九 蟷螂鬼

「あの、大丈夫ですか……?」

 そんな俺に怖ず怖ずとした声が掛かった。はっとして顔を上げると、大きな月を背にして一人の少年が立っている。俺が追っていた少年だ。彼もこの異様な空間に巻き込まれていたのか。不憫なことだ。

「……ああ、取り乱してすまない。大丈夫だ」

 俺は一人ではないことにほんの少しの勇気を貰った気がして、そう言いながらゆっくりと立ち上がる。同じ状況にある少年がしっかり立っているのだ。四肢をついて項垂れている場合ではない。

 立ち上がった俺が少年を見ると、彼もその茶色の瞳でこちらを見てくる。やはり少し戸惑っているのが見て取れた。

「ここは何処なんだろうか? 君には何か心当たりはあるか?」

 改めて周りを見回してみるが、やはり出口になりそうな場所はない。この場所について少年に何か心当たりでもないだろうかと訊ねてみたが、彼は何も言わずに眉尻を下げた。どっちとも取れる曖昧な挙動だな、と思った。

「とにかく、出口をさが――?」

 出口を探そう、と言おうとした俺。だけど、その言葉は言葉にならなかった。少年がすっと俺に寄り添うように近づいてきたからだ。初対面にしては些か近すぎる距離感に、面食らってしまったのだった。

「君?」

 俺が戸惑ったように少年に声をかけると、少年はその手を俺の顔に差し伸べる。そして立てた人差し指をぐいと俺の口に押しつけるように近づけた。――喋るな、ということだろうか。

 少年の視線は俺にはなかった。少年は身体を捻るようにして背後に広がる広場を見ている。不思議に思った俺は少年の視線を追って広場の中央付近を見た。

 果たしてそこには何も居はしなかった。だが、少年はどこか剣呑な表情でそこを見つめ続けている。

「なにが――」

「危ないっ!」

 なにがあるんだ? と訊ねようとした俺。しかし少年はその言葉の終わりを待たずして、大きく叫びながら俺にタックルを仕掛けた。不意を突かれたことも一助だったが、少年は見かけによらず馬鹿力で、俺は胸に飛び込んできた少年と一緒くたになって後方にごろごろと転がった。

「いっつつ……」

 吹き飛ばされて、仰向けに倒れた俺。何事が起こったのか解らず、とにかく俺の腹の上に力なく横たわる少年の肩を押して彼の身を起こしながら自分も上半身をゆっくりと立て直した。だが次の瞬間、少年の額に見えたくれないに、俺は目を見張った。

 少年の前髪の隙間から、てらてらと紅く肌を染める何かが伝い落ちてきたのだ。それは血だった。たらたらと垂れるそれはちょっとの怪我で流れるそれではなくて、俺は仰天する。

「おい、君っ、怪我してるのか!? 一体どうして……!?」

 俺が強く揺すらないようにしながら、くったりとした少年の上半身を抱きかかえて彼に訊ねるが、少年はその俺の質問に答えようとしない。そのかわり目だけを動かして、俺たちが元いた辺りをしきりに睨み付ける。

 その少年に釣られて視線を移動した俺は、どくんと心臓が跳ねるのを感じた。

 そこには「何か」がいた。うぞうぞと蠢くソレが何なのか、俺には現す語彙も知識も圧倒的に足りない。かろうじて、俺がいままでに見たこともないモノなのだということは理解できた。

 だが、その「何か」がどんな姿をしているのかを少しずつ理解して、それと共に果てしない恐怖心がふつふつと心の奥から湧いてくるのを感じた。

 三角の小さな頭にその頭の三分の二ほどはあろうかというぎょろりとした大きな目と何でも食べてしまいそうな大きな顎がついていた。身体から前に突き出た細い両手の先にはすらりと伸びた鎌のような鋭利な刃が飛び出している。がに股についた足と胴体から後方に出たぽってりとした肉房。強いて言えば、昆虫……カマキリのようにも見えたが、それがごく普通のカマキリでないことは一目瞭然だった。昆虫としては大きすぎる。全長が人間の女性ほどもあるそれは、昆虫ではあり得なかった。

