げる。


 冴え渡ったそらの下、混じり気なく澄んだ鐘のは、その振動を妨げる抵抗は粒子ほどもないかのように、空気を抜けて響き渡る。

 組み鐘が最初に振れたのを合図として、城の高い塔から伝書鳩がいっせいに羽ばたきたつ。城の窓からあどけなさの残る少女が顔を出す。飛翔する鳩の群れを仰ぎ、紅葉もみじ色の瞳が輝いた。鳥たちは少女を振り向きもせず、小屋から放たれる一時いっときの自由を待ち侘びていたと、青い空を突き抜けんばかりの勢いで上昇していく。

 鐘の音は海からの風に乗って街のすみずみまで伝わり、花々を、木々を、野の動物や家畜、そして人々の目を覚ましてゆく。


 一日が動き出す。


 民家の納屋が開けられ朝の仕事が始まる。市場では焼き上げられたばかりのパンが道行く人の足を呼び寄せる。果物売りが両手に網籠を抱えてよいしょと立ち上がり、そのそばを新聞配達の小僧が鞄をひっさげ駆けていく。


 また一日が始まった。


 季節は秋。紅葉の秋。実りの秋。祭りの秋。

 鐘の音は一年間をゆっくりと数える。その音の高さ、長さは、どの日も等しいように聞こえるが、実際は一日一日、その日によって微妙に違う。同じ日など二度とない、一年にただ一度しかない日を、その日だけの音とともに、時計台の針は時を進めている。記録にすらない遠い昔、「一年」という誰が生み出したのかも分からぬ暦がこの土地に馴染んだ頃にはもう、定められた時の刻みに沿うように、この時計の針は動いていた。国の人々は、ある時はその鐘の音を慈しんで「鐘楼」と、ある時はその時のしらせに感謝して「時計台」と呼びながら、親から子へ、子から孫へ、いにしえに授かったその宝を伝え、今に至る。

 国を治める者が幾代変わったかなどもはや知れぬが、鐘楼の時計はただの一度も狂ったことはないと言う。優れた学者が発明したのか、彼方より伝えられたのか分からぬが、設計理論は今の学知に残らぬもの。しかし知る必要などもない。なにしろ、鐘楼の時計は一分一秒たりとも狂わない。人の手を必要とせずして、止まることも壊れることもなく、常に針は動き続ける。人々がすることといえば、親愛の情を抱いて鐘楼の音を聞き、定期的に時計を磨くことで、時を告げる仕事に返礼をするだけ。

 この国に、他に時計はない。鐘楼の時計の針だけが、時という名のつく全てのものの基準となる。 

 この国では、それが「時」の刻みを知る唯一の手がかりだった。

 鐘楼の時計だけが、一日、一年、という時のひと巡りを知らせるのだ。

 今日もその音は朝を伝える仕事を終える。澄んだ響きの名残りが空気を優しく震わす中、城の裏口から一人の少女が音もなく飛び出した。

 頭巾を押さえて空を見上げたのは紅葉の瞳。眩い太陽にきらきらしく笑んで、澄んだ空気を吸うやそのまま駆け出した。

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