参 正義と正義の間で
「ちがう……、ちがう……、これもちがう……」
その日、薄暗いS宿署生活安全課の資料室で。俺は部屋に置かれているパソコンを使って調べ物をしていた。
調べているのはS宿署の管轄内で過去に補導された全少年少女の調書だ。ここ数年間のものだけに絞ってはいるが、それでも数が多い。一応データ化されているのだけが救いだが、作業の進みはいいとは言えなかった。
だが俺は諦めずに一件一件の詳細な表現までを調べていく。
あの不思議な少年を補導しようとした俺に上層部からの圧力がかかったのは三日前。少年は逃げるように姿を消し、それと同時に俺にかかった圧力も何事もなかったかのように消えた。
だが、俺はといえば、事態に全く納得できていなかった。真相が知りたかった。警察上層部に守られる少年は何者なのか、何よりも今無事でいるのか。
だから、俺は資料室の鍵を持ち出して、彼の身の上に繋がる何かを必死で探し始めた。
何が目的で過去の補導の調書を調べているのかは自分でもはっきりとしない。だが、今までに同じような少年の補導に同じような上層部からの圧力がかかった形跡がないかどうかは見ていた。
しかし、いくら調べても少年に繋がるような情報はなく、徒労感だけが先行する。諦めようかともちらりと思ったその時、ある一つの調書を見て、俺は手を止めた。
今から一年ほど前、一人の中学生の少年が親と喧嘩をした末に家出をして深夜の繁華街で補導された時のもの。少年はその夜のうちに家へと帰され、その経緯に特に怪しいところはない。
だが、俺はその調書に何気なく書かれた一文が気になった。
「少年はナイトチルドレンになりたかったと繰り返し話し……?」
どうやらその少年は繰り返し「ナイトチルドレン」になりたかったという趣旨の話をしたらしい。
「……NightChildren? 夜の子供たち……か?」
ナイトチルドレンという言葉の意味するところはわからないが、その言葉のイメージがあの時の不思議な少年と重なる。これは手がかりになるのではないだろうかと思ったその時だった。
カチャリとドアノブが鳴って、一人の壮年の男が資料室に入ってきた。その顔を見て、俺は慌ててがたりと立ち上がる。
「課長……!?」
生活安全課の課長。俺の上司だった。
面倒見が良く人柄も穏やかで、部下からは慕われる存在。
しかし、俺は少し警戒する。彼も上層部からの圧力に屈していないとも限らない。
だから、俺は彼に向かって僅かに渋い顔をしてしまった。
「碓井、お前は今日は非番じゃなかったかな」
「はあ、少し気になることがありまして……」
課長は俺の表情には頓着しなかったらしい。だが、その課長の問いかけに、俺は視線を床へと落として無難な言い訳をした。嘘は言っていないが、少し罪悪感があった。
「ふむ、熱心なのはいいが、もう夜中だ。終電が無くなる前に帰りたまえよ」
「はい、でももう少しだけ……」
往生際が悪いのは解っていた。だが、やっと掴んだ僅かな手がかりを見失う前に自分のものにしておきたかったのだ。俺はパソコンの画面に視線を戻し調書の続きを読もうとした。だが、その瞬間。
「……えっ!?」
俺はあまりのことに言葉を失う。
俺の背後から課長の手が伸びてきて、俺の使っていたパソコンの電源を無理矢理落としたのだ。
俺はいつの間にか俺の背後に来ていた課長を勢いよく振り返る。果たしてその課長の目には、俺をいっそ哀れむような色が宿っていた。
やはり、この人も……。
俺はぎりと課長を睨み付け、噛み付くように抗議する。
「なにをするんですか!」
しかし課長は、俺のような若造の睨みになど何も感じないとばかりにふうとため息を吐いてみせてから、宥めようとしたのか、俺の肩に触れようと手を伸ばしてきた。
「……っ!」
俺は思わずその手を強く振り払った。
手を振り払われた課長は俺のことを言うことを聞かないじゃじゃ馬を見るような目で見る。そして、俺と差し向かいで堂々と立ちはだかり、威圧するような笑顔をみせた。
「お前こそ、自分が何をしているのか自覚はあるのか?」
「なんのことです?」
「警察の使命は何だと教えたかな? 市民の安全を守ることだっただろう? だが、お前が調べているのは、お前がこの前連れてきた少年のこと。公私混同も甚だしいではないか。 警察も、我々が築き上げてきたこの資料も、お前の個人的な疑問を解消するために用意されたものではないのだよ!」
そう言われて俺はぎくりとする。
個人的な調査のために勝手に個人情報の含まれる過去の調書を見るというその行為は真っ当な警察官としての権限を逸脱している。それが批難に当たることだということは理解していたつもりだった。いや、理解していると思っていただけなのか……?
