壱 茹だる心に差し水を
幼い頃の夢は「世界を救う正義のヒーロー」になることだった。
たとえば特撮もののヒーローのように、あるいはゲームや洋画の主人公のように、襲いかかる脅威から罪無き人々を守りたい。そう思いながら成長した俺が警察官という仕事に憧れを抱き目指したのは、まあ必然だったのだろう。
俺は
とはいってもまだ警察学校を出て現場に配属されたばかりの新人巡査だけどな。
幼い頃に願った「世界を救う唯一無二の正義のヒーロー」になる夢こそ、現実を知り大人になる中で忘れ去っていたが、それでもいつか立派な警察官になって人々を守りたいという幼い頃見た夢の欠片を今も追っている、というわけだ。
俺がS宿署の地域課に配属されてからもうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。S宿といえば、この国屈指の超高層ビル群と、そして一大歓楽街をも擁する大都会だ。毎日数え切れないほどたくさんの人がこのS宿を訪れていて、そして、残念なことにその中にはS宿の治安と平穏を脅かす輩も存在する。俺たちの使命はその不届き者から市民を守ることだ。
新人ではあるが、そのことだけは胸に刻みながら毎日を送っているつもりだった。
秋も深まり、肌寒い夜の増えたこの頃。
深夜零時を過ぎた真夜中、俺はS宿が誇る大歓楽街のまっただ中にいた。
警ら中、近くで酔っ払い同士の喧嘩が起きているとの情報が入り、その仲裁に入った帰りなのだ。
一緒に警らをしていた先輩の
喧嘩をしていたのは若い女同士で、俺たちが仲裁に入るとそのうち一方がその長い爪で天野さんの顔面を掻き毟ろうとしたのだ。天野さんはそれにいち早く気付いたのだろう、素早く後ろに下がったから頬に一文字に軽いひっかき傷が出来た程度で済んだのだが、あの時天野さんが下がらなかったらと思うとぞっとする。天野さんの顔はもっと酷い切り傷のようになっていただろうし、一晩留置場で頭を冷やすことになった女の罪状にも傷害罪が上乗せされたことだろう。
パトカーで応援に来た別の署員に女の身柄を任せた後、署へと戻る道すがらに俺は天野さんの頬の赤い線を見て訊ねる。
「天野さん、傷、大丈夫ですか?」
「ん? あっはは、こんなの傷のうちに入らないさ」
そう豪快に笑ってみせる天野さんはなんとも爽やかで頼もしい。
そういえば彼は女同士の諍いにたたらを踏む俺を横目にためらいもなく割って入っていった。俺はと言えば、男同士の喧嘩ならもう慣れたものだったが、女同士のそれは初めてでなんとなく躊躇してしまったのだ。
俺はまだ勤務一ヶ月の巡査で、彼は勤務五年の巡査長。経験の差、といえばそうなのかも知れないが、大きい差だ。俺も早く彼のような頼もしい警察官になりたいものだと嘆息した時だった。
「ん? あれ?」
俺は目のはしに、この場にはいたく不似合いなものを見た気がした。
子供……。そうだ、今、目のはしに映ったのは、子供だった気がする。しかも小学生くらいの、非常に幼い出で立ちだった。ここは真夜中の盛り場。いくら煌々と灯りが点っているといっても、小学生が一人でうろついていていい場所ではないはずだ。きちんと保護・補導しなくてはいけない。
そう思ってもう一度子供がいた場所を振り返る。雑居ビルの前。街灯があって明るい。だがそこには子供はおろか人影すらなかった。
「あ……れ……?」
「どうした、碓井?」
天野さんが不思議そうに俺を呼ぶ。天野さんは何も見てないらしい。
最初こそ、チカチカと目を刺激する古くさいネオンが見せた幻かと思ったが、記憶の中に焼き付いた子供の姿はやけに現実味を帯びていて、俺にはどうしても存在したとしか思えなかった。
でも、あの一瞬で俺の視界から消えるには、普通に道なりに移動したのでは難しいだろう。ならば、ビルとビルの細い隙間、路地裏に滑り込んだというのだろうか。
子供が潜んでいたとしても逃げられないようにそっとその隙間に近づいて路地裏をのぞき込んでみた俺は、しかしその光景にぞっとする。
隙間の幅は俺一人がやっと真っ直ぐ通れるくらい。灯りはなく、とても暗い。まるで洋画に出てくるスラムの路地裏のようだ。大の大人、しかも警察官の俺ですら尻込みするような不気味で荒廃した雰囲気があった。
本当にこんなところに子供が入り込んでいるのか? やっぱり見間違いだったんじゃないのだろうか?
