旅の始まり
第1話 車は急に止まれない
とある辺境の名もなき農村。
その近隣の山中で、草木に足を取られながら必死に走る村娘がいた。
彼女の名前はリト。
酒場を兼用する宿屋、『メサの葉亭』でリトは働いていた。
両親を亡くし天涯孤独の身となりながらも精一杯明るく働く姿は、他の村人にとって、気持ちを清々しくさせてくれる掛け替えのないものであった。
そんな彼女の日課は料理で提供する山菜をとりにいくことだった。
普段ならば何の危険もないはずの、人里近い場所。リトにとってそこは庭のようなものだった。
そう、そこに自分の命を脅かす存在がいることは、考えもしなかったのだ。
既に息を切らしかけている。
いつも通りの場所にいたその存在とは、子鬼と呼ばれる怪物だ。人間と子供と変わらぬ背丈のその怪物の姿は、ひどく醜悪だった。
顔は腐った豚のようでいて凶暴な犬のようでもある、その頭にはまがりくねった山羊の角が生えていた。背骨はまがっているが背丈の割に足は遅くなく、むしろ獣道と言う悪路においては人間よりも優れた脚力を発揮した。
遠目に見れば、猿に見えないこともないような風体ですらあったが、しかしリトはあなどってはいない。
そんな矮小な姿であるが、最下層に位置する怪物でありながらも
その知性はもっぱら文化的な営みには使われず、獲物をなぶって苦しめる遊びや毒物で狩りをするのに使われていた。
リトにとって、自分がもしその醜悪な生き物に捕まったら、と考えることは恐怖でしかない。
子鬼の数は3匹。
1匹見かけるだけで、大の男たちが徒党を組んで総出で山狩りを始めるような生物だ。
宿で働く村娘にはどう抵抗したところで、抗うことは出来やしないだろう。
なんとか獣道を抜け、村に続く山道には出たもののリトの息はここで続かなくなった。
足が重い、肺が締め付けられるように痛く苦しい。
誰か助けを呼ぶことが出来れば、万に一つでも助かるかもしれない。
だが、この状況で叫ぶ力も残っていなかったし、そう判断する余裕も残ってはいなかった。ひざから崩れ地面に手をつくリト。
そのリトが死を覚悟するまもなく、草むらを割るようにして山駆ける三匹の異形は、手に握る斧で獲物の頭をかち割ろうと狙いを付ける。
が、その足音をリトは聞くことは出来なかった。
今までに聞いたことがない、牛が唸る音ともまた違う強烈な異音がすべてをかき消したからだ。それはエンジンの駆動音と言うものだった。
リトが背後を振り返った瞬間、飛び掛かろうとしていた子鬼が目に入るが、それは漆黒に染まった鉄の車に挽かれ、はるか藪の中にまで吹っ飛んで行った。
リトの人生で目撃したもので例えるなら、暴れ牛か旋風にでも襲われた案山子を見たような、と言ったところだろうか。
その鉄の車は「キキーッ」とけたたましく、ひどく耳障りな音を立てて止まった。
リトは呆然としたまま、何が起きたか理解することが出来ない。
車の扉が開く。
「ひどい運転だなあ……」
中から出てきたのは、純白のスーツと帽子を身に付けた優男だった。
爽やかな笑みを浮かべた優しげな瞳、艶のある黒髪。リトが一目見て思った印象は『王子様』だ。
スーツなど知らないリトにとって、どこか遠い異国の王族が着る装束と言われても違和感はなかった。
もう一人は、優男とは対照的だった。皮のコートに耳に開けたピアス、どこか纏う雰囲気は堅気の人間ではない。
いかにも悪党といったような表情を見せながらリトに近づいているのだ。
しかし、彼が掛けている黒眼鏡は、リトにとっては一生かけても手の届かない高級な品であることは理解できた。
なおのこと素性が全く知れない二人である。
彼らはリトには理解できない異国の言葉を話していた。もっとも言葉が通じた所で何を話しているのか、理解出来はしなかっただろう。
それはこんな内容の会話だった。
「ケイジ……本当に免許、貴方は持っているんですか?」
優男は非難するように、そのケイジと呼ばれた人相の悪い男を責める。
「当り前だろ。 そもそもろくに運転もしない奴が、他人の運転に文句をつけるのは良くないぜ」
「まさか命を危険に晒した代償に文句を言うことも許されないんですか?」
「昔、俺と付き合った女はそういう女だったな。 それはさておき、俺はこう見えて免許を取る前から運転しているんだ、だから下手なはずがないだろう? ペーパードライバーのお前と違ってな」
「それはとっても安心できますね、ベテランドライバー。 一生、あなたは運転手をしてたらいいじゃないですか、初日でクビにならなければですけど」
この優男が他人を非難したり皮肉を言うことは、誰にでもすることではない。
実のところ、なかなか人に出さない稀な姿ではあるのだがリトはそれを知る由もない。
彼女にその時できたことは、腰を抜かすことだけである。
無意識にではあるが突発的な事態と疲労、その両方のためにリトは既に自分の両足で立ち上がることを放棄していた。
「貴方の運転のせいで、彼女を驚かせてしまったではないですか」
