8




「起きなさい」


 その声に目を覚ました清正は、頭上に広がる晴天を見て、なぜ自分が外にいて、いったいここはどこで、そして右二の腕の異様なまでの強張りはなんなのかを思案した。目が覚めたばかりの脳の動きは緩やかで、それ以前に全身が痛い。体中が軋んでいると言っても良い。


 起き上がろうと両腕に力を入れた瞬間、ただでさえ強張っていた右二の腕に激痛が走った。


「いってえ!?」


 思わずそう叫ぶほどの激痛。涙目になりながら右をさすり、今度は刺激を与えないように左腕だけで体重を支えて清正は起き上がる。空から地上へと降りた清正の視界に、座ってこちらを見る水月の姿が目に入った。そして、清正は右二の腕の異様なまでの激痛の理由を思い出した。


「水月さん」


「だから気持ち悪いんだけど」


「その前にひとつ言うべきことがあるのでは?」


 さん付けを徹底して気持ち悪がる水月に対し、清正は恨みがましく言う。それに、水月もさすがに申し訳なさがあるのか「あー……うん」と視線を逸らした。


「うん、枕、すごく寝心地が悪かった」


「やかましいわ!」


 人がわざわざ右腕を差し出した挙句、激痛に苛まされているというのに、なんだその言い草は。そう清正が怒るのは道理で、それに水月は「ごめん、ありがとう」と即座に付け加えた。取って付けたようなものではなく、むしろこちらを言おうとしたら先の言葉が出てきたという感じだ。


 そろそろ朝練組が来るころね、と水月が立ち上がる。慣れない野宿……どころではないのだが、とにかく屋上の固い地面で寝たのは水月も同じで、体の動きがどうにもぎこちなく、顔にも声にも疲労が見えた。


 そんな水月の動作を追っているうちに清正の目も覚め、何がどうしてこうなったのかを思い出す。


「………………ノームよ」


 地面に触れて精霊ファミリアに声を掛けるが、反応はない。どうやら、夜だから使えなかったというわけでもないようだ。あの謎の手も逃げるのには必死になったが、元素使役デスモスが使えない原因とは言い難い。となれば残る原因は。


「あ!」


「どうしたの?」


「鞄!」


「あ」


 となれば残る原因は池に落ちたことだろうと清正が昨日の出来事を思い返していたところで、鞄が手元にないことを思い出した。それに水月も気付いて、思わず自分の手を見る。


「あ~まずいな、池の中かな、睦樹から借りたCD入ってるんだよな……」


「文化祭関係の資料……」


 共に鞄の中に入ってるものを思い出しながら頭を抱えるが、どちらにしても取りに行かなければ話にならない。だが、だからと言ってすぐに建物の中に戻るかと問われれば、なかなかそうは覚悟が決まらない。


 昨晩の謎の手。


 はっきりいってしまえば、清正の記憶には「女の手」が池から出てきた、というくらいしか、明確なものが残っていない。あとはひたすら逃げていただけで、視界の端に時折ちらと除く何かも極力見ないようにしていたのだ。言ってしまえば清正は本能で逃げていた。何かに追われているという不確かだけれど確実な恐怖によって逃げていた。つまり、清正はあれが結局のところなんだったのかを、知らない。


「なあ、水月」


「今度は何?」


 鞄の中身を気にしていた水月は、清正の声に振り返る。


「あの腕ってもう出てこないと思う?」


「貴方が『とりあえずひと晩待ってみよう』って言い出したんでしょ」


「そりゃそうだけどさあ」


 だって、日中にあんなもの見たことねーもん、という清正に、水月は「そうね」と息をついた。


 確かに清正の言うことは尤もで、日中、生徒も先生も学校にいる時間帯にあんなものは水月も見たことはない。だから、朝になって人が来ればなんとかなるのでは、という清正の言い分も一理あった。


 一理あったのだが。


 はあ、と清正にバレない程度に溜め息をついて、水月はぱさぱさになってしまった髪を掻き上げる。


 昨晩は水月もまた疲れていた。池に落ちて、変な女に追いかけられて。水を含んだ制服は重く、ローファーは走りづらくて敵わなかった。そうして漸く安全地帯と思しき屋上に辿り着いて、即座に逃げ出した清正と合流して、そこで彼が提案した「ひと晩ここでやり過ごそう」というものは、あまりに魅力的で甘美だった。


 とはいえども、だ。


 水月は頭を抱える。


 冷静になってみれば人のいない学校の屋上で男子と二人きりなど論外だ。風紀がどうのこうの以前の問題だ。ましてや腕枕をしてもらうなど、いくら相手が昔馴染みとはいえ、昨晩の自身の言動に水月は記憶ごと消し去りたい気持ちにさえなる。


 とはいえ、じゃああの謎の女が追いかけてくる校内でひと晩明かすかと問われればそれも論外で、屋上といえども校舎二棟分の広さがあるのだから離れて寝れば良かったのではと言われればやはりそれも論外だった。