だが……。
俺は表情を歪めてぎゅっと唇を咬む。それを見て、課長はもう一押しすれば俺がオチると思ったのだろう。たたみかけるように俺に
「お前の軽はずみな行動が、警察の統率を乱し、信頼を失墜させ、市民を危険に晒すことだってあるかも知れない。お前の行動はそういうことを考えた上でのものなのか?」
課長の言葉を聞いた俺は細く長い息を吐いて、自分を落ち着かせる。そして目の前でふんと鼻を鳴らして自分が勝利したものと誤解しているらしい課長に静かに声をかけた。
「たった一人の子供すら守れないで、守るべき数十万という市民の安全を守ることができるのですか?」
実を言えばその言葉自体に特別な力は無い。解ってる。いざとなれば、一人の子供を見捨ててでもより多くの市民を守る行動をとらなければならないこともある。公人とはそういうものだ。
でも、俺は……俺の正義は……。
(ああ、そうか……、こうすれば良かったんだな……)
反論された内容よりも、反論されたことに驚きを隠せないでいる様子だった課長。俺はその課長に、打って変わってしおらしく頭を下げてみせた。
「ありがとうございます、課長。俺の目は貴方のおかげでやっと覚めました……」
突然にそんなことを言い出した俺を、課長は薄気味悪いものを見るような目で見る。俺はそんな課長に苦笑いをして見せてから、ぐっと拳を胸に握りしめた。
「課長、俺、警察官を辞めます」
「なん……だと……? 何を藪から棒に……自暴自棄にでもなったのか……?」
ああ、やはりこれは他人には「藪から棒」で「自暴自棄」に聞こえるのか。だけど俺にとってはごく自然な成り行きで行き着いた答えだった。解って貰えるとは思わないが。
「警察官でいる限り、俺たちは市民を守るために行動しなくてはならない。大勢の市民を守るために、目の前の小事にかかずらっていられないことがあるのも解ります。でも、俺は……自分がかかわったものこそ守りたいと思う性質らしい。見知らぬ誰かのために目の前の困っている誰かを放っておくことはできないんです。特に子供は……自分で自分が危機的な状況にいることが理解できないこともありますから……」
「碓井、お前は……」
「それが俺の正義の示し方なんです。だから、俺は警察官を辞めます。俺が俺の正義を貫くために……も……」
そこまで言っておいて、俺は急に恥ずかしくなる。口論中に急に自分の正義について自分の見解を語り出すなんていうのは、自意識過剰ではなかっただろうか。きっと今の俺の顔は真っ赤に違いない。
だが、これはもう出したら引っ込められない。笑われるのを覚悟して、唇を咬んだその時だった。
「……そうか」
課長は笑わなかった。ただただ、そう唸るように言って頷く。
「そこまで言うなのなら、好きにやるといい。お前の人生だからな」
そして、放心している俺の横を何事もなかったかのようにすり抜けて資料室から出ようとして、最後に付け加えるように釘を刺した。
「ただし、後悔はするなよ。……あと、資料室はもう勝手に使うな」
俺は放心したまま、課長が資料室の扉を閉める軽い音を聞いていた。
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