無能の零

 人類の三柱。

 人類滅亡のため攻め入って来た神々に対抗してきた人類の中で、より多くの神々を倒した実力者、三名を指す異名。

 現在、三柱と呼ばれる三名は二代目に当たり、先代の柱より人々を安心させる平和の象徴として、それぞれ更なる異名を与えられた。

 人類の三柱――『英雄の父』、荒野あらやミーリ。

 彼の登場で、恐怖に呑まれていた道場は一瞬にして希望を取り戻した。彼が誰かに負けるところなど、誰にも想像できなかったからである。

 彼の血を引く子供達はより強く父の強さを信頼し、安堵していた。

「ありがとう、父さん……」

 昔の自分とよく似ているらしい息子の額に手を当て、自分の額に籠る熱と比較する。

「また無理させたみたいだね。ごめんよ、せつな

 微熱があるが、重症ではない。顔色から見ても、まだ大丈夫そうだ。

 重傷かつ、応急処置が必要なのはむしろこっち。

れい。零」

「ごめん、パパ。私、何も……何も……」

「いいんだよ。今はゆっくり休んでな」

 肩に羽織っていた上着の袖を引き千切って、頭に巻いて止血する。

 子供達を安心させるべく、笑顔で二人の手当てをするミーリであったが、同時に眼鏡を外して見せる左目は霊力を帯びて鈍い金色で輝き、針のない時計盤を映していた。

「ロン」

「えぇ」

 畳に顔を伏したまま、伸びて来る老人の手を躱しながらバック転して、その勢いのまま光をまとい、姿を変える。

 光を脱ぎ去り、露にした紫の肢体がミーリの手で風を切って踊る。

 神々に抗うため、人間が召喚することに成功した人の意思を持つ神殺しの武装、神霊武装ティア・フォリマ

 かつて六つの武装を使ったという『英雄の父』、荒野ミーリ。

 先の戦いで三つを失いながらも、今も尚、その手に握られているのは常勝の槍――

死後流血ロンギヌスの槍」

「それが、ミーリ・ウートガルド常勝の槍か」

 鼻は折れて血を噴いて、歯も砕け、額も切れて、血塗れの顔面で畳を汚しているというのに、老人は淡々とミーリらを見据えて、ミーリの握る槍を観察していた。

 余程頑丈なのか、老人故に感覚が鈍いのか。それにしては、顔を伏したままでもロンゴミアントを正確に捉え、回避をギリギリにさせた反射神経は老人のそれとは思えないが。

「この老いぼれにそんな大層なものを使うのかね? 英雄も歳には敵わんか」

「そちらは歳の割に随分とお元気そうで。というかどこかで見たなと思ったら、近くの道場で空手を教えてた館長さんじゃないですか。妻の話じゃ、五年前に行方不明になったって聞いてましたけど、まさかこんな形で再会するなんて」

 だが聞いていた話では、道場にいたときもほとんど師範代が教えていて、館長はあくまでアドバイスをするだけだったという。

 何度か会ったこともあるが、そのときでさえ、もう機敏に動ける様子は、失礼ながら見られなかった。五年後の今、更に衰えているならまだしも、若返っているとなると妙な話だ。

 時間空間の類の話になってくると何かと敏感になってしまうのは、ミーリ自身悪癖だと思っていたが、無視することは出来なかった。

「切。零を頼んだよ」

「うん」

「パパ……」

 涙で、視界が滲む。

 自分は何もできず、抵抗も出来ず、ただ守られるばかり。

 それがまだ年端もいかない子供のころならまだしも、世間的にもだいぶ大人に近付いた今でさえ、父の背を見上げることしかできない。

 昔は大きかった父の背中が、いつしか小さく見えるだなんて聞くけれど、未だ父の背中は大きく、そして遠い。

 今も手を伸ばせば届く目と鼻の先にいるのに、手を伸ばしたところで到底届くことのない遥か彼方にいるかのようで、手を伸ばすことさえ、馬鹿馬鹿しく感じてしまう。

 そんな娘相手にも、優しく微笑みかけてくれる父のことを、憧れるのと同時、ほんの少しだけ羨んでいたし、恨んでもいた。

 父は察しているのか、勘付いているのか、見て見ぬ振りをしているのか。本当に気付いていないのか。どれかはわからないけれど、それでも優しく笑ってくれる。

「大丈夫。だから今はそこにいてね」

 その言葉にどれだけ救われて、どれだけ落ち込むことか。

 知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。

 だけど今はそんなことを問いかける暇はなく、迫り来る攻撃から自分達を護るため応戦する父の背を、応援することしか出来ないことに歯がゆさを感じながら、零は頭が痛むのを忘れて叫ぶことしか出来なかった。

