拾 黄金比は9:1

 化け物がその場から消えても、俺はしばらくの間じっとその場で動けないでいた。

 じったりとした得も言われぬ時間が幾分か過ぎた頃に、後ろから俺の口を塞いでいた白い手がするりと解かれる。それと同時に、俺の身体を縛っていた謎の硬直も解け、俺はその場で上半身を地面へ倒れ込ませた。

 地面に大の字になって寝転がる俺は全力疾走した後のように息が上がっていて、汗だくだ。だが、生きていた。生きていることをこんなに実感したのは初めてのことだった。

「はは……はははははっ!」

 そうしたらなんだか無性におかしくなってきて、俺は笑った。肩を揺すって、くつくつと笑う。

「何笑ってんの、気持ち悪い……」

 寝転がって笑う俺を上からのぞき込む影があった。俺がふと見上げると、そこには紺のセーラー服を着た少女がいた。

 肩まで伸ばした髪を揺らしながら、俺の顔をのぞき込んでいる。つり目で少しキツい印象も与えるが、概ね可愛らしいと言っていいだろう少女。さっきの白い手の主だろうか。

「あいつはどうして俺を襲わなかったんだ……?」

 俺はまず一番の疑問を彼女にぶつけてみた。あんな目の前にいたのに、何故あいつは鎌を振り上げることもしなかったのだろう。

 すると、彼女は腕を組んで思い出すようにしながら、視線を先ほどまであの化け物がいたあたりに向ける。

「見たでしょ、あいつはカマキリの特性を真似てるの。カマキリは生きて動いてるものしか襲わないでしょう? だから、動かなければやり過ごせるかもと思っただけよ。確信はなかったわ」

 確信はなかったと言われて少しぞっとする。彼女の思惑が外れていたら、俺たち三人はあの化け物に切り刻まれて、命はなかったわけだ。

「本当に、君の機転に助けられたんだな……」

 俺はしみじみと今の自分の無事を噛み締めて、言葉の最後に素直に「ありがとう」と感謝の言葉を告げた。だが少女はつんと唇を尖らせてそっぽを向いてから、俺の腹の上でぐったりしている少年を顎で示す。

「別にあんたを助けたくてやったことじゃないわよ。私は彼が死ぬと困るだけ」

 ……そうだ、彼は無事だろうか!

 俺は少年の安否を確かめるために肘で無理矢理上半身を起こして少年の様子を見る。

 少年は俺の腹を横断するように俯せになり、浅く早い息を繰り返している。額からはまだ血が少し滴っていたが、幸い命に関わるような出血ではなさそうだ。だが意識を失っているということは転がった際に頭を打ったのかも知れない。とにかく、一刻も早く病院に運ばなければ。

 しかし、そう思って立ち上がろうとした俺を少女が腕を引いて引き留める。

「あんた、彼を病院に連れて行こうとか思ってる? やめときなさい、この怪我をどう説明するつもり? どうせ、あんたが通り魔として捕まるだけよ」

「っ!」

 確かに、化け物が出たのだと吹聴しても誰も信じるわけがない。俺の正気が疑われ、最悪は少年を襲った通り魔の自作自演として捕まるという展開にも現実味があった。しかし俺は思いきって彼女の手を振り払う。

「……それでも、この子には一刻も早く治療が必要だ」

「!!」

 今度は逆に少女の方が面食らったような顔をしていた。俺はその少女には構わずに少年の腕を肩に担いで彼の身体を支えると、ここから出る道を探そうと立ち上がって辺りを見回した。だが、少女は慌ててその俺の前に両手を広げて飛び出してきた。

「ちょっ!? 待ちなさい、何かっこつけてるの!! 彼には私が然るべき処置をするから、あんたは大人しく家帰って布団の中で震えてなさいよ!」

「……処置? 君は医者……じゃないよな?」

 セーラー服の少女はどう見ても十代にしか見えない。その彼女が怪我人に正しい処置が出来るだろうか……?

「~~~~ッ!! ああもう、めんどくさい男ね、あんたって!」

「?」

 俺が疑いの眼差しで彼女を見ていたのが気にくわなかったのだろうか。少女はそう言うと、俺の背中に八つ当たりのようにべしんと平手を喰らわせた。……思ったより痛かった。でも怯むほどではない。

 しかし。

「……ん? あれっ?」

 俺は違和感に間抜けな声を上げた。だって、何故か俺の足は地面に縫い付けられたかのように動かなくなっていたのだ。一生懸命前に足を出そうとするが、無駄だった。俺は少年を担いだままその場で立ち往生するしかなかった。

 そういえば、さっき化け物の前で少女に口を塞がれていた時にも身体がぴくりとも動かなかった。あの時と同じ感覚だ。

「君、また何かしたのか!?」

「……知らない方がいいわよ」

 唯一動く口で思わず悲鳴に似た声を上げた俺に、少女は冷たく言い放った。そして俺が支えている少年を無理矢理俺から引きはがして、今度は自分の肩に彼の腕を回し、支えてみせる。

 女の子にしてはいい筋力だ、なんて感心してる場合ではない。

「待……っ!?」

 なんとか引き留めようとした俺の顔面すれすれに、少女はビシッと指先を突きつける。綺麗に切りそろえられた桜貝のような爪を持つ指先だった。

「いい? これは夢よ……?」

「な……んだって?」

 その指が目の前でゆっくりくるくると回されて、俺はトンボになったかのようにくらりとめまいがするのを抑えきれない。自分の意思ではぴくりとも動かせないくせに、上半身がめまいにゆらゆらと揺れる。

「あんたは家の布団の中でこの夢を見ているの。勿論、彼も私も、あの化け物も、現実のものじゃない。だって考えてもみなさいな、常識的に考えて、あるわけないでしょ?」

 ぐるぐる、くらくらしながら少女の声を聞いていると、だんだんと今までの体験が不確かなものに感じられてくる。もしかして俺は、彼女の言うとおり夢をみているのだろうか? 全ては夢で、俺は今も自宅のベッドの中で出したばかりの柔らかい毛布にくるまって寝ているのだろうか?

 くるくる、くらくら、ぐるぐる、くらくら。

「おやすみなさい――」

 俺の意識を断ち切るように、ぱきりと発された少女の声。俺は足で取っていたバランスががくりと崩れるのを感じる。そして、俺の身体は地面へとスローモーションで倒れ込んでいった。倒れた痛みはまるで感じなかった。ただ、俺は頬を地面に擦り付けながら、少年を連れて去って行こうとする少女の背中を見ていた。

 覚えていられたのはそこまでだった。

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