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 先までの状況を鑑みれば、この状態での足音ほど不吉なものはないだろう。だが、清正はその音に恐怖することなく、ただ首だけをそちらに向けた。茜と群青の混ざった空を背にして立つのは、自分と同じくこの学校の高等部の夏服――ただしびしょ濡れ――を着ている少女。清正と一緒に池に落ち――そして上がってからは謎の女の手から逃げるのに必死だったため、清正は今の今まで彼女の存在を忘れていたが、ここにいるということは無事だったということだ。


「あー、水月みづき、無事だったか」


「よくもまあ女子を置いてひとり逃げられるわね」


「襲ってきたのも女だったろうが」


 こういう場面では男が体を張るものでしょう、と揶揄する水月に対し、清正は「うらら、こわ~い」と裏声で返しながら体を起こす。


「普段は名字呼びするだけでブチ切れるくせに、こういうときだけ都合のいい」


「使えるものは親でも使うもんだぜ」


「意味が違う」


 呆れながら言う水月に、清正は「ふん」と鼻を鳴らして胡坐をかいた。


 水月の言う通り、清正は「麗」という自分の姓が嫌いである。いや、嫌いになった、という方が正しいだろう。字面はもちろんだが、読み方が「うらら」。女の子の名前のようなその名字を、いったい何度からかわれたことか。


「というか、いつの間に屋上に上がってきたんだよ」


「貴方が逃げた後、私も校舎に入ったのよ。あの女は鏡面やそれに類似するものから手を伸ばしてくるから、窓も水も鏡もない屋上に上がったの。暫くそこでどうしたものか考えてたら、貴方が無様に転がり出てくるのが見えたからこっち側に来ただけ」


 そう言って水月が指すのはコの字型校舎の向かいの屋上入口。清正もまたあちら側の一階から校舎に入ったのだから、水月は最短で屋上に上がったということだ。というよりも、この短時間よく相手の行動を観察している。


「外に出ようとは思わなかったのか?」


「最初は校門の方に向かおうと思ったけど、その段階では相手が鏡面から出てくるとはわからなかったし、何より、出ない方がいい気がしたから」


「校門の外にも何かいたとか、そういうオチじゃないだろうな?」


「あら、意外と怖がりなのね」


「言っとけ」


 むしろこの状況下で平静でいられる方がおかしいだろ、と清正は思う。普段なら絶対にやらないような自分の名字を使った冗談だって、こういう場だからこそ出たようなものだ。


 だがまあ、良くも悪くも水月と合流できたことは僥倖だった。ひとりよりもふたりの方が心強い。元素エレメントの使役さえできれば清正は別にひとりでも良かったのだが、何故か今は呼応がなく使役ができないため、彼らを使わない方法を考えなければならないのだ。


 それからふと清正は水月を見る。それに水月は「何?」と尋ねる。


「なあ、お前に聞いても無駄だとは思うけど、元素エレメント使える? 精霊ファミリア、反応する?」


 その問いに水月は一瞬嫌そうな顔をし、それから納得したように首を横に振った。


精霊ファミリアに関しては、私はもともと呼応されたことがないからわからないけど……元素エレメントに関しては、使えなかった」


 水月がポケットから掌サイズの長方形の黒い板を取り出した。それに清正は「そっか」と答えて同様のものを自身のポケットから取り出す。


「清正もダメだったの?」


「俺はシフターは使ってない。でも精霊ファミリアからの反応は皆無、初めてだよこんなこと」


 四角い板――シフターと呼ばれるそれを弄りながら清正が言えば、水月は「そう」と残念そうな声。それから、シフターも試してみて、と言う声。


「言われなくても、やってみるって」


 そう言って清正はシフターを握り直した。


 長方形の黒い板を強く握り、清正はこれから使うべき元素エレメントを思案した。


 元素エレメントは元来、自らの所属元素シィネルガシア以外は使役できない。だが、元素エレメントが事物を形成する以前の段階で維持保管する方法を見出した人類は、それを携帯することで万人が自らの所属元素シィネルガシア以外の元素エレメントを使役できるようにした。その携帯用の道具がシフターである。


 無論、所属元素シィネルガシアに関しては自然界にあるものを利用するので制限はないが、シフターに携帯してある元素エレメントは使い切りである。また、使用用途に関しても制限がかかる。シフター収納時に選択する用途以外では、基本的には使えない。


 清正は、自身のシフターに収納されている元素エレメントを思い出す。


 灯り用の元素エレメント――はダメだ、ここで失敗してしまったら、このあと暗くなっていく中でいざというときの明かりがなくなる。


 飲料水用の元素エレメント――も控えた方がいいだろう。ここで失敗したら、以下略。


 基本的にシフターには必要最低限の元素エレメントしか入れないのが通例だ。収納だけなら百は軽くいけるらしいが、単純な話、何を入れたかは記録されないので、持ち主が自分で記憶しなければならないからだ。


 あれこれと頭を悩ませ、それから清正は「これなら」というのを思い出した。


「決めたの?」


「使い捨てても別に問題ないのがあった」


 水月の声に応えてから、清正は口の中で「風よ……」と呟く。シフターを使用する場合は必要ないのだが、これは最早祈りのようなものだ。


「頼む、ぜ!」


 シフターを更に強く握り締めて、清正は前方に突き出した。



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