弐 名無しの権兵衛は茶が飲めぬ
こぽぽぽ……。
軽快な音と共に自動給茶機から紙コップに薄いお茶が注がれた。それを確認してから紙コップの縁を持つと、お茶からのぼりたつ湯気が俺の指を苛んだ。熱い。とても熱い。
普段は何とも思わないその熱さ。だが今はそんな些細なことにも、この苛立ちをぶつけたくなる。勿論、お茶の熱さに苛立ってみても現状はなにも変わらないのでぐっと我慢するのだが、我慢したところで腹の奥がぐらぐらとするこの感情はなくなりはしない。
あれから、俺は少年を連れてS宿署に帰ってきていた。空いている会議室の一画をパーテーションで区切って少年を招き入れると、彼は行儀良く両膝を揃えて安っぽいパイプ椅子に座った。
だが、彼が曲がりなりにも行儀が良かったのはそこまでだった。
「じゃあ、まずは名前から教えてくれるかな」
俺がメモ帳を持ち出して彼に向かいあってそう訊ねると、少年はその眼帯で隠れていない方の目をくりくりとさせてこう言った。
「ジョンだよ。ジョン・ドゥ!」
そのままメモ帳に書き付けそうになってから、俺は視線だけを上げて少年を見た。少年はどこからどう見てもこの国の人間だし、それにこの名前には聞き覚えがあった。
「坊主、大人が何も知らないと思うなよ。ジョン・ドゥって確かあれだろ。『名無しの権兵衛』みたいな意味だろ?」
「ああ、なんだ知ってた?」
けらけらと笑う少年に、頭が痛くなるのを感じる。どうしてこんな厄介な少年の相手を一人でしなくてはならないのだろう。少年を連れて帰ってきたのは天野さんだって一緒なのに、天野さんは帰ってきた途端に署長から話があるから来るようにと言われて行ってしまったのだ。
天野さんと署長は仲の良いゴルフ仲間だそうだし、きっと今もゴルフの話題で盛り上がっているのではないだろうか。勤務中にそれはないだろうと解っていながらも、拗ねた俺の思考はそんな被害妄想でいっぱいだった。
それから、何度聞いても少年は本名も住所も年齢も保護者の連絡先も、何一つ真面目に答えようとはしなかった。何を聞いても嘘をつき、はぐらかし、黙秘する。徹底したその態度に、俺はついにため息を吐いた。
「はぁ……とりあえずお茶でも飲むか……」
それは少年のためにというよりも自分を落ち着かせるための方策だったが、少年はその言葉を聞いて純粋に目を輝かせた。
「やったー! ボク、もう喉からからだよー!」
そういえば路地裏でもそんなことを言っていた気がする。少年は少年で我慢をしていたらしいが、今までの態度が態度なだけにあまりいじらしいという気はしない。俺は少年の歓喜を半眼で見つめてから、彼にその場から動かないように指示して給茶機のある休憩室まで出てきたのだった。
だが、熱いお茶の紙コップを二つ持って少年の待つ会議室へと戻ろうとした俺を呼び止める声があった。
「碓井」
「……? 天野さん?」
署長に呼ばれていた天野さんが署長室のある階上から続く階段を降りながら声をかけてきたのだ。俺が気付いて足を止めると、天野さんは足早にこちらへやってきた。
さっきまでは天野さんが帰ってきたらせめて愚痴ぐらい聞いて貰わなくてはと思っていた俺は、だがしかし今の天野さんの様子を見て口を噤んだ。彼は酷く焦って、俺に何か告げようとしている様子だった。
「何かまずいことでもあったんですか……!?」
俺はまだ
「碓井、今すぐにあの少年を解放しろ」
「は?」
思わず口から出たのは間抜けな声。これは俺の聞き間違いなのだろうか。
だが天野さんは疲れたような顔でもう一度繰り返した。
「いいか。今すぐにあの少年を解放しろ! 今後一切あの少年に係わるな!」
「ちょ……ちょっと待って下さい! 今はまだ夜の二時ですよ!? こんな真夜中に少年を解放しろだの、もう係わるなだの……! 保護者の連絡先も解らない現状、せめて夜が明けるまでは署内で保護すべきでは……?」
反射的にそう口にした俺。だって、常識的に考えてそうだろう? それが大人として、警察官としてあるべき正しい姿のはずだ!