「パパ!」

 畳が凹むほどの強い踏み込みから、風を切って繰り出される正拳突き。

 槍で受けたミーリは身を捩じりながら一歩踏み込み、槍を翻して拳を流す。より前に突き出すよう重心を傾けられた老人の懐に入り込んで、石突で胸座を突き飛ばす。

 だが先に胸座に老人の手が入っていて、ガードされていた。突き飛ばされたものの、そこまでのダメージは入っていない様子だ。

『随分と頑丈ね。頑固なのは頭だけで充分だわ』

 振り下ろされる手刀が避けた先にあった畳を切る。

 切られた畳の下に槍の切っ先を潜り込ませて、てこの原理で跳ね上げて顔目掛けて飛ばす。再度繰り出された手刀にすぐさま両断されるが、視界を一瞬でも塞ぐのが狙いだ。

 槍を頭上にほうったミーリが老人の背後に回り、巨体に腕を回して持ち上げる。

 意識が背後に回った老人は、目の前で人型に戻ったロンゴミアントのヒールが迫っているのに気付くのに一瞬遅れ、手を伸ばしたものの、先に彼女の踵落としが脳天に叩き込まれた。

 さらに間髪入れずに巨体が持ち上がり、対格差も体重差も無視してのスープレックスが、再度老人の脳天を揺らす。

 連続して強い衝撃を脳天に受けた老人は脳震盪のうしんとうを起こしたようで、立ち上がれずに泡を噴いて倒れる。

「重っ! あぁぁ、腕が壊れるかと思った」

「だらしないわね。昔はもっと重いの持ち上げてたと思うけど?」

「無理言わないで。俺ももう四二だよ? 世間的に見たらおっさんだよ、おっさん。足腰にガタが来るし、下っ腹も出る年頃なの」

「大丈夫よ、あなたの腹筋は今も八つに割れてるじゃない」

 実年齢四二でも、外見は未だ二〇代後半。もしくは三〇代前半と言った具合。未だにその整った顔立ちで甘い歓声を上げる異性は多い。

 ただ実の子供達の感覚でも、周囲の同年代の男性と比較してしまうと、父の若々しさは多少なりとも違和感が発生する程で、父に関する最大の謎でもあった。

「切! 零!」

 二人の名を呼びながら、道場に駆け込んできた黒髪の女性。彼女もまた、周囲と比べると若く見られる方ではあったが、父と比べるとまだ自然な若さを保っていた。

 苦労の証と笑って誇る白くなった横髪を結んだ彼女こそ、二人の母にして荒野ミーリの正妻、荒野空虚うつろである。

「あなた! 来てくれてたのね」

「ただいま。とんだ帰宅になっちゃったね」

「子供達は?」

「大丈夫、無事だよ」

 奥に座り込む兄妹に駆け寄って、強く抱き締める。

 余程心配だったのだろう。もうグチャグチャになっているとはいえ、道場の師範が靴を脱ぐのを忘れ、土足で駆け込んだのだから。

 道場の師範代から連絡を貰って、血相を欠いて飛んできたのがわかる。

「お母さん、苦しいよ」

「ごめんね、ママ」

「謝ることなんてないよ。とにかく無事でよかった……」

 翌日、事件は世界に報じられた。

 英雄、荒野ミーリの正妻が勤める道場襲撃。荒野の双子含め、道場関係者数名重傷。そして、犯人が名乗っていた『女神信仰団体』の文字が、人々に二〇年前の戦争を思い起こさせた。