 はっきり言って、水月は怖かったのだ。


 当然と言えば当然だ。シフターが使えない中で起こる、元素エレメントの理屈ですら説明できない現象。超常現象といったものの存在を水月はかけらも信じていなかったけれど、目の前にしたら信じるほかなく、かといってそれが自身に害を成そうとしてきたときの対処法などわかるはずもなかったのだから。


 清正と合流できたとき、水月は心の底から安堵した。彼でさえ元素エレメントが使役できないのを知らされたときは絶望しかけたけれど、少なくとも前も見えない暗闇の中でひとりになる心配はないとわかった途端、ほっとした。


 つまるところ清正とひと晩過ごしたのはあくまでも自分の身の安全度が高い手段を選んだがためであり、決して疚しいことなど何一つない。そう水月は自身の行動を納得しようとするも、けれど腕枕はなかったのではないかと頭が痛くなってくる。


「あれ、西門開いてる」


 そんな苦悩する水月の耳に届いた清正の声。


「え?」


 それに水月は顔を上げた。


 気づけば清正は立ち上がって屋上のフェンス近くまで移動している。そこに並んで水月も下を見下ろせば、朝練組と思われる生徒たちが西門から入ってきているところであった。


「西門ってもう使ってなかったよな」


「……ええ、そのはずだけど」


 清正の言葉に水月も頷く。正門とは反対の位置にある西門は、今となっては業者関係や大型車両が入るとき以外は使用されていないはずだった。清正も水月も、西門を見たことはあるが、普段の西門には大きな南京錠のようなものがかけられており、専用の鍵を複合元素コンポジットによって作り出さなければ開かないようになっていた。


 その西門が当然のごとく開いているというのは不自然で、清正と水月は顔を見合わせる。


「……とりあえず、登校始まってるし、試しに降りてみるか?」


「出てきたらどうするの?」


「校庭まで逃げる」


「結局逃げるのね……」


 とはいえ、手段としてはそれしかない。いつまでもここにいても仕方ないのも事実なので、清正も水月も覚悟を決めて屋上から降りることを決める。いざとなったときにすぐ走り出せるよう、ガチガチに軋んでいる体をほぐしながら、どこに行くか、その間の鏡の位置はどこか、遭遇した場合どこにどう逃げるかを相談する。


「間違っても人を盾にして逃げるとかなしだからな」


「人を置いて真っ先に逃げた弱虫が何を言っているのやら」


 清正の言葉に返す水月の言葉は冷たい。それに清正は「う」と言葉を詰まらせる。


「よ、よし、こうなったらあれだな、二人で逃げるよりもバラバラに逃げよう。どっちを追いかけてきても恨みっこなしで」


「別にいいけど、相手がひとりとは限らないんじゃないかしら? 昨晩、貴方が逃げている間、私も逃げていたんだけど?」


 これでどうだ、と提案した清正に、やはり水月は冷たく返す。よほどひとり置いて行ったことを根に持っていると踏んだ清正は「あー……」と言葉を濁らせつつも、小さく「ごめん」と謝罪した。


「別に、気にしてませんけど」


「めっちゃ気にしてる声なんだよなあ」


 ストレッチを終え、深呼吸をして清正は体を起こす。目覚めたばかりの頃はがちがちだった体が大分ほぐれた。これならば、それなりに走ることもできるだろう。


「ところで水月」


「何?」


 清正が横でストレッチをしている水月の方を向けば、ちょうど大きく伸びをしているところであった。上に引っ張られたワイシャツがスカートからはみ出て、彼女のへそがちらりと覗く。


「………………一応聞くけど、お前、あれの正体見た?」


 何も見なかったことにして、清正は言葉を続けた。


 昨晩、清正は逃げるのに必死で正体を見る余裕などなかった。けれど、水月は昨晩「鏡面に類するものから出てくる」と言っていたのだから、相手を見ていた可能性はある。だから、清正は尋ねた。


「女」


 だが、それに対して水月は、伸びを終えて腕を降ろしながらひとことで返した。腕の力によって上に引っ張られていたワイシャツは重力に従い、ちらりと見えていた彼女のお腹は白い布に秘されてしまう。


「いや、女なのはなんとなくわかる。わかるけど、ほら、どういう女だとかあるだろ?」


 超常現象番組とかでよく出てくるやつとかさあ、と言う清正に、水月は少しだけ首をひねり、それから「普通の女」と言った。


「普通って……」


「私もじっくり見たわけじゃないけど、普通の女に見えた。少なくとも、顔が崩れてるとか、白い服を着てるとか、そんな感じじゃない」


 そこまで行ってから水月は「見た目は」と付け加えた。


「そもそも鏡の中にいる時点で普通ではないでしょ」


「まあ、それもそうなんだが」


「少なくとも、ではないと思う」


 それは、しかしどうだろうと清正は首を傾げた。清正もまた、あれがまずいものであることを察したから逃げたのだが、いざと問われると、些か疑問に思うのだ。


「なあ水月――」


 あれに捕まったら俺たちはどうなると思う?


 そう問おうとした清正の声は、ばん、という扉の開く音によって音にならないまま霧散した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る