その隙間に関わりたくない一心で、そんなことを考える俺。だが、すぐに首を横に振ってからパンと頬を自分の手で軽く張って気合いを入れる。
もしも本当に子供がいたとしたら? そして、何か万が一のことがあったとしたら……! そうしたら、俺は自分を一生許すことは出来ないだろう。これは子供を、市民を守るため。それ以上に俺自身を守るためだ……!
「お、おい、碓井?」
天野さんの戸惑ったような声がスタートの合図だった。
「すみません、ちょっと気になることがあるので見てきます。ここ、お願いします」
逃げられた時に備えて天野さんにこの出入り口を固めてもらっておくことだけは忘れずに伝えておく。
そして俺は、その隙間に足を踏み入れた。
数歩足を踏み入れると、表通りから差し込む光は用を成さなくなる。あとはひたすら暗いだけ。俺は懐中電灯を持ち出して辺りを照らしながら足早に進んだ。本当は慎重に歩を進めたいところだが、もたもたして補導対象の子供に逃げられてしまっては元も子もない。
ビルとビルの暗く狭い隙間を縫うようにジグザグと進む。大した距離ではなかったと思うが、精神的な負担からか実際よりも長く感じた。不安や恐怖もなくはなかったが、その前にある使命感――いや、強迫観念の類いかもしれない――が俺の感覚を鈍らせていた。
そして、幾度目かの曲がり角を慎重に曲がったその時、視界に飛び込んできたもの。それは、子供が道の真ん中で膝小僧に顔を埋めてうずくまっている姿。その子供が啜り泣いているように感じて、俺は急いで子供に駆け寄った。
まさか、この子がこんな夜中に出歩いているのは何か悲しい訳でもあるのだろうか。
「君、大丈夫か?」
懐中電灯で照らしてみると、その子供は小学生くらいの少年であることが分かった。まず目に付いたのは脱色されて少し傷み気味の金髪。着ているのは上等の生地で作られた黒いダブルのジャケットに赤いリボンタイ、ジャケットと揃いの半ズボン、膝下丈の白い靴下、そしてつややかに光るローファー。金髪とはあまりそぐわない気もするが、その良い身なりからは良家の子息か、もしくは名門私立小学校の生徒といった類いを連想させられる。
だが彼は俺の言葉には応じず、くすくすと甲高い声で泣いている。……泣いている? いや、しかしこれは……。
「笑ってる……のか?」
そう言葉に出してしまったのは失策だったかもしれない。少年は勢いづいたように大きな声をたて、膝に顔を埋めたまま肩を激しく揺すりながら笑い始める。
「フフッ……ハハ、クスクスクスッ!」
それはとても奇妙で不気味な光景だった。この少年が確かにこの世のものであるのかどうかも曖昧になる。気の小さい人間がみたら、軽く失禁くらいはしてしまいそうだ。
俺だって全く怖くないわけではなかった。足は細かく震えていたし、心臓もばくばくと音を立てている。だが意を決して少年に手が届くほどの近さまで近寄った俺は、笑い続ける少年の肩に手を差し伸べた。
そして、その指先が少年の肩に触れそうになったその時。
「ばあ!」
少年はぎゅるんと首だけを動かして俺にその顔を見せた。視線は合わなかった。少年の顔には目がなかったからだ。それどころか、少年の顔には口も鼻の穴もなかった。ただ僅かな凹凸があるだけのその顔は、いわゆる「のっぺらぼう」だった。
本来なら驚愕の声を上げ、腰を抜かすくらいはしてしまいそうな状況。だが、俺はゆっくりと眉をひそめて、少年の顔をまじまじと見た。よく見ると、少年の首と顔でいくらか肌の色味が違う。顔の方には不自然な光沢もあった。
「ああ…お面か」
