伍 髭と薔薇と甘い酒

 最後の私物であるマグカップを割れないように紙で包んで通勤に使っていたショルダーバッグの奥底に入れる。きちんと収まったことを確認するようにぱんぱんとはたいてから持ち上げると、肩紐に取り付けていた蝶を模したチャームがしゃらんと揺れた。そのバッグはやけに軽く感じた。

「お世話になりました」

 まだ忙しそうに署内を行き来する元同僚たちに向かってそう声をかけると、俺はすぐにきびすを返してS宿署の外へと足を踏み出した。外はもう薄暗い。

 S宿署を出た俺はもうただの無職だ。そう考えると少し不安でもあった。警察官を辞めたこと自体は後悔していないし、あの少年について調べを進めるにはまとまった時間が必要であることも確かだが、収入が全く無くなってしまうのはいささか具合が悪い。

 元からこれといった趣味もなく、割と金のかからない方なのではないかと思うのだが、やはり今までよりも節約はしなくてはならないな、と嘆息した時だった。

「なーに、シケた顔してんの、おにーさん?」

「え?」

 急に声をかけられて驚いた俺が顔を上げると、目の前にいたのはド派手な紫のスーツを着てにやつく若い男だった。女性受けが良さそうな整った顔立ちに、だいぶ奇抜な雰囲気のある髪が印象的なその男は、どう見ても歓楽街で営業する店のホストといった風情だ。

 よく辺りを見てみれば、ここは警らで見慣れたS宿の一角。暗くなって活気づき始めた歓楽街そのものだった。

 確かに遠くはない場所だが、S宿署から最寄りの駅までの道すがらではない。なぜこんな所に来てしまったのかよく解らず、混乱して立ちすくむ俺の目の前に手をひらひらとさせて意識を確かめてから、その男はぺらぺらと喋り始めた。

「あんま無防備に歩いてっとあぶないぞー。ここいらの奴らはいい奴も多いけど、ガラは悪いし金に困ってるヤツも多い。そういうヤツに財布抜かれるだけならまだいい方で、下手なヤツに捕まれば、おにーさん自身が『商品』にされる可能性だってある。おにーさんくらいの器量と若さなら、どう使う・・・・にしろいい値段がつきそうだしなぁ」

 下卑た笑い声をたてて笑ったその男に、俺は嫌悪感を感じて思わず睨み付ける。だが男はひょいと肩を竦めて悪びれることもなく馴れ馴れしく俺の肩に手を回した。

「おお怖い。そんな睨まないでくれよ。別に僕がおにーさんのこと取って食うわけじゃないんだからさー」

「……だったら放してくれるか?」

 男の手の内から自分の肩を取り戻そうと身動ぎするが、男はぴったりと俺の肩を抱いて離れない。

「まあまあ。嫌な気分にさせたなら悪かった。サービスするから、僕の店に寄っていってよ」

「いや、俺は……」

 俺はなんとか男の手を抜け出そうとするが、どういうわけか上手く振りほどくことができずにずるずると連行されてしまう。なんていう馬鹿力と技だろうか。見かけはひょろりとした、俺と同じ年頃の男だというのに。

 まずい、これは悪質な客引きの類いだろうか。あまり乱暴にして騒がれてもまずいが、このまま連れて行かれるのも相当まずいのではないだろうか。

 だが、そう思いつつもどうすることもできずに肩を抱かれたまま連れて歩かれ、辿り着いたのはこじんまりとしたビルの一階。新しいらしく割ときれいな外観。看板には高級感を感じる文字で「BAR のばら」と掲げられていた。

 男が俺を肩に抱えたまま器用に店の扉を開くと、カランカランとドアベルが鳴る。

 意外なことにその店は中も割と趣味の良い落ち着いた雰囲気のクラシックなバーだった。酒はたしなむ程度しか飲まないし、客引きに無理矢理連れてこられた状況だというのに、古い映画やドラマに出てくるようなバーの雰囲気に少しだけテンションが上がる。

 そして、そのバーカウンターの中にはこれまたクラシックな映画から抜け出してきたような鼻の下に上品に整えた髭をたくわえたバーテンダーが佇んでいた。

「シュウさん、お客さん連れてきたよー!」

 だがその雰囲気を全てぶち壊すように、俺の肩を抱いたままの男が声を張り上げる。シュウ、と呼ばれたバーテンダーは俺と男を交互に見てから、呆れたような顔で言った。

「のばら、お客様をあまり無理矢理に連れてきてはいけないよ」

 バーテンダーにそう言われると、のばらと呼ばれた男は今までのカンに障るようなにやにや笑いをやめてしゅんとしてしまう。

 そういえば、この店の名前も「のばら」と書いてあったが……。

「こちらの者がだいぶ無理矢理に連れてきてしまったようで、失礼いたしました。失礼のお詫びにお代は結構ですので、ぜひ一杯呑んでいかれませんか?」

 丁寧に腰を折って頭を下げ、慇懃な口調でそう言ったバーテンダーに、俺は思わず毒気を抜かれてしまう。確証はないが、彼の言葉には嘘がなさそうだと思った。それなら、こちらも渡りに舟だ。俺にはこのS宿の歓楽街に生きる人に聞いてみたいこともあった。