 よって事件が報じられてから三日後、彼らが集結する。

 歴史上初となるだろう、人類と神々の合同組織。二〇年前の戦争にて、女神を討ち倒した魔神らを中心に組まれた軍。

 名を、女神を討つ軍シントロフォス

 総督の地位に立つのは、二〇年前に組織の原型となった部隊を率いた、荒野ミーリである。

「やっと休暇が取れたのに、残念ね。ミーリ」

「家族の顔が見れただけ、よしとするさ。あの子達には、辛い思いをさせてしまったけれどね」

 世界各国の対神軍には、世界に八つ存在する対神学園のいずれかを卒業していれば、九分九厘入団することが出来る。

 が、女神を討つ軍シントロフォスはその真逆。

 入団希望者の中、念願が叶うのはおよそ一割。むしろそこで弾かれた九割こそが、なくなく世界各国の対神軍へと入団するという形になる。

 故に、集った誰もが世界有数の実力者に相違なく、現在世界の脅威に対するほとんどの戦力が、この組織に集結していると言っても過言ではなかった。

 役割は主に対神軍と変わらないものの、難易度がより高位の案件を受け持ち、更に特定の案件に関してはどの組織よりも優先して捜査、調査する権限を持つ。

 その案件と言うのは説明するまでもなく、組織の名の通り、女神に関する案件だ。

「急な要請だったのに、結構集まってくれてるみたいだね」

「総督として、これ以上ないくらい頼もしいことはないわね」

「そだね。じゃあみんな、集会を始めようか。議題は言うまでもなく、俺の可愛い子供達を襲ってくれた、女神信仰団体への反撃について。協力してくれるかな」

 全治三日――が経った。

 幸い、零が負った傷は残らずに消えてくれた。

 女の子の顔に何をしてくれたんだと憤慨していた父のことを思い出して、三日間頭に巻いていた包帯を捨てながら、無事に傷が塞がったと連絡を送っておいた。

 頭を負傷したから検査もしたが、内部に損傷は見られなかったらしい。が、それでも頭が痛む気がするのはきっと、気持ちの問題だ。

 怪我と同時に刻まれた、己の無力。

 元々自覚していたけれど、老人相手に何もできずにやられたという事実が、自分の心の中に深く残っている。こればかりは、傷と共に消えてはくれない。

 父が駆けつけてくれなかったら、自分はもちろん道場の人達も、そして兄も殺されていたかもしれない――いや、確実に殺されていた。

 女神信仰団体。

 父からは、今現在最も危険な組織であるとは聞いていたけれど、相手は人間だった。つい最近まで、戦線から離脱さえしていた老人だった。

 神様と戦うために対神学園に入学したのに、自分は一体、今まで何をしていたんだ。

「零?」

 ひのきを財源に作られた、一般家庭と比べれば比較的大きい部類に入るらしい風呂に入ると、切の声が反響して聞こえて来た。

 だが零は躊躇も狼狽もすることなく、ゆっくりと――もちろん、裸体で入っていく。

「いい?」

「……いいよ」

 父と風呂に入ることは随分前に卒業したけれど、零は未だ兄とは風呂に入っていた。

 それが普通でないと知ったのは随分後になってからで、双子特有の感覚なのかなと思っていた頃もあったけれど、今は違うのだと理解できる。

「ほら、おいで」

 双子だから、言わずともわかってくれる。

 今のまま体を洗えば、タワシで体をこすって切り付けようとする。

 頭を洗えば、父と同じ色の髪を疎んで引き抜こうとさえしてしまう。

 自分自身を心の底まで嫌うと、自傷行為にさえ走ろうとする妹の体と髪を、切は優しく洗う。

 双方抵抗がないのは無論、双子だからなどではない。他の双子に訊いたとしても、体を洗うどころか一緒に風呂に入ることさえ、あり得ないと返されるだろう。

 二人の関係性は血筋故ではない、と言いたいところだが、血筋の影響はあるのかもしれない。

 二〇年前の戦争の発端を父から聞いたとき、零も切もそう思わざるを得なかった。

 でもその話を聞いて何も変わることはなかったし、変えようとも思わなかった。何より、変えていいものだとも思わなかった。

 同じ母から同じ日にちに生まれた、同じ血が通う双子。

 だから好き合っていけないはずはないし、

「――っ」

「っ、ぁぁ――」

 何もない零にとって、唯一の拠り所。

 唯一、初めから一緒にあったもの。いてくれた人。ずっと側で、励まし続けてくれた家族。

 他の誰よりも好意を抱き、愛情を抱くのに不思議はなく、時間も掛からなかった。

「に、ぃぃ……に……」

 自分の無力を、嘆く涙諸共抱き締めてくれる兄。

 誰もが諦めて、差し伸べることさえ諦めるほど無能な妹を、未だ諦めずにいてくれる兄を愛する妹。

 それが荒野零――荒野ミーリの血を引き継ぐ、終焉の世代と呼ばれる子供達の中で最弱の、通称『無能の零』であった。

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