どうやら少年はのっぺらぼうのお面を被っているだけのようだった。子供だましのようなそのお面だが、暗闇と不気味な路地裏の雰囲気がお面に本来はあり得ない真実味を帯びさせていたようだ。
早々に見抜いてしまった俺に拍子抜けしたのか、少年はお面をしたまま小さく小首を傾げる。
「何だぁ、面白くないの。おじさん、不感症の気でもあるんじゃない?」
少年が俺を評して言った「おじさん」という言葉に地味に傷つきながらもそのことには触れず、俺は顔をしかめた。
「いや、怖いには怖かったんだが、どうやら怖さが突き抜けると冷静になるタチらしいな、俺は」
そう、先ほど笑い狂う少年に近づこうとしていた時は沸騰するかの如く乱れていた心の中が、のっぺらぼうの顔を見た瞬間、差し水をしたかのようにすうと凪いだのだ。いままで二十三年の時を生きてきたが、初めて知った自分の性質だった。
少年はぐいと顔を覆っていたお面を上げる。その下には右目にガーゼの眼帯をしていたがくりくりとした黒目の大きな目があったし、摘まんだような小さな鼻とお揃いの小さな口もちゃんとあった。……普通の少年だ。
俺はちらりと腕時計を見る。深夜一時を少し回っていた。
「君、こんな夜中にこんなところで何してるんだ? とりあえず、名前と住所と保護者の連絡先を……」
冷静に受け止めたとはいえ、やはり彼がちゃんと人間だったことに安堵したのだろう。俺はいつもより早口で少年を質問責めにしてしまった。急に質問責めにされていい気分のする人間はあまりいないだろう。しくじったなと思うが口から出てしまった言葉は回収できない。案の定、少年はつんと澄まして唇を尖らせた。
「なんでおじさんにロハでそんな個人情報提供しなきゃならないのさ」
「俺は警察官だからな。君を保護・補導する義務と責任がある。いわば、君を守る為なんだ。そのために必要な情報は聞いておかないと――」
「えー、そんなの理由になんないよ?」
どうにか正論で納得してくれないだろうかと説明した言葉を遮るように、少年は声高に不満そうな声を上げ、ブーイングをする。そんな少年にこれ以上どう言ったものかと悩んで、俺は制帽のつばを手で持ってかぶり直した。
だが、帽子をかぶり直して顔を上げた俺を待っていたのは意外な展開だった。
「ぷっ……あはは……!」
少年がその俺の顔を見て吹き出し、笑い始めたのだ。先ほど俺を驚かそうとしていた時の不気味な笑いとは違って少年らしい明るい笑い声だったが、笑われる意味が分からなくて戸惑っていると、彼は笑いすぎで出た涙を指先で拭うようにする。
「ふふっ……おじさん、真面目すぎ! 面白!」
そう言った少年はまだ肩をひくひくさせていたが、ようやく笑うのをやめて肩を竦めた。
「……それじゃあ、おじさんのクソ真面目さに免じて、場所を変えるくらいなら付き合ってあげるよ。ボク喉渇いちゃったし。警察署でもお茶くらいは出るんでしょ?」
悪びれるでもなく、むしろ「行ってやってもいい」くらいのニュアンスで言って手を差し伸べてくる少年に、俺は圧倒されていた。
なんなのだろうか、この少年は。ただの家出少年という雰囲気ではない。
だがだからと言って、俺はどうすればいいのだろうか。
そこまで考えて、俺は思考を放棄する。俺は俺の正義に従うまでだ。すなわち、青少年は保護されるべきだ、ということ。
俺は差し出された少年の手を震える手で取り、それでもしっかりと手を繋ぐと、そのまま少年に背を向けて歩き出した。少年も素直についてきている様子だった。
この路地裏から早く出ることだけを考えて、俺は足早に歩き続けた。
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