「いきなり連れてこられたのはびっくりしましたけど、特に何をされたわけでもないですし、お代はきちんと支払いますよ。その代わり、少し聞きたいことがあるのですが……」

 バーテンダーはゆったりと首を傾げたが、すぐに俺の言い分を通してくれた。

「わかりました。ではお話の前に、まず一杯お作りましょう。何になさいますか?」

「……あまり詳しくないので、おすすめを頂けますか」

「かしこまりました」


 ❖


 つい、と美しく指でグラスの根元をおさえながらカウンターを僅かに滑らせるように差し出された美しい緑色のカクテルは、口に含むとほんの少し甘くて美味しかった。

「うまい……」

「お気に召して頂けましたら光栄です」

 素直な感想を漏らすと、バーテンダーはにこりと笑って、また丁寧に腰を折って頭を下げた。

 カクテルを作り終えたバーテンダーは、俺が店に残るという話の流れになった途端にいそいそとバーカウンターの中に入っていったのばらと呼ばれた男を近くに呼び寄せて、自己紹介をしてくれた。

「わたくしはシュウ。こちらはのばらと申します。本名ではありませんが、この世界ではよくあること。ご容赦頂ければと思います。この『BAR のばら』ではのばらがオーナーを、わたくしはマスターをつとめさせて頂いています」

 意外なことに、俺と同い年くらいに見えるのばらがオーナーだという。確かにこの店の名も「のばら」だった。少し驚かされたが、得意げに顎を上げたのばらの脇をシュウ――目上でもあることだし、マスターと呼んだ方がいいのだろうか――が抓ったのを見て、なんとなく力関係は察することが出来た。

「さて、わたくしどもに訊ねたいことがおありだということでしたが?」

「あ、はい」

 マスターに訊ねられて、俺はぴんと背筋を伸ばす。そして、慎重に切り出した。

「ナイトチルドレン、という言葉に心当たりはありませんか?」

 俺がその言葉を口にした途端、興味なさそうにしていたはずののばらがぴくりと耳をそばだてたのが解った。

 ……これは、アタリだろうか。

 俺が少年を発見したのも、ナイトチルドレンという言葉を発した少年が補導されたのもここ、歓楽街だ。ならばここで生業を営む者ならば、何かを知っているのではないか。そう思ったのだ。

 マスターはしばらく困ったように考える仕草をしていたが、すぐに小さく頷く。

「そうですね、もう隠しても無駄なようですし、申し上げてしまいましょうか。たしかにわたくしどもはナイトチルドレンという言葉に心当たりがあります」

「お、おい、シュウさん……」

 のばらの不安そうな声と視線に、マスターは落ち着くように彼に目配せをしてみせた。それを受けてのばらは黙ったが、それでもちらちらとこちらを見てくる。

 俺は一度ごくりと息を飲んでから、緊張に乾いた唇を嘗めて湿らせた。

「では、ナイトチルドレンというのは、何なのでしょうか? 何らかの組織? それとももっと概念的な何か……? 彼らはこの街でどんなことをしているのでしょうか?」

 もっと端的に突っ込んだ議論をしたがった俺。しかしマスターは無言で二杯目の酒を差し出して、俺に落ち着くように促した。俺は素直にその酒を受け取って、口をつける。やはり美味かった。

 その俺を見て、マスターはにこりと笑う。僅かに開いた口から尖った八重歯がのぞいた。

「大丈夫。わざわざわたくしどもの口から聞かずとも、必要な時には必ず会える。それがナイトチルドレンですから」

「……必要な時に、必ず会える? つまり、今はその時ではない、ということですか?」

「そうですね、少なくとも彼らはそう思っているのでしょう」

「彼らに必要だと思われなければ、一生会うことはできないということですね……」

 俺ははあとため息を吐いた。それでは意味が無い。あの子を守りたいと……守らなくちゃいけないと思ったのに……。そうしなければ、俺は……。

 無意識に拳を握りしめた俺を、マスターはどう見たのだろう。彼はしばらく口を噤んでいたが、ふとその場の空気を緩めるように発言した。 

「でも、気を落とさないことです。あなたがどうして彼らを追いかけてるのか、理由は解りません。でも、あなたはきっと彼らに会うことができる。それも遠くない未来に……」

「遠くない未来……」

「ええ、ですから今は、彼らのことはあまり気にせずに楽しくお酒を飲みましょう」

 微笑むマスターは優しげだ。だがこれ以上の情報は出せないという確固たる意思を感じる。俺は少しだけムッとしてマスターを見上げた。しかし、その瞬間、くらりと世界が回るのを感じる。

 カラフルでぐにゃぐにゃと曲がる視界とぐるぐると回る世界。すぐにそれが強い酩酊感からきていることに気付いた俺は歯がみする。しまった、甘くて飲みやすいと思っていたが、実は相当強い酒だったのかも知れない。

 ぐにゃぐにゃになった視界で、マスターらしき曲がった人影が耳元で優しく囁いた。

「……あなたは素直すぎる。見も知らぬバーテンダーが出した名前も分からぬ酒を飲み干すというのは、とても危険なことなのですよ?」

「なに……をするつもり……だ?」

 意識を保とうと必死に頭をもたげて言った言葉に返答はなく、ただ、俺は気を失うようにその場に倒れ込んだ。

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