拾壱 無職初日の憂鬱


 PiPiPiPiPiPiPiPi……!


 耳をつんざく、けたたましい電子音が鳴り響いた。

「ん……んぅ……」

 小さく唸りながら俺は泥のような眠りから這い上がる。ごろんと無意識に寝返りをうつと、毛布の柔らかさと暖かさを感じた。ああ、俺は眠っていたのだな、と自然に理解する。

 相変わらず強烈な電子音を響かせるのは自室に据えてある目覚まし時計だ。俺は半分寝ぼけたまま、ベッドサイドに置いてある目覚まし時計を止めようと手をずいと伸ばした。手で探って探し当て、その頭についているボタンを押せば目覚まし時計は素直に沈黙した。

「ふぁ……」

 暫く布団の中でぐずぐずとしていたいような気持ちだったが、仕方なくゆっくりと身を起こす。目を凝らせば見えてくるのはお世辞にも綺麗とは言いがたい単身者用の1K物件。狭いベランダへと続く窓からカーテンの隙間を縫って僅かに朝日が差し込んでいた。

 俺は首の後ろに手をあてて眠気と折り合いをつけようとする。

 しかし、それにしても妙な夢を見たものだ。

 派手な男に無理矢理連れて行かれたバーで意味深な言葉を吐くマスターに酔い潰され、その帰りに深夜徘徊をする少年と不可思議な空間に迷い込み、カマキリと人間の女性を掛け合わせたかのような化け物に襲われ、そしてこれが夢であることを示唆した少女と出会う。

 まるでオカルト映画だ。どこからが夢だったのか漠然としていることも気持ちが悪い。

 だが、俺はひょいと肩を竦めると、とりあえず洗面のためにベッドから立ち上がり洗面台へと向かった。まずは身繕いが先決だろう。

「あれ?」

 洗面台の鏡で自分の顔を見ると、違和感。髪をセットしたまま寝てしまったのだろうか。グシャグシャの酷い有様だ。昨日は酔っていたから帰るなり寝てしまったのだろうか。

 シャワーを浴びる時間はあるだろうか、と時計を見てから、はっとする。そうだ俺は今日から無職なのだ。時間を気にする必要はなさそうだった。

 風呂場で念入りに髪と身体を洗ってさっぱりして出てくる。部屋着にしているスウェットのパーカーとズボンは楽だが、昼間から着ていることにあまり慣れない方がいい着心地だなと思った。

 最後に歯を磨いてようやく人心地ついた俺は、昨日の記憶の何処からが夢だったのかを検証する作業に入った。

 まず、昨日着ていたコートの内ポケットから財布を取り出して確認すると、あのバーに置いてきた分だけ金額が減っているようすだ。あのバーであったことは現実だと思っていいのだろうか。

 そして次に、あの化け物と対峙した時、化け物に切り裂かれて中身をぶちまけてしまった俺の通勤用のショルダーバッグは、部屋に一つだけあるテーブルの上に無造作に置かれていた。こちらは切り裂かれているどころか、傷一つなく無事だった。やはりあの化け物は俺の夢の産物だったと考えてよさそうだ。

 つまりあのバーで酔い潰された俺はなんとか家に帰り着いたものの、その記憶をなくすほど酔っていて、力尽きるように眠り込んで、あのオカルトじみた夢を見たということか。

「はは、全く、無職初日から暢気のんきなもん……だ……な……?」

 しかし俺の言葉の語尾は力なく消えていく。それ・・に気付いた瞬間、全身からざあぁっと血の気が引いていくのが感じられた。

 そうだ、どうして気付かなかった? このバッグには大切なものがついていたじゃないか! 肩紐に取り付けていた蝶をかたどったチャーム。妹の、蝶子の形見。メッキがはがれて少しみすぼらしかったが、他の何より大切だった俺の正義

 どこへ行ったのだろうか。酔って前後不覚になった拍子に落としてしまったのだろうか。本当に無くしてしまったのだとしたら、俺はどうすれば――。

「――!」

 その時、俺はバッグにまつわるもう一つの違和感に気づいた。

 バッグには不自然なほど傷一つないのだ。勿論、汚れの類いも見当たらない。一ヶ月と少しとはいえ通勤に使っていたというのに。そういえば一度コーヒーを鞄に零してしまって表面に僅かなシミが出来たことがあったが、そのシミも綺麗さっぱりなくなっている。

 そしてそれに気付いたことで、俺はカチカチと全てのピースが合致したように自動的に一つの可能性に行き着いた。

 つまりこのバッグ、デザインは俺が通勤に使っていたものと寸分違わず同じではあるが、全く別の新しいものにすり替えられているのかもしれないということだ。普通ならそんなものが一晩で用意できるはずもなければ、そんなことをする意味もないだろう。

 だがあの夢だと思っていた経験が現実であったのなら、俺にあの経験を夢だと思わせるために切り刻まれてしまったバッグと同じ物を慌てて用意したということならどうだろう。チャームがついていないのも、不自然にバッグが綺麗なことも説明がつかないだろうか。

 閉まったままのカーテンの隙間から漏れ入る朝日をじっと見つめて考える。

 馬鹿らしいのは重々承知だ。それが真実だというのならば、あの化け物の存在も現実であるということになってしまう。

 だが、俺は例えあの恐ろしい化け物が現実のものになるとしても、真実を知り、あのチャームをこの手に取り戻す必要があった。だってあれは俺にとって蝶子の形見であると共に、自分のスタンスを決定付けるために必要不可欠なものだったからだ。

 俺はぎゅっと下唇を噛み締めて決意する。一度、ナイトチルドレンを追うことは忘れて、形見のチャームを取り返すために昨晩会った少年少女を追いかけてみよう。あのバーで聞いた話が本当ならば、このまま無計画にナイトチルドレンを追いつづけても空振りに終わる可能性が高い。ならば、足元を固める意味でも、先にチャームを取り返すことは意味がありそうだ。

「………………」

 俺はその場ですくりと立ち上がり覚悟を決めると、窓へと歩み寄って勢いよくカーテンと窓を開け、ベランダへ出る。……快晴。

 胸の内に溜まった澱を追い出すように、冷たい空気をすうと吸って吐いた。

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