七 蝶子の夢
蝶子が産まれた時、俺はまだ三歳で、物心もついていなかったはず。
だが、何故か蝶子と初めて対面した時のことはうっすらと記憶に残っている。
親父に連れられて母さんのいる病室へと入った俺は、ベッドの上でおくるみを抱いている母さんを見て駆け寄った。後ろからやってきた親父が俺をひょいと抱き上げて、俺におくるみの中を見せる。そこには幼い自分よりも小さな小さな妹、蝶子がすやすやと眠っていた。
「ほら龍麻、お前の妹だぞ」
「いもうと……?」
「そう、蝶子っていうのよ」
「……ちょうこ……」
不思議そうに蝶子を見る俺を見て、親父も母さんも微笑んでいた。
「龍麻はもうお兄ちゃんなんだから、蝶子を大切に守ってあげてね」
「おにい……ちゃん……」
それはごくありふれた、陳腐な約束。だけど、俺にとっては俺の世界を創り替えるほどの影響力を持っていた。
それからだった。俺が「守る」という言葉に特別な感情を抱くようになったのは。
俺はお兄ちゃんだから、蝶子を守らなくてはいけない。そう考えて可能な限りの実践をした。
勿論、子供のすることだから、まるで見当違いなこともしただろう。だけど俺の心にはいつも「蝶子を守る」という使命が燃えていた。
だけど、いつ頃からだろう。俺や両親の過保護を蝶子が良く思わなくなったのは。
中学に上がる頃には、蝶子は俺や親に反発して地域のあまり評判の良くない子供たちとつるむようになっていた。夜中まで遊び回り、学校の出席状況も良くなかった。
俺も両親も最初は必死に蝶子を説得した。だけど蝶子は、俺たちの言葉には全く聞く耳を持たず、自分の部屋の窓をくぐり抜けていつの間にかいつもの仲間の元へと行ってしまうのだった。
だからあの日も、俺は自室の窓から蝶子が抜け出していくのを見ていながら、あえて引き留めることはしなかった。しても無駄だと思い初めていたのだ。どうせ、夜中には帰ってくるのだから、と。
だけどその夜、蝶子は真夜中になっても帰ってこなかった。
さすがに心配になった俺たちが辺りを探しに行こうとしたその時、家の電話がけたたましく鳴る。
恐る恐る取った電話は近くの総合病院からだった。
それは蝶子の死を伝える電話だった。
蝶子は腹部をナイフで刺され重傷を負って搬送されてきたのだという。しかし懸命の処置の甲斐無く、先ほど息を引き取ったのだと。
まさか、と思った。何かの間違いなのだろうと。
両親と一緒に病院の霊安室で蝶子の顔を見るまでは信じられなかった。
白い布の下、綺麗に整えられた蝶子の顔を見て、これが現実なのだと俺は理解する。涙は出なかったように思う。
後に警察から説明があった。蝶子は仲間と一緒に
それを伝えられた時、俺はどんな顔をしていただろうか。
突然妹の命を奪われ、その犯人はもうこの世にはおらず、なんの罰も制裁も加えられない悔しさ。俺が蝶子を止めていればこんなことにはならなかったかも知れないという後悔。自分は蝶子を守れなかったのだという劣等感。そして真に他人を守るということは命をなげうつ覚悟がなければできないことだと理解した恐怖。
全てがない交ぜになって俺にのしかかってきた。
蝶子の葬式の最中、ずっと考えていた。蝶子を守れなかった俺はどうすればいいのか。考え、考え、恐怖し、後悔し、劣等感に苦しみながらも、考えて、俺は答えを出した。
「俺、将来は人を守る職業に就くよ」
蝶子の葬式が終わって、三人でこれからについて話し合った時、俺はそう宣言した。
その手には蝶子が好んで鞄につけていた蝶をモチーフにしたチャーム。蝶子の最期も見ていただろうそれを俺は形見分けで手にしていた。
「警察官になろうと思う」
それが俺の答え。蝶子を守れなかった俺の罪滅ぼし。そして、弱い俺の精一杯の自己防衛だった。そうでもしないと、俺は後悔と劣等感に潰れてしまいそうだったから。
それが両親にどう響いたのかは解らない。両親は顔を見合わせてから、俺に大学までは出るように薦めて、それ以後は何も言わなくなった。
俺はそれからその目標に向かって我武者羅にやってきた。
高校、大学、警察学校を粛々と経て、ようやく警察官になれたとき、俺は安堵すら覚えた。ようやく約束を果たせたのだと。勿論、これから警察官として職務を全うするには苦労も苦悩もあるだろう。だけど、その時の俺にとってはそこが一番大切なゴールであるように感じられたのだ。
だけどあの路地裏であの少年に出会ったことで、俺は気付いてしまった。俺は警察官になっただけで、あの時と何も変わっていなかった。何も、誰も守れていない。警察官としての矜持もなければ、天野さんのように身近な誰かを思って警察官をしているわけでもない。
何もない俺を支えていたのは夜遊びをしていた頃の蝶子とどこか重なるあの少年を守りたいという気持ちだけだったのだ。
だから、彼を探すためにあらゆる手段を尽くそうと思った。だから、俺は警察だって辞めた。
そして――。
そして? そして俺はどうしたんだっけ……?