 人間の女性。そう考えて、俺はふと納得する。ああ、ああ、そうだ。これは人間の女性だ。頭には長くした髪がごっそりと付いている。大きな顎が真っ赤に染まっているのは口紅だろう。とすると、鎌は爪なのだろうか、こちらも不自然に赤い。胴体には乳房と腰のくびれらしき凹凸がある。細長い足はハイヒールをはいているかのようだ。

 ソレはまるで、人間の女性を無理矢理カマキリに変形させたような不自然さと不気味さがあり、俺はその醜悪で人間のなれの果てのような姿に本能的に吐き気をもよおす。俺は口に手をあてて小さくえずいた。

「ぐ――っ!?」

 なんだ、アレはなんだ!? 人間なのか!? それとも……。

 化け物、という言葉がさっと俺の脳裏を掠め、ようやく俺はソレが化け物と呼ばれる類いのものなのだと認識する。ぞっとした。慣れない酒を飲んで酔った果ての悪夢だと思いたかった。

 だが、腕の中の少年の重みも、少年の額からだくだくと流れる血の臭いも、この体験が現実なのだと俺に伝えていた。

 化け物はギチギチと顎を鳴らしながら、振り下ろした鎌に思っていたほどの手応えがないことに気付いたのだろう、あたりをギョロギョロと目を動かして見ていた。あんなに大きな目を持っているのに、目が余り見えていないのかもしれない。すぐ近くにいる俺たちのことに気付いていない様子だった。

 恐怖にどくどくと逸る心臓とふうふうと荒ぶる息の音が煩い。こんな音を立てていたら、すぐに気付かれてあの鎌で一刀両断されてしまうのではないだろうか……。

 見れば、俺がさっきまで持っていた鞄が化け物の後ろで真っ二つになって中身をぶちまけ転がっていた。それが俺たちの未来の姿と重なって見えた。

 逃げなければ、と思う。無様でもいい、こいつに背中を向けて逃げなければと。だが、腕の中の少年を連れて、どうやって逃げればいい? しかも、この広場には理不尽なことに逃げ道がない。どうすれば二人とも助かるんだ?

 ……一人ならばどうだろう。

 一瞬よぎったそれは悪魔の囁きだった。少年を犠牲にして、その間に自分はどうにかして逃げおおせられないだろうかという思考。それは人間なら誰でも持ち得る自己保存的思考の一環だったろう。

 だが俺は、今度はそんな自分に吐き気を覚えた。

 なんだ、こんなことを考えられるなんて、俺も十分化け物みたいじゃないか。

 そう思った瞬間、すうっと心が凪いだ。沸騰していた心にすっと差し水をされたかのように、心が平静を取り戻す。

 俺は歯を食いしばり、化け物の顔を睨みながら腕の中の少年の頭を抱きかかえた。この少年だけは俺が命にかえても守ってみせる、と。

 そう思って、じりっと靴のかかとで地面をにじった時だった。

「っ!?」

 後ろから白い手が勢いよく伸びてきて、俺の口をがばりと塞いだ。思わず振り向こうとしたが、身体は硬直したように動かない。なぜだか理解できないが、俺はその場でぴくりとも動けなかった。

「……そのままうごかないで」

 そう俺の耳元で囁いた声は少し態とらしく甲高かった。俺は抵抗しようとしたが、やはり身体は金縛りにあったように動かない。化け物は鎌をちらつかせながら目の前にいる。

 万事休す、そう思った。

 だが、化け物は目の前にいる俺たちを見てはいるものの、一向にその鎌を振り上げようとはしなかった。どうしてだろうと思った次の瞬間、化け物は興味なさそうに俺たちに背を向け、その背に生えた薄い翅で飛び上がった。

「!!」

 あまり飛ぶのが上手くないらしく、化け物は急上昇してから一度建物の屋根にべちゃりと落ちる。だが、すぐに体勢を立て直してまた飛び上がると、今度はそのまま建物の向こう側へと消えていった。

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