鏡界旅行
淳一
第一章
1
それはもう、持てる体力、筋力、その他すべてを脚に回し、全速力で走っていた。面倒で仕方なかった毎年のマラソン大会が、いかに生きていく上で必要な技術を行事化したものであったのかを骨身に沁みながら走っていた。びっしょりと濡れた制服が体に纏わりついて鬱陶しかったが、屋内とはいえ自宅でもない場所で服を脱ぎ捨てる趣味もなければ、脱ぐ余裕すらない清正はそのまま走り続けことを選んだ。
背後からの足音はない。何者かが追ってくる気配はない。だが、それをわかっていながら、清正は安心して立ち止まることもなければ、不審に思って後ろを振り返ることもない。
何かのお伽噺で読んだか、誰かの噂話で聞いたことがある。
こういうとき、振り返ってはいけない。
だが、その知識はあっても、どこまで行ったなら足を止めていいかを清正は知らなかった。いや、正確には知っているのだが、いわゆる出口とか終着点とか逃げるための部屋とか、そういったものが現状、どこに当てはまるのかがわからないのだ。
だから清正は走る。走るしかなかった。
時刻は夕暮れ時。西日が窓から差し込み、廊下には鮮やかな赤絨毯が敷かれている。廊下に面して連なる教室群は既に空だ。人影などどこにもない。下校時刻を過ぎた学校は、昼の喧騒を鏡写しにしたように静寂が漂う。
その中を清正は走る。当然、廊下を全速力で走る彼を叱る人間もいない。いつもなら鬱陶しい風紀委員も先生も、今この場に限ってはひとりもいない。
「あー、くそっ」
溜まった空気を吐き出すように毒づく。
出口も終わりもない追いかけっこなど死刑宣告となんら変わりはない。どこかに打開する策が転がっているのかもしれないが、それを考えるのに走りながらはきつすぎる。脳に必要な酸素が足りない。
相変わらず背後からの音はしない。けれど、足を止められるだけの安心はできない。
とはいえ、そろそろコの字型校舎の端に行き着いてしまう。その先にあるのは階段だ。現在、清正が走っているのは五階建て校舎の四階。下に降りるか上に昇るかの二択。
最適解は下に降りることだろう。そのまま一階まで降りて、玄関まで全速力で走り抜き、この時間であれば閉ざされているかもしれない校門を飛び越えれば万事解決、のはずだ。
だが、清正はその選択に不安を覚えた。当然、上に行けば行くほど清正の逃げ道はなくなる。最終的に辿り付くのは、出口とは真逆の屋上だ。追われている身で出口のない方に行くのはあまりにも馬鹿らしい。
それでも。
階段に辿り着いた清正は、迷わず上に向かう。踊り場の鏡からなるべく距離を取るように内側を回り、一段飛ばしで階段を駆け上がる。五階を無視して屋上に向かう。覗き窓もない、一見すれば固く閉ざされているように見える扉は、しかし鍵がかかっていないことを清正は経験から知っていた。扉を開けて勢いのまま屋上に転がり出る。ばたん、と後ろ手で乱雑に閉めた扉の音を最後にあたりは静かになり、清正はその場に座り込んだ。ここなら安心だという謎の確信があった。
「はあー……ったく、なんなんだよ……」
髪を掻き上げてため息をつく。心臓はまだバクバクいっている。ずっと走っていたせいで体は熱い。いっそのこと寝てしまえと横になれば、ひんやりとした床が心地良かった。相変わらず服はびしょ濡れで気持ち悪いが、脱ぐだけの体力が今度は残っていない。
暫し呼吸を調えながら空を見上げる。半分は赤く、半分は群青の空。このまま打開策が見つからなければここで夜を迎えることになりそうだと、清正はため息をつく。
それから、思い出したように右手を宙に掲げた。
「……土よ」
小さい頃から呼び慣れた
「ダメか~」
くそ、と床に右手を叩き付ければ、右手を痛めるだけで終わった。
今日はとにかく災難である。いや、途中まではなんてことない一日だったのだが、校内神社の近くにある池に落ちたあたりから様々な運勢が暗転したと言っていい。そもそも池に落ちただけでも災難だと言うのに、上がろうとしたら女性のものと思しき手が池から伸びてきて服を引っ張っていたのだから、情けない悲鳴のひとつも上がるものである。振り払おうと精霊を呼ぶも、今のようにまったく反応なし。
どうしたもんかなあ、と大の字になる清正の耳に、かつん、という靴音が響いた。
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