優男は彼女の失態を単純に驚かせたため、としか捉えていない。
彼は、使う言葉を一変させてリトの知っている言語を口にした。
「お怪我はありませんか?」
「……はい」
優男の背後では子鬼たちが大慌てで逃げ出していた。仲間の不幸を嘆く暇もなく、とにかくこの理解不能な事態から離れようとしていたのだ。
奇しくも、リトを害そうとしていた子鬼たちのほうが、リトの心情を理解できる立場にあったのである。
同じ人間でありながら、まったくリトの心情を理解できない優男は爽やかに語りかけた。
「なぜ、こんなところにいたんです?」
「えと、山菜取りに……」
「それにしたって、こんな危険なところで女性一人は危ないですよ」
「……いえ、普段は子鬼がこんな人里近くまで降りてくることはないんですが」
「子鬼? ああ、さっき『ケイジ』が轢き殺した動物ですね。 ちなみにあれは轢いても問題のない生き物ですか?」
ひどい質問である。
邪気がない笑みを浮かべながら優男は尋ねるが、リトは言葉に困った。
リトは命を救われたのは間違いないが、『この妙な鉄の車で、子鬼を轢くことに問題があるかないか』で言われれば理解の範疇から離れる事柄なのである。
返事がないことに優男は首を傾げるが、なにかを思い出したように頷いた。
「ああ、失礼。 そういえば、まだ僕たちは名乗っていませんでしたね。 僕の名前が『ヨシキ』、こっちの悪人顔の彼は『ケイジ』です」
「ヨシュキさん……に、ケージさん?」
「んー、発音が少し違いますがそれでいいです」
そこにケイジがヨシキを睨みながら、文句を言った。
「ホストみたいな恰好でナンパしてる奴に、面がどうこう言われたくないね」
リトには彼らの言葉はわからないが、ケイジが悪態をついたことだけはわかった。
それをヨシキは無視する。
「彼は態度が粗暴だし、いかにも悪そうな人でしょう? でも怖がることないですよ、ああ見えてなんだかんだ……」
一瞬、ヨシキはケイジをフォローする素振りを見せたが。
「いえ、見た通り性格も悪いですね」
結局のところ、そう言い切った。
ケイジは舌打ちするが、またしてもヨシキは無視した。
「僕もケイジも貴女の言葉はわかりますから安心してください。 残念ながらケイジの方は話すことは出来ませんが、意思の疎通には支障ないでしょう」
「はあ」
全くもって展開についていけないリト。すでに彼女に冷静さはなく、ただ流されるままである。
そこに畳み掛けていくヨシキ。
「さて、お嬢さん」
「お、お嬢さん!?」
「僕は花のように可憐な貴女のことを、なんとお呼びすればよろしいでしょう?」
「か、可憐だなんて……私の名前はリトです」
「リトさん。 ああ、とても可愛らしいお名前ですね、貴女にとても似合っていますよ」
普段ならこの微笑みを浮かべながら、リトの手まで握り始めた男を怪しんでしかるべきなのだが、今のリトは冷静ではなかった。
「よく見れば、この優男はかなりの美丈夫ではないか」などと考えてさえいるのである。
自分の身近にはいないようなタイプの美形にそう言われ、腰を抜かしながらもきっちり赤面する辺り、余裕が出来てきたと言うべきか、あるいは非現実的な状況の連続に舞い上がっているとみるべきか。
「なんだ、こいつら。 ……ここはお見合いパーティーの会場じゃねえぞ」
その背後で彼らを眺めるケイジは鳥肌をこらえながら、一人悪態をついていた。
残念ながらこの男、それほど我慢強くはない。
「おい、俺は腹が減ったぞ。 哀れに思う慈悲があるなら出発させてくれ」
それがケイジの心からの台詞であると察したヨシキは、彼に頷いて見せた。
「すみません、リトさん。 僕の相棒がお腹をすかせているみたいで……この辺りに食事処はありますか?」
「あ、うちが宿屋ですけど。 食事も出来ますよ」
「本当ですか? それはありがたい、寄らせてもらえれば何よりです」
「それなら、ごちそうくらいさせてください!」
「え、いや、さすがにそれは……」
結局、リトからの申し出に対しヨシキは二度遠慮して見せるものの断りきれず、ケイジがイラつかせる姿を見せたのもあって素直に受けることとしたのである。
案内をする際に、リトが腰を抜かした態勢のままであることをようやく自覚して赤面し、それを見かねたヨシキがお姫様抱っこをしたことで、さらに恥じらいのあまり全身を真っ赤にさせることとなったのは割愛する。
山から村に降りることが決まった際、ケイジは鉄の車に手をかざした。すると、一瞬にして光の粒となり消失した。
その不可思議な光景に対し、リトが疑問に思い二人に尋ねると彼らは相談を始めだした。
結局のところ、二人は「詳しくは言えない」と思わせぶりなことを言って教えてくれなかった。その代りこの黒い鉄の車はなにか、と言う質問には答えてくれた。
曰く、「これはセダンだよ」とのこと。
それがまったくリトには理解できなかったので、リトは二人を理解しようとするのをやめた。
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