八 一般市民か変質者か、それが問題だ
あの人は私のもの……。
絶望の淵にいた私を救ってくれたのはあの人。いつも側で励まして、一緒にいてくれたのもあの人。あの人がいなければ今の私はないの。だから、私はあの人の隣にずっといたい。
それなのに、なぜあいつは私の邪魔をするの? なぜあいつは当然のようにあの人を横から奪っていくのかしら? なぜ?
そうよ、そうだわ。この気持ちを解してくれないあの人も、当然のようにあの人を奪っていくあいつも、全てこの刃で切り裂いてしまおう。
その邪魔をするというのなら、貴方もこの刃の錆になるがいいわ!
❖
「寒いなぁ……」
バーを出て慌てて終電に滑り込み、最寄りの駅から自宅へ帰る道すがら。俺は思わず口に出す。晩秋の空気は冷たく澄んでいて、見上げれば住宅街の街灯の光にも負けず星がよく見えた。
あれが、オリオン座。あれは――なんだっけ? 実はオリオン座くらいしか解らないな。
そんなどうでもいいことを考えて笑ってから、はあと大きなため息を吐く。
ナイトチルドレン。その正体は未だはっきりとしない。その存在に少しだけ近づけたと思った瞬間、さっとかわされてしまったようなもので、俺は酷い徒労感を感じていた。
だが、俺はすぐに首を横に振って目の前を見据える。これくらいで落ち込んでいてはナイトチルドレンに、ひいてはあの少年に辿り着くことなど出来ないような気がするのだ。
俺は決意を新たに、ぎゅっと拳を握りしめる。
だがその直後、俺はふと表情を曇らせ立ち止まった。
「……あれは――」
自分より幾分か前方。街灯の灯りの下に人影があったのだ。それが「あの少年」に見えて、じん、と背筋が冷えた。
しかしよく見れば、その人影はあの時の少年よりも幾分か年嵩の、詰め襟の学生服を着た少年だった。彼をあの少年と見間違えるなんてよっぽどだな、と自嘲する。
だが俺はすぐに表情を引き締めてその少年を観察した。
なかなかどうして凜々しい顔立ちをしているが、遊んでいる生徒独特の雰囲気もなく、素直そうな少年だ。
しかし、バーを出たのが終電間近だったことを考えれば、今はもうとっくに丑三つ時。高校生なのだろうが、未成年であることには変わりない。ここは住宅街だが、近所の子供が勉強の合間に散歩に出たという出で立ちでもない。何せ、少年はかっちりと詰め襟を着ているのだ。もし家出少年だとしたら……。
そこまで考えて、俺ははっとする。俺はもう警察官ではないのだ。警察手帳も制服もないただの無職だ。それが少年の姿を嘗めるように見たりしたら、それはもう立派な変質者の域ではないだろうか。
少年はこちらに気付いていないようだが、これ以上じろじろと見るわけにもいかない気がして、俺はそのまま少年の横を通り過ぎようとした。
だが、幾分少年の横を通り過ぎたところで、立ち止まって考え直す。確かに俺はもう警察官ではなく、一般市民になった。だがそれは俺が俺であるため、自分が守りたいものをを守るためだったはずだ。
今この少年を見送ったことでこの少年がトラブルに巻き込まれたとしたら、俺は……。
そこまで考えて、意を決する。最悪、俺が変質者に間違えられるだけじゃないか。それよりも、今はこの少年の安全が第一だろう。
「君っ! ……あれ?」
振り向きざまに少年に声をかけようとした俺は、だがその目標を失って間抜けな声を上げた。街灯の下にいたはずの少年の姿が、今はどこにもない。辺りを見回すが、俺の位置からは少年の姿を見つけることはできなかった。そして、俺の視界から逃れることが出来そうなのは、手前のマンションとその隣の建物の間にぽっかり空いた路地裏の隙間だけ。
ぶるり、と俺は身体と、そして心も震わせた。――あの時と同じ状況だ。
期待とも不安ともとれない複雑な感情に支配された俺は、だが唇を引き締め、汗でぬかるむ掌を握りしめると、何も考えずにその隙間へと飛び込んだ。
隙間はやはり狭かった。だが、決して人が通れないほどの狭さになることもなく真っ直ぐ続いている。ここは自宅から最寄り駅への通り道だが、こんな隙間が存在することさえ知らなかった俺は、その隙間の深さにも驚愕する。
まだ少年の背中は見えない。だが、隙間は枝分かれはしていない。俺は迷うこともなく突き進んだ。そして見えた突き当たりの曲がり角を勢いを付けて曲がる。
「――っ!」
いた! 先ほど見た少年の背中が、すぐそこに見えた! 彼はまだこちらに気付いていないのか、狭い隙間の真ん中で悠々と腰に片手をやって立ち尽くしている。俺は乱れかけた息を整えるのももどかしく少年の背後に近付き、彼の肩に置こうと手を伸ばした。しかし、その時。
「!?」
ふと、空気が変わった気がした。何が起こったのかわからない。身体をぐるぐると回転させられた時の空間が伸び縮みするような感覚と共に浅い吐き気。めまいを起こした時の感覚に似ていたから、激しい立ち眩みをおこしたのかとも思ったのだが。
そのめまいのような感覚があったのはものの数秒のことだった。それが過ぎ去ると、拍子抜けするほどすっとその感覚は抜けていく。不思議に思いながらも、とにかくグラついた上半身を立て直すためにすぐ横の建物の壁に手を突こうとした。だが、その手はすかっと虚しく宙を掻く。
「えっ!?」
思わず声を上げて身体のバランスを取ろうと無駄な動きをする。しかし思い切り崩れた身体のバランスは戻ることはなく、俺はその場で前のめりに倒れてしまった。とっさに腕を下に敷いてクッションにしたため、怪我はしていないようだがあちこちが割と痛い。
「いっ、つー……」
その痛みに耐えながら顔を上げた俺は、しかしその視界に大きな違和感があることに気付く。いや、違和感どころではない。それは確かな相違点だった。
「どう、いうことだ……?」
混乱して、思わず呟いた。先ほどまで、俺は狭い路地裏の隙間にいたはずだ。倒れ込みはしたが、そこから大幅に移動した記憶も感覚もない。
だが今、俺がいるのは広場だ。相変わらず周りは高い建物に囲まれた路地裏の風景と薄汚れたコンクリートの床だが、先ほどまでの狭さはない。三十メートル四方はあろうかという広場の片隅に、俺は倒れていたのだ。
顔を上げれば、ぽっかりと開いた広場の上空に目を見張るほど大きな月が広場をのぞき込むように顔を見せていた。そのせいなのか、広場全体が光に沈んでいるように感じられた。
俺はゆっくりと辺りを見回してみる。そして重要なことに気付いた。この広場には、出口がない。道もない、どの壁にも扉がない、俺たちがさっき入ってきたような隙間すらないのだ。
「なんなんだ、これは……なんなんだ……」
途方に暮れて、それだけが正気を保つ手段かのように俺はぶつぶつと繰り返し呟いた。どうしてこんなところに迷い込んでしまったのかも、どうやって出て行けばいいのかもわからないのだ。俺は起き上がる気力もないまま四つん這いで項垂れていた。
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