だが、天野さんは深いため息を吐いてから、わがままを言うしかたのない者を見るような目で俺を見る。
「碓井、何度も言わせるな……」
「……じゃあ、理由はなんですか!? まさか、どの子供でも同じ対応をするわけじゃないでしょう!? あの少年だからなんですよね!? あの少年は一体何者なんです!?」
矢継ぎ早に質問を重ねたが、しかし天野さんは渋い顔をして首を振る。
「わからんよ。だが、これは署長直々の命令……いや、更に上のお偉いさんからの命令らしい。無視は出来ないだろう」
解らない、だって? いくら上司命令だからといって、この人はそれで俺を納得させようというのだろうか。
俺は頭を金槌で思い切り殴られたような衝撃を受けていた。一ヶ月の間、ずっと先輩警察官として尊敬していた天野さんがこんなことを言うなんて……。
尊敬していた先輩に安く見られていたような気になって、俺はぐっと喉を鳴らした。
「天野さん、納得できません……!」
俺は正直にそう言葉を突きつける。
「碓井……」
天野さんも苛立っているらしい。組んだ腕の指をせわしなく動かして、呆れたように言う。とりつく島もない雰囲気だったが、俺はもう一度訴えかけようと口を開いた。
「天野さ――」
だが、俺の言葉は届かない。それどころか、天野さんは標本にピンで虫を縫い止めるかのように、俺の自由を奪う言葉を放った。
「碓井。これが、組織ってやつなんだ――」
「……っ!」
その天野さんの言葉に、俺は声を喉に詰まらせる。
同時に理解する。天野さんもきっと、俺と同じようにこの命令に理不尽を感じているのだということ。
ならばなぜ自分の正義に従わないのか、と彼を糾弾しそうになって、言葉を呑む。
誰もが自分の正義を貫き通せるわけじゃない。それ以上に大切なものがある人だっているのだ。それは決して責められるべきことではないはず。
俺はふと天野さんのデスクの上に置かれた写真立てを思い出した。
だが俺は……そうだ、俺ならば……。
「………………」
ぎりと歯を食いしばり、お茶を持つ両手にも知らずに力が入る。へこんだ紙コップから僅かに熱いお茶が溢れて指を焼いたが、今度はそれも気にならない。そして俺は……天野さんの横をすり抜けるようにして署長室のある階上へと階段を上がって行こうとした。だが天野さんは慌てたように俺の肩に手を掛けて引き留める。
「碓井! 何処へ行くんだ!?」
「……署長に直談判してきます」
「さっき言ったろう! この命令は署長よりももっと上から降りてきたものだ! 署長の意思だけでどうにかなる問題じゃないんだぞ!」
「じゃあ署長にお願いしてその上の人と話をさせてもらいます!」
「馬鹿! そんなことが出来るわけないだろう」
「………………」
たしなめられて足を止め黙りこくった俺に、天野さんは少しだけ安堵したようなため息を吐き、そして言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「いいか、碓井。これは、お前のために言ってるんだ。お前は正義の心を持ったいい警察官だ。だがな、組織は清廉潔白なだけでは回っていかないこともある。時には汚れる覚悟も必要なんだ。必要悪というのは、あるものなんだ」
俺にそう語ってみせる天野さんは大人だった。だがそれを聞いている俺は子供で、子供過ぎて、どうしても彼の言うことが理解できない。
天野さんの言葉を、もう聞きたくないと振り切った俺は、だがそのまま階段を上がっていくことも出来ずに元いた会議室へと駆け戻る。後ろから天野さんが呼ぶ声がしたが、それも別世界のことのように遠かった。
会議室を区切っていたパーテーションを乱暴に退かすように掻き分けて、先ほどまで少年がいた場所へ戻った俺が見たもの。それは無人と化したパイプ椅子。開けられた窓と夜風に揺れるカーテン。そして俺が残していったメモ帳の片隅に殴り描くように書かれた言葉。
お茶くらい飲んでいきたかったんだけど、
そうも言ってられないから行くよ。
ごめんね!
少年の自画像と思しきデフォルメされたイラストまで添えられたそれを見て、俺はとうとう手にしていた紙コップを握り潰した。溢れたお茶が手を伝ってシャツの袖を濡らす。気持ちが悪かった。ただただ、自分の無力さに反吐が出そうだった。
空気に触れて生ぬるくなったお茶に濡れた手を上げ、俺は自分のこめかみをごつりと殴りつけた。……痛い。その痛みはこれがどうしようもない現実だと示していた。
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