肆 オールバックはモテないのか?


 幼い頃の夢は「世界を救う正義のヒーロー」になることだった。


 たとえば特撮もののヒーローのように、あるいはゲームや洋画の主人公のように、襲いかかる脅威から罪無き人々を守りたい。そう思いながら成長した俺が警察官という仕事に憧れを抱き目指したのは、まあ必然だったのだろう。

 俺は碓井龍麻。警察官だった・・・

「碓井、気持ちは変わらないのか……?」

 もうすぐ自分のものではなくなるデスクに向かって最後の書類の整理をしていた俺がふと顔を上げると、目の前のデスクに座ってコーヒーを飲んでいた天野さんが目を伏せがちにしながらそっと俺に向かって呟いた。

「……ええ」

 俺はなるべく余計な感情が乗らないように気をつけながらそう答えてから、手にしていた書類を軽くまとめる。

 天野さんは気まずそうに、しかし何か言いたそうにこちらを見ていた。

 少年が消えたあの夜の一件の後、天野さんと口をきくのは久しぶりだ。別にどちらかが意地を張って会話をしないと決めていたわけではないのだが、お互いに何となく話しかけるタイミングを逃していた。

 あの夜と、それから課長との資料室での一件。警察官という仕事との向き合い方を考えさせられるいい機会だった。少し悩みもしたが、俺は比較的すぐに決意を固めて辞表を提出していた。

 転職のあてもないままの辞職は我ながら短絡的だとは思ったが、ずるずると引き延ばしていたらこの機会を逃してしまいそうだったし、消えた少年についてこれ以上に渡って調べるのであれば、それにはまとまった時間が必要だった。

 課長は何も言わずに辞表を受け取ってくれた。

 しばらくは通常業務にプラスして仕事の引き継ぎ作業をしながら、ようやく馴染み始めたデスクから私物を持ち帰る日々。私物は多くなかったが、毎日少しずつ持ち帰ることで気持ちの整理にも繋がった。

 そして、今日は最後の出勤日。そんな日に天野さんからやっと声を掛けられて、俺は内心ほっとしていた。天野さんとはこの気まずい雰囲気のまま別れたくなかった。

 俺は書類整理の手を止めて天野さんに目配せをすると彼をオフィスの外の休憩スペースへ誘導した。

 天野さんと俺は休憩スペースの長いすに一つ隙間を空けて座る。

 しばらくはお互い切り口を見つけ出せずに黙っていたが、黙ったまま二人でここに座っているのも体裁が悪い。俺が意を決して天野さんに言葉を投げかけようとした時だった。

 こちらに視線を送ることもしなかった彼だけれども、俺よりかほんのコンマ数秒先にぼんやりと宙を見つめてぼそぼそと呟くように話し始めた。

「警察官をやってるとさ、やっぱりあるんだよな。組織を維持するための必要悪ってヤツが。それを良しと思う人間なんて殆ど存在しやしないのに、そうしなければ組織が瓦解しかねないような、そんな厄介なものがごろごろしてる。そういう事態にぶち当たった時は俺だって理不尽を感じるよ」

 膝の上で組んだ手指を忙しなく動かしているのをじっと見つめながら言う天野さん。理不尽を感じる、といいつつも天野さんの表情は穏やかだ。

 ああ、これはある種の悟りを開いた者の顔なのだろう。天野さんは、そう思って次を促すように無言を貫いた俺を隣から見て、ニッと微笑んでみせる。

「でも、俺には可愛い嫁さんとまだ小さな息子がいる。俺は実際、警察官としての知識と技術しかない男だし、嫁さんや息子には余計な苦労はさせたくない。例え息子が将来、完全に納得のできていない仕事をしていた俺を蔑むことがあるとしても、俺は警察官を辞めないよ。家族のためにも、市民のためにも、警察官という仕事を全うすることが、俺の正義でもあるからな」

 天野さんのその少年のような純粋な微笑みを見て、俺も強ばっていた自分の口元を緩めて、頷くことができた。

「……はい」

 俺が表情を緩めたのを見て、天野さんもほっとしたように軽く数度頷く。そして、大きく振りかぶると俺の背中をバシッと一度張り倒した。

「いっ!?」

「わはははは」

 照れたような誤魔化すようなその天野さんからの手痛い一撃に俺は思わず唸ったが、天野さんは悪気などまるでないようにからからと笑う。そして、目を細めて俺を見た。

「まあ、だから何を言いたいかっていうとだな。俺はお前のこと結構買ってるんだ。だから言うんだが、お前のいいところはその真っ直ぐさだ。痛いくらい真っ直ぐなお前には曲がりくねって生きる俺たちみたいなのは理解できないかも知れない。でも世の中には曲がりくねって生きていかなきゃならない人間もたくさんいることを忘れないでくれよな」

「……はい、解ってます……」

 俺がそう答えると、天野さんはうんと大きく頷いてから、にやりといたずらっ子のように笑う。かと思うと、俺の頭に手を伸ばして前髪をぐしゃりと乱した。きっちりとオールバックにセットされていた前髪がほつれてしまった。

「ちょっ……! 何するんですか!?」

「ふはは、オールバックもきっちりしてるお前らしくていいけどな、お前割といい男なんだからこのくらいの方が女の子にはモテるぞ? これが、去りゆくお前に俺からしてやれる最後のアドバイスだ!」

 そう言うと、天野さんは勢いよく長いすから立ち上がる。そしてこちらをちらとも見ずに片手を上げただけでその場を去って行こうとした。それが天野さん流のはなむけだったのだろう。気付いた俺は、急いで立ち上がり、天野さんの背中に声をかける。

「天野さんっ!」

 だが天野さんは応えない。その代わり、上げた片手を幾度かひらひらさせて、それからぐっと握りしめた。

「………………」

 その仕草が俺に向かって「頑張れよ」と言ってくれている気がして、俺は去りゆく天野さんの背中に向かって深く深くお辞儀をした。

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