鬼切り

小野セージ

鬼切り

鬼が取り持つ縁かいな

零 はじまりのおわりなりてはじまりはじまりの物語

 びょう、と風が頬を撫でた。

 生ぬるい、嫌な感じの風だった。

 セーラー服の少女はその風に嘗められた頬に手をやると、寒くもないのにぶるりと震えて、手にした学校指定の学生鞄を胸に深く抱える。街灯の灯る人気の無い住宅街の道を足早に歩くと、磨き上げられた革靴の爪先が街灯の光を反射してつやつやと光った。

 先日、隣町では変質者が出没したらしい。そのこともあって、あまり遅くはなりたくなかったのだが、帰りしなに部活の先輩に雑用を押しつけられてしまった。雑用を押しつけるだけ押しつけて、手伝いもせずに帰ってしまった先輩の顔を思い出して、少女は恨めしげに軽く唇を尖らせた。

 とくとく、という自身の心音と決して大きくはないはずの足音とが重なり合って耳につく。静かだった。いつもならば多少遅くなっても塾の行き帰りらしい学生やら家路につくサラリーマンなどで多少の人通りはあるのに、今日に限って少女の前後に人影はない。それもなんだか気持ちが悪かった。

(早く帰りたいな……)

 少しばかり焦る気持ちが生まれ、少女はふと差し掛かった公園に目をやった。この公園を斜めに突っ切れば家に帰るのに少し近道になる。普段は人気のない公園は気持ち悪くて通る気がしなかったが、今はどっちにしろ近くに人の気配はない。それどころか、最近の公園には治安維持のために煌々と光を放つ街灯が立ち並んでいて、かえって薄暗い道よりも安心できるように思えた。

 少女は少しだけ首を傾げて考えたが、すぐに爪先を翻して公園の中へと歩を進める。

 街灯の灯りに公園内に点在する遊具が照らし出され、くっきりとした影を落としていた。本来の遊具の大きさより大きく映るそれがおどろおどろしい怪物のように見えて、少しだけどきどきしたけれど、少女はふるふると首を振ってその考えを排除した。

 怪物なんて現実にいるわけがない。これはただの影だ。

 そんな風に自分に言い聞かせながら砂利を踏みしめて歩くと、間もなく公園の出口が見えてくる。そこを抜ければ自宅まではすぐだ。ほっと詰めていた息を緩めた少女は、歩調を速めて一気に公園から抜け出そうとした。

「っ!?」

 だが、すぐに少女はぎくっとしてその場で軽くたたらを踏んだ。

 ナニかがいた。それは公園の出口に据えられた街灯の下、少女を待ち構えるように立っていた。

 一瞬、ソレがなんなのか解らなくて、少女は目を見開く。もしかして、件の変質者だろうか? いいや、それとももっとタチの悪いモノ?

 一瞬、怯えの表情でソレを見てしまった少女。だが、すぐにソレが黒い詰め襟の学生服を着た一人の少年であることに気付いて、ほっと胸を撫で下ろした。ぱっと見たところ、街灯に寄りかかって腕を組む少年は不良少年ではなさそうだし、変質者という雰囲気でもない。きっとここで友人と待ち合わせでもしているのだろう。

 そう結論づけてしまうと、驚いて足を止めてしまった自分がなんだか恥ずかしくて、バツの悪さに少女は少年から視線を逸らしながら彼の目の前を足早にすり抜けようとした。


 パンッ!


 何が起こったのか、少女は理解できなかった。少年の前をすり抜けようとした瞬間、何かが弾けたような音が自分のすぐ背後から聞こえて、背中に軽い衝撃を感じた。まるで、背中にくくりつけられていた風船が割れたかのような、そんな感覚。

 勢いのまま少年の前を数歩行き過ぎてから、少女は思わず後ろを振り返る。

 印象的な茶色い二つの瞳と目が合い、少女はたじろいだ。先ほどまで所在なげに地面を見つめていた少年の瞳が、今はじっと少女を見ていた。組んでいたはずの腕も解かれ、右手は何かを掴んでいるかのように軽く握られている。

「………………」

 戸惑いを隠せない少女は口を軽く開閉した。しかし結局何を言っていいのか分からず、眉尻を下げてきゅっと唇を咬む。

 まさか、見も知らぬ少年に「何かしましたか?」などと聞く勇気は持ち合わせていないし、人前で背中に手を遣ってみせるのもなんだか格好悪い気がして、少女は無意識に困惑した表情で目の前の少年を見上げた。

 少年はその少女の様子を見て、軽く唇の端を上げると、やはりこちらも少し困った様子で微笑んだ。よく見れば少年はなかなかどうして凜々しい面立ちをしていて、笑顔も人好きのする穏やかなものだった。

「……どうかしましたか?」

 その微笑みで何事もなかったかのようにそう言われてしまえば、少女は狐につままれたかのような気持ちで曖昧な笑顔を返すしかできなかった。

「……あ、いいえ。その……なんでも、ないです……」

 それだけを小声で言うと、少女は少年に軽く会釈をして、踵をかえして逃げ出すように駆け出していた。

(……気のせい、だったのかな?)

 気恥ずかしさに火照る頬を押さえ、家に向かって真っ直ぐに駆けながら少女は首を捻る。

 でもやっぱり、あの時感じた「背中にくくりつけられていた風船が割れたような感覚」は生々しくて。付いていた何かが無くなって、背が幾分軽くなった軽くなった気がして……。

(背中に「何か」が付いていた?)

 その考えに至って、少女はぞくりと背筋を冷やした。

 中学生の頃、クラスの意地悪な男子が悪口を書いた紙を少女の背中に貼り付けたことがあった。少女はしばらくそのことに気付かずに、大変恥ずかしい思いをしたものだ。

 でも、この感覚が本当であれば、さっきまで背中に付いていたモノは、そんな紙のように薄っぺらで軽いものではない。

 では一体、何が背中に付いていたというのだろう。

(ただの私の勘違いなんだ、全部……全部!)

 少女はぶるぶると頭を左右に振って自分のあらぬ考えを否定した。しかしその否定の気持ちとは逆に、少女の身体はかたかたと細かく震えている。

(早く帰ろう。家に帰れば絶対安心なんだから……)

 少女は何の根拠もない理論で自分を武装して、震える足をまた踏み出す。そして、わき目もふらずまっすぐ前だけを見て自宅を目指した。

 だから、少女は「そのこと」に気付く余地はなかった。去りゆく少女の背中をじっと、茶色の瞳が見つめていたことに。

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