❖
「ん……ぅ……?」
指先から忍び寄る冷たさに、俺は瞼を震わせて目を開き意識を取り戻した。じんと冷えた指先を無意識に動かすと、カリリ、と爪が木の板を掻く音がする。
ゆっくりと頭をもたげると、くらくらと世界が回り、浅い頭痛も感じた。頭を押さえながら顔を顰めて、辺りを見回す。
どうやら俺は無人の薄暗いバーカウンターにうつぶせるように倒れ込んで眠っていたようだった。天井から吊り下げられたスポットライトのうち一つだけが点けられていて周囲を薄明るく照らしている。
俺は寝ぼけ
……俺は強引な客引きに連れられてこの店に入って……。
「……ッ!!」
そうだ、俺はこのバーでよく分からない酒を飲んで意識を失ったんだ……!
不意にフラッシュバックを起こすようにバーでの記憶が蘇って、俺はがたりと椅子を鳴らして身を起こす。その瞬間、肩からずるりと何かがずり落ちそうになって、俺は慌てて手でそれを押さえた。
「……?」
肩越しに後ろを振り返って見てみれば、それは適当な大きさの毛布だった。今まで、俺の肩にはこの布が掛けられていたらしい。
店内は暖房が切られているのか冷え込んでいる。フリースの毛布は防寒に大いに役立ったようではあったが……。
毛布を手で押さえながらあたりをキョロキョロと見回していた俺は、ふと今まで俺がうつぶせていたバーカウンターの上に一枚の紙片が置かれているのに気がつく。名刺より一回り大きいサイズ感のそれはさわり心地の良い厚紙で出来ていて、俺が何気なく裏返すと、そこには達筆で何事かが書き付けてあった。
風邪など召されませんように。
またのお越しをお待ち申し上げております。
雰囲気からして、あの慇懃なマスターの書いたもののようだった。
最初の一文を見るに、肩に掛かっていた毛布は俺が体調を崩さないようにとマスターが掛けてくれたものなのかも知れない。
しかし、場慣れしていない一見に強い酒を飲ませて酔い潰してしまおうとするような人間がそんな心配をするだろうか。そんな心配をするくらいなら最初から、酔い潰すような真似はしないのではないか。
それとも、彼らが俺を酔い潰したのには何か訳があったのだろうか。
そう思って、まずはオーソドックスに荷物と貴重品を心配したが、カウンターの隣の席に置いておいた荷物はそのままで、念のために中身を確認してみても、財布も携帯もその他の物も特に弄られた形跡はない。
彼らの目的が解らない気持ち悪さはあったが、このままここで夜を明かす訳にもいかない。腕時計を見れば、もう真夜中で、早くしないと終電がなくなってしまう。
「………………」
俺はしばらく考えた後、飲んだ二杯分の代金に足りるだろう金額をメッセージの書かれた紙片の下に挟んでから、静まり返るバーをそっと出た。
ドアに取り付けられたドアベルだけが、カランカランと律儀に俺が出て行ったことを無人のバー内に知らせていた。
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