本番の旅
月曜日の朝京子ちゃんが
「糸ちゃん、また疲れてない? 」と言ってくれたけれど、疲れているというより、ミミミが目を覚まさないのが心配だった。
「大丈夫だよ、ありがとう京子ちゃん」
「ねえ、糸ちゃん、ウサギのマスコット作ったんでしょう? ランドセルに付けるといいのに」
「あー、ちょっと大きすぎてね、無理なの」
「今度見せてね」
「・・・うん・・・・・」ちょっとためらいがちに言ってしまった。
最後の事だけは考えないようにすれば、初めての旅は、知らないことがいっぱいで楽しかった。まるで、見たことのないような大きくてきれいなケーキを一口だけ食べて、すごくおいしかったような気分だった。あの街と博物館が世界のどこかにあるんだと思うと、とってもうれしくなった。
「ねえ、京子ちゃんは海外旅行に行ったことがあるの? 」
「ないけれど、親戚のおばさんが海外に出張に行ったときに写真や、かわいいお土産をくれるの。この前はね、毛むくじゃらの白い花の押し花だった」
「毛むくじゃらの白い花? 」
「何かわかる? 」
「うーん・・・・あ! わかった! エーデルワイスだ! 」
「糸ちゃんすごい! 」
「外国の白い花って言ったらそれしか知らないもの」
「そうだよね、私もそう! 」
学習発表会で、ドレミの歌とエーデルワイスを演奏したことがある。エーデルワイスは白い花という説明だったけど見たことはなかった。
「そうか・・・毛むくじゃらなんだ」
「スイスの寒い所にあるからだろうね」
「今度見せててね、京子ちゃん」
「うん」
その日も何事もなく過ぎていったけれど、私はやっぱり図書室に行ってちょっとレースの本がないか探してみた。レース編みの本はあったけれど、でも
「一つの旅が終わってから」というミミミの言葉を思い出して、とにかく借りた本だけを返した。
「お前・・・やっぱり変だぞ」
学校で礼に言われたこと以外は、別に何もなかった。
私は家に帰り、部屋に置いてあったコップをよく見て見た。お母さんから見つかりにくい場所に置いて、しかもコップのしま模様ちょっきりに水を入れていた。それがちょっとへっている。
昨日から本当はいろいろ考えた。久重さんを呼んだ方がいいのか、どうしようかなと。でもミミミが旅の前に
「帰りたくなったら言って」と話したのだから、マルクの「トイレ事件」はそう大変な事でもないだろうと思った。ということは・・・
「ねえ、ミミミ、起きて。もう怒ってないから」
「本当!! 」
とベッドからぴょん、と飛び起きたミミミは私の方をみるなり
「糸ちゃん、やっぱり怒ってる」
どうも私はそんな表情をしていたらしい。
「仕方がなかったんだ、マリーにはなれないだろう? ボビンレースの経験がある子なんだから」
「それはわかるけど・・・」
「ちょうどいい子がいなかったんだ」
「ん? 遠くに小さな女の子もいたような・・・」
「え? 」
その時ははっきりと言えなかったが、この後もどうもミミミは私を「男の子にしたい」ようだった。女の子の私が男の子になった時の「体の感覚の違い」が知りたいらしく
「ミミミはお医者様だったの? 」
「うーん、興味があるだけ」
と、あとあと聞いた。
「でも・・本当にきれいだった、ボビンレースって難しそうだけど、面白そう。展示されているものも、ゆっくり見たかったな」
「それは大きくなって、自分で行ったらいいよ、糸ちゃん」
「そっか・・・それはそうだ。でもこれが旅? 」
「いやいや、違うよ、これは練習みたいなものだよ」
「練習? 」
「いくら夢でも、糸ちゃんちょっと疲れただろう? 」
「そうみたいね、その後ぐっすり眠ってた」
「どうしても経験していることだから、ちょっと疲れることがあるんだ、だから・・・」
「学校がお休みの前の日なのね」
「そう、それと学校の大きな行事のことは教えてね」
「わかった、ありがとうミミミ。じゃあ、次の旅は・・・ねえ! 今度祝日があるよね! 」
「大丈夫かい? 家族で出かけたりしないのかな? 」
「うん、その日は予定はないよ」
「よし、じゃあその日が「本番の旅」だ」
「ありがとう、ミミミ! 」
次の日からは京子ちゃんが朝心配することもなく、旅の前にミミミとエーデルワイスを京子ちゃんのお家のテーブルに置いた。おばさんが編んだレースのテーブルクロスの上に。
「まあ、糸ちゃん、ていねいに作ってあるわね」
と言われてうれしかったけれど、かがり縫いのミミミの目がどこか動いているような気がして、落ち着いた気持ちになれなかった。
「おばさんのクッキーとってもおいしい」
と言った時、私はミミミのそわそわした感じがが何となくわかった。
「そう、たくさん焼いたから、持って帰ってね、この前のお菓子のお礼に」
帰り道、ポケットのミミミはこっそりそれを食べた。
「おいしい? ミミミ」
「うん! えーっとバターじゃなくてこれは・・・」
「マーガリンだよ、多分お菓子作り用の。お母さんもそれを使うの」
「そうだったね、おいしい・・・」
ポケットの中で小さな音がしているのを、すれ違った自転車の子が気が付かなければいいけれど、と思った。
そしてお休みの前の日
「糸ちゃん、じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、ミミミ」
あの日と全く同じように、私はすぐに眠ってしまった。
しばらくたって、だんだんと人の声が聞こえてきた。加えて甘くて優しい、おいしそうな匂いもした。
「外国の言葉はわかるようになるんだよ、そして特別な言葉もね」
この旅の前、そう教えてくれたミミミの声ではかった。
「女の人の声・・・若い、それと年をとった人・・・話している」
私はゆっくりと目を開けた。
すると目の前に見えたのは足だった。
人の足、椅子の足、テーブルの脚が私の目の前にある。それがとても大きく感じる。
私はキョロキョロと周りを見た。ここが木の古い家のであることよりも何よりも、私のすぐ横のものに驚いた。真っ黒な毛の動物の手、まさかと思って右手をあげてみると、その通りに動く。
「私、猫になっているの? 黒猫? 」
自分ではそう言ったつもりなのだが、しばらくして聞こえてきたのは
「ミャーー、ミャー」という鳴き